武田信玄は過大評価されすぎ part4at SENGOKU
武田信玄は過大評価されすぎ part4 - 暇つぶし2ch2:人間七七四年
14/02/23 15:16:10.18 E/jMwCDP
・平和な甲斐に生まれる(父親、武田信虎の功績により甲斐の国主=武田の状態が確立)
・家督争いの引き金になる弟が、信玄に無条件で忠義を尽くしてくれる
・偉大な権力を持っていた父親が、自分で身を引いて信玄に全権譲渡
・重臣の中で権力を持っていた板垣と甘利が勝手に自爆→信玄にやりたいように政治ができる

ここまで恵まれた相続を行いながら戦って滅ぼした主な相手は

諏訪頼重 
高遠頼継 
村上義清
大井貞隆
小笠原長時
笠原清繁   →  全て足して約40万石

戦国好きですら信濃豪族の勢力を全て網羅している人はそういないだろう
名前の残らない無名勢力を滅ぼしただけである

今川氏真   →  遠江一部、駿河で約40万石、しかも追い詰めたのは家康w

3:人間七七四年
14/02/23 15:18:35.36 E/jMwCDP
関連スレ

武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
スレリンク(sengoku板)

武田信玄の凄い所って結局どこよ?
スレリンク(sengoku板)

武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part4
スレリンク(sengoku板)

4:人間七七四年
14/02/23 17:25:15.30 O5dhDyb1
>>1

5:人間七七四年
14/02/23 20:59:38.32 OFYSZW2A
山が面倒 はい論破

6:人間七七四年
14/02/24 17:33:52.50 5obbHfgH
妄想に妄想で反論するスレばかり増やしてどうするw

7:人間七七四年
14/02/24 19:49:39.76 ztofRaFz
過大評価なのは事実だしそこからよ

8:人間七七四年
14/02/24 23:40:45.81 r3lZBVBe
地方の弱小豪族相手に二度も死に掛け(上田原、砥石崩れ)、川中島では弟信繁を討死させ(自身も負傷)
莫大な犠牲と長い年月を費やし、まさに死ぬおもいで弱小豪族達から掠め取ったのが信濃一国(一部北信は除く)
その後は西上野の弱小豪族から領地を強奪、さらに弱体化しきった今川を若輩徳川家康と共同攻めも
逆に徳川と北条に挟撃されるまぬけっぷり
西上作戦では、三方ヶ原で織田徳川連合軍を壊走させたが、何故か滅亡寸前の織田(ソースは武田厨)を放置
徳川領の野田城、長篠城を落として、そのまま敵に後ろを見せる形で撤退し浅井・朝倉を見殺しにしてしまう
これが災いして、信玄没後僅か9年で名門甲斐武田氏は、西上作戦時滅亡寸前だった織田によって速攻滅ぼされる

どう贔屓目に見ても武田信玄は超が付く過大評価

9:人間七七四年
14/03/01 06:56:24.40 pUH9TpJ/
ロクなことしてないしな

10:人間七七四年
14/03/01 21:48:00.53 x48gRQF8
信濃 50万石
甲斐・駿河・西上野 50万石

信玄の最大石高って100万石かよ><

11:人間七七四年
14/03/01 22:12:15.16 L3STprXI
信玄は対信長、領地経営を見ればやってることは朝倉義景以下なんだよね

12:人間七七四年
14/03/01 22:13:33.35 67c/lR2e
占い信じて軍事行動決め、
気に入らない奴は呪い殺そうとする。
重税で民の逃散が相次ぐ。
同盟破棄で敵を作りすぎる。

まともな政策してない…

13:人間七七四年
14/03/02 13:52:48.85 UOUGC6c/
論理的な思考は苦手っぼいね信玄

当時の武将の中でも、特に占いを重視してるし、
戦略も内政もその場しのぎのものが多い

14:人間七七四年
14/03/06 04:40:00.63 ouJzm7E6
信玄の思考回路と武田厨の思考回路は似ている

15:人間七七四年
14/03/06 15:22:45.28 J5zBV2nv
声優の遠近孝一さんがマニアックに戦国時代を語る無料配信番組です。

戦国ネット「すきらじ」
第25回「風林火山」
URLリンク(www.suki-radi.com)

孫子の旗について興味深くぶった切ってます(笑)

16:人間七七四年
14/03/13 21:37:31.69 M4gzEiex
>>12
武田信玄は信濃だと諏訪村上などへの行状から蛇蝎の如く嫌われ
マンセーしているのは甲斐こと山梨県民くらいなんだが
その山梨県民の大半は甲州崩れ当時に武田を裏切った連中の末裔ばかりというw
当主からして武田の血など入っていないエセ子孫だし
所詮金儲けの道具でしかないw

17:人間七七四年
14/03/14 21:24:57.57 SRPvyYL9
>>16
長野県で嫌われてるとするソースはまだなの?

18:人間七七四年
14/03/15 21:41:12.31 23QZf7hv
1582年に武田家臣自ら証明しちゃったじゃん

19:人間七七四年
14/03/16 11:16:24.35 31+eUeoA
1582年2/14 浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
(一次史料を確認するとこの日が織田軍の信濃侵攻開始日なのがわかる)
2/16 五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた
(陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)
3/2 織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取る(織田の武田攻めの戦果はたったこれだけ。のちに信忠は高遠城に勝頼もいて苦戦したと大ウソを吐く)
3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)
3/12 多聞院が天候不良と先頃の光物の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)
3/15 正親町天皇が庭上之作法をやってたらなぜか雨が止んだ。天道之感応奇特だわ~と公家達か感嘆した(濃尾之暦者って馬鹿じゃんw最近の天皇力すげぇな!)      
3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!などと多聞院が記録する(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
また最近の大風霰飛火逆雨の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたからだ(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
まぁ戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(もうキチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。

20:人間七七四年
14/03/16 11:19:12.20 31+eUeoA
晴豊記 2/14   浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
兼見卿記 2/14  この日の夜に和仁親王が体調を崩す。
立入左京亮入道隆佐記 天正十年二月十四日夜。従北方赤雲天下を覆い、その色の光明は朱の如し。信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬。
晴豊記 2/16    五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた。
        (陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)

フロイス日本史  3/8 豊後からの報告とも照らし合わせて、信長出陣前に起きた浅間山噴火をデウスの示し給うた現象だったのだろうと書く。
フロイスが使ってるのはユリウス暦だから、日本の暦で言うと2月14日。 URLリンク(maechan.net)

兼見卿記 3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
        信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
        天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
        しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)

多聞院 3/12 多聞院が天候不良と先頃の「光物」の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)

多聞院 3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
       最近の「大風霰飛火逆雨」の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたから(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
       戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(キチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
       多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。

21:人間七七四年
14/03/16 11:20:12.04 31+eUeoA
傍証としてさらに二次資料の信長公記から補填してさらに自説の追加補強
織田軍は遠陣だから兵糧が足りなくならないように わざわざ兵力調整してたのに すぐ軍を解体して逃げるようにして
速攻で甲斐から領国へ帰ったの? なんで甲斐で一揆がおきたの?
当時の甲斐はあきらかに食料不足だよね。これ火山の被害じゃないの?
3/20に木曽や穴山に会い、23日に滝川に関東行きを命じた信長だったが、
兵糧に困窮した織田軍は占領した深志城(松本)の兵糧を
3/24に分配するほど追い詰められてる。
3/26には馬の飼料を北条から貰うほど困窮。
3/28には信忠も甲斐から諏訪へ逃亡。
それですら、人があまりにも寒くて多く死んでいったから、
29日には開陣して諸将はいそいで帰国。 なんで大量に死んでるのかなぁ?
噴火被害で荒廃した甲斐で馬の飼料どころか一切の食料が手に入らず、よって体の熱量不足になり、
おまけに噴煙の影響で天候はボロボロ(3月末なんて5月上旬だし)
もう甲斐から逃亡するしかなくなったからだよね。 そして荒廃した甲斐ではついに一揆が起きて川尻が殺される。

木曾から援軍要請が来ても武田領へ侵入出来なかった織田軍の噴火日から侵攻開始。
北条氏政が16日付け書状で八王子城へ向けて、甲斐の情報が全く入ってこなくなったと情報途絶を報じ、さらに様子見で軍を出すのを延期。
19日に勝頼夫人が武田八幡宮に対して、 勝頼に罪がないのにと天意に対して抗議しているが、天意とはまさに天変地異のこと。
織田軍を迎撃すべく出陣してきた武田軍が、全く戦わず撤退したどころか謎の瓦解(高遠城で百人討ち取られただけ)
援軍を出し始めた同盟国越後上杉氏にも逃げられる浅間山のある真田領へ勝頼は逃げず、なぜか小山田領に逃げる謎。
甲斐で一番浅間山に近い場所にわざわざ集まり僧たちが人身御供とも言われる観音様に祈りを執行する。
浅間山噴火について丸島和洋氏は、晴豊公記の東方に厚い雲が垂れ込め、空が赤く染まる様子や、
多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね

22:人間七七四年
14/03/16 11:22:29.85 31+eUeoA
公記は天罰・朝廷は神威・教会はデウスの力 奈良興福寺は甲斐信濃滅亡の怪異・大風霰飛火逆雨
恐ろしいまでの天変地異が甲斐を襲ったんだろうね。
火焔が飛び散ってきたからこそ一の宮が流されたのかもな・・・・
そりゃあ勝頼も真田領から同盟国上杉へ逃げるのを断念して、
敵である北条を頼って小山田領へ行かざるを得ないよな。

フロイスがなんで神の起こした災害の場所へ恐れを抱かず
信長が進んで行くのか疑問に思っていたが・・・
立入左京亮入道道隆佐記には浅間山噴火を見た信長について書いている。
信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬
はい、信長が火事場泥棒をしようと他国の災害を大喜びしていたのが確定w

先日の東北大震災でみんなが避難した後に、外国人盗難集団が鉄パイプ装備で家々を荒らしまわって
略奪して回った事件を思い出したわ。
北条早雲が駿河大地震で崩壊した伊豆国を襲撃して
組織的抵抗できない堀越公方から国を奪った時と同様に
武田もほとんど組織的抵抗もできずに災害便乗型強盗武力団に領国を荒らされたのだろう

多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね
塩山向獄禅庵小年代記 天正10年3月
開山徳和之観音堂へ各僧衆御伴申三日三夜奉移と書かれている。
徳和之観音堂とは三富村(旧山梨県東山梨郡)の観音堂で三日三晩の御祈祷をして下山したそうだ。
これは重大な意味を持つ。この村の位置はまさに甲斐・信濃・上野との県境にある。
そして浅間山からも近い。なぜこのタイミングでここに各々の僧が衆を伴って
3日間の山篭りをして祈祷しているのか(山梨県笛吹市の北に位置する事実)
察するに2月中は噴火の影響で近づくことができず、噴火被害者を弔うことができなかったが、
ようやく混乱が落ち着いてきた3月になり、浅間山を望むことができる山上へ登った
各地から僧に伴われた遺族達が被害者を観音様に見立てて鎮魂し、浅間山の荒ぶる神を沈める祈祷をしているのだ。

23:人間七七四年
14/03/16 14:36:07.84 31+eUeoA
浅間の獄の焼けるは東国の物怪とまで、
興福寺の僧侶は古人の言葉を引用してまで、
物の怪の怒り暴れる姿に恐れを抱いた。
中世における地球の活動から来る天変地異は、
物の怪と解釈されパニックとなったのである。
しかし凶悪極悪犯罪者にとっては、
そこは略奪虐殺三昧の治安崩壊地となるのであった。
天変地異を世界の滅亡と捉え恐れる良民とは実に哀れなものである。
実際に反社会的性向の札付きのワルの織田軍がこの世の終わりを現出させるべく、
考えられる限りの悪逆無道な行為をして回ったのだから。

大日本地震史料 増訂を読めば
文部省と大森氏・今村氏・石本氏・田山氏・武者氏おいう錚々たるメンバーが
天正10年浅間山噴火を支持してるのは確定的じゃねぇかw

江戸時代以前で噴火の記述で一次史料ソースがあるのは
1108年の上野国壊滅報告もあった公家による記述である中右記
そして同じく公家と宣教師の記述がある武田滅亡の噴火
そして江戸幕府の記録にある1783天明浅間山噴火(この時は京からは視認されてないので小規模噴火だろう)
この3つしかないから。

24:人間七七四年
14/03/16 16:21:49.30 EhJNkEsG
いつになったらその噴火の被害に対する行政文書出せんの?

25:人間七七四年
14/03/16 17:51:23.46 n7uQQW0e
無政府状態になって混乱を極め、
ついに全域で一揆が発生するほど過酷な国情になってたのに行政文書なんてあるわけねーだろ。

26:人間七七四年
14/03/16 18:18:43.03 zvIdTuxD
山1つ噴火しただけで
家が滅亡するなら
信濃の連中は噴火する
その都度滅亡が
必要になるなw

27:人間七七四年
14/03/16 18:39:50.25 EhJNkEsG
武田の文書でなくていいよ
北条のでも徳川のでも織田のでも
噴火で被害が凄いから税免除ってなもんを
そういうのなしに噴火噴火行ってるわけじゃないよね、まさか

28:人間七七四年
14/03/16 22:26:48.44 2GFOSp5V
噴火は起きたとしても
他の大名家から特に記されないレベルの噴火で壊滅したのなら
武田もしょっぱいな

29:人間七七四年
14/03/17 04:20:25.46 aCAEtBer
だがの頭が大噴火しただけやろ?

30:人間七七四年
14/03/17 08:51:57.76 ZyWn4Buc
そもそも天災被害がわかるような一次史料なんてこれに限らずほとんど存在しない。
なぜなら記録を取る人自体が極めて限られた人のみしかやってないし、
その記録者がたまたま居合わせてないと被害記録がなされない。
日記をつける人が災害先に記録をしに出かけるなんてバカバカしい習慣は無い。

31:人間七七四年
14/03/17 09:16:35.62 091NNmhJ
菅沼遼太理論だと行政文書が消滅するレベルの甚大な自然災害だったのに
なぜか浅間山付近に領地をもつ北条に被害は出なかったらしい
信濃には木曽義昌ら織田軍がうじゃうじゃいたがこれも被害は出なかったらしい
武田軍は被害甚大でまともな抗戦すらできなかったが噴火で死んだ武将もいなかったらしい

32:人間七七四年
14/03/17 14:50:22.31 EJ4b87Z2
武田神社に行ったんだけど、社務所の若いアンチャンとネエチャンの
態度が酷かった。
御朱印をもらおうと思って「すいません」って声かけたら
アンチャンにガン飛ばされたわw
しかもそいつが御朱印を書くもんで一気に冷めた。
今まで行った神社仏閣で最悪。
もう二度と行かねえ。

33:人間七七四年
14/03/17 16:32:43.96 68mDqGr2
武田神社なんて拝金主義の
連中が集まる場所だからな
信玄のことより現金のことが
好きな連中の集まり
上杉謙信を祀った上杉神社とは
えらい違い

34:人間七七四年
14/03/17 17:07:23.41 kmQ8h0/S
>>31
北条氏政が16日付け書状で八王子城へ向けて、
甲斐の情報が全く入ってこなくなったと情報途絶を報じ、
さらに様子見で軍を出すのを延期。
この延期で出遅れた北条はのちに信長の不興を買っている。
同盟国越後上杉氏にも逃げられる浅間山のある真田領へ勝頼は逃げず、
わざわざ敵地北条領へ逃げるため小山田領に逃げる謎。

35:人間七七四年
14/03/17 17:33:29.27 WfCwqhFQ
それが行政文書?
面白いことを言うね
九州からも見える赤いソラを見て北条が書き残した史料はそれだけなんかいな?

36:人間七七四年
14/03/17 20:02:57.41 68mDqGr2
浅間山が噴火するとまず一番
被害が蒙るのは山がある信濃と上野
なのになぜか「甲斐」からの情報が途絶したらしい

37:人間七七四年
14/03/17 20:25:51.72 Wojl4Ov/
また破局的災害の中を普通に進軍できるという織田軍無敵伝説をやるの?

38:人間七七四年
14/03/17 21:51:17.12 q6EnH7t9
村上義清が信玄に二回勝ったって言うのは認めるけど
長野に六回負けたのはさすがにないよなって思う

39:人間七七四年
14/03/18 08:45:10.44 eWvTdmUN
災害記録の行政文書なんて、そもそもこれに限らず、さらに時代を遡っても存在しない。
昔の人はそれを記録することに意義を見出してないから。
だからほとんどが後代に言い伝えとして残っていれば幸いレベル。
もし行政文書として記録されていたなら、東北大震災での大津波被害と原発事故を未然に防ぐ手立てにもっと投資していたと言われている。

40:人間七七四年
14/03/18 18:13:41.51 ioPnyL6W
水損で減免って文書を信玄君が出してます
信濃史料ご覧あれ
天竜川が洪水で渡れねえって日記もございます
東海どころか九州からも観測された大災害で農作物その他への影響がなかったとは言うまいな?
農民の生産が停滞して困るのは領主
そのために開墾したらしばらく無税とかキャンペーン貼って生産を奨励すつわけだ
思いつきでいい加減なことを調べもせずに言わないように

41:人間七七四年
14/03/18 18:15:20.56 ioPnyL6W
まあそのIDで出てくることはないだろうけど、最後の「...言われてる」は誰が言っているのか具体的に書いといてね

42:人間七七四年
14/03/18 18:21:40.33 cqaHEk6S
それは徴税や徳政といった性格のものであり、
災害被害を調査する目的で記録された性格の行政文書ではないわけだが。

43:人間七七四年
14/03/18 18:29:50.16 ioPnyL6W
じゃあいいよ
徴税やらが目的のでもいいから噴火したって行政文書出して御覧なさいな

44:人間七七四年
14/03/18 20:15:00.40 b3i3ebi/
浅間山噴火と共に滅亡した武田に行政文書が発給できるわけねーだろ。
織田厨は底抜けの低脳馬鹿だな。

45:人間七七四年
14/03/18 20:23:17.32 ioPnyL6W
勝手に自分の首締めるのは結構だが、それで難癖つけるのは遠慮していただきたい
北条でもおだでも徳川でも、周辺大名は少なかたず影響受けてるだろうに、九州からでも見えたんだろ?
まさか武田滅亡と同時に火山灰マグマが消え去ったとでも言うのか?

46:人間七七四年
14/03/18 21:35:27.84 b3i3ebi/
>>45
>>39

47:人間七七四年
14/03/18 22:00:13.18 ioPnyL6W
40を読んでから来ましょう

48:人間七七四年
14/03/18 22:18:36.24 ioPnyL6W
あといま読み返したら一つ大きな事実五人がある
武田が滅んだのは噴火じゃないから
災害で滅んだのは帰雲城ぐらいだ
自害を選んだ勝頼、そこまで追い込んだ滝川、その上司の織田信長、どれでもいいけど
譲って噴火があって弱体化したとして、それで滅亡させたとは言わない
今川を滅ぼしたのは織田とは言わんだろう

49:人間七七四年
14/03/19 00:45:39.99 wP2ZQoEn
大噴火して滅亡したのは個人情報を流出させられた菅沼君

50:人間七七四年
14/03/19 20:22:14.67 EsQ3NHvE
行政文書だせ→そんなものない→信濃史料にあるけど?→災害記録の行政文書じゃない→記録目的でなくても良いから行政文書だせ→そんなものない

最初は記録に残す習慣がないとすら言っていたのにねえ

51:人間七七四年
14/03/19 20:45:35.16 5XSftjSK
織田厨(笑)とやらに屈するのが嫌で言い訳こねくり回してるだけだからな

52:人間七七四年
14/03/19 20:45:45.67 PvDWIgqD
じっさい無いだろよ。

53:人間七七四年
14/03/19 22:53:07.06 5XSftjSK
史料がないということは「噴火の被害」を証明する一次史料がないということだからめでたく解決だね

被害を書く必要もないほどショボかったと

54:人間七七四年
14/03/19 23:53:52.61 DnzLXuYz
信玄を過大評価する奴は歴史を知らない馬鹿

55:人間七七四年
14/03/21 01:15:50.14 9C5QRyDs
52
信濃史料ってわざわざ書かれているのが見えないのか、見たくないのかどっちかな?

56:人間七七四年
14/03/21 08:22:53.40 aEpxw71r
で?って言うw

57:人間七七四年
14/03/22 20:43:19.61 0D5Wcx9N
【高根城(静岡県浜松市)】
URLリンク(mirai660.net)

58:人間七七四年
14/03/24 10:31:36.42 383DsDXQ
2ちゃんでは過小評価、世間では過大評価って印象

59:人間七七四年
14/03/25 20:08:43.06 du5xLPay
ここで過小評価される原因は菅沼

60:人間七七四年
14/03/26 07:59:17.35 nEs/aUlM
すごいよな
菅沼のお陰で、「○○厨」と書き込むことも出来なくなったし(ただし、武田厨と書き込むのはOK)
武田を叩く書き込みに意見するとどんな内容であれノータイムで菅沼認定されるもんな

61:人間七七四年
14/03/26 09:21:54.89 TRoKRbx+
川尻が一揆に殺されるなんて、あきらかに甲斐が噴火の影響で荒廃したのが原因だろうしな。

62:人間七七四年
14/03/26 09:43:16.48 77iuAdUw
で、あるか

63:人間七七四年
14/03/26 14:56:37.94 Mu8ljKvY
>>60
今一番迷惑蒙ってるのって明らか武田厨(菅沼除く)だよなぁ・・・
菅沼遼太の情報が漏れるまでは他の厨もどっこいどっこいな迷惑度だっただろうけど

64:人間七七四年
14/03/26 18:07:57.02 u/HJ3MyW
てか今じゃ武田関係なくキチガイは全部菅沼遼太扱いじゃん

65:人間七七四年
14/03/26 18:46:59.21 ciGEOzGl
一次史料の根拠を書いて論述されることで不都合が生じる
マンセー厨の織田24時間自宅警備在日にとって、
SUB・TOHO・だが・菅沼などと議論ではなくレッテルを貼ってまわり
単発ID自演で複数人を装い排除する手法が確立されてるからな。
同じ手法で信長は秀吉の才覚のおかげで天下統一寸前までいったという
論法をものすごく嫌がり、織田在日による強烈は敵愾心による豊臣政権排除を行うようになった結果、
現在の織田在日によるアンチ秀吉の爆撃コピペ人格が新たに生まれた。

66:人間七七四年
14/03/26 19:08:25.39 77iuAdUw
論述に置いて述語のねじれに気をつけろって言われなかったのかしら

67:人間七七四年
14/03/26 19:26:39.12 Mu8ljKvY
>>64
菅沼以外のキチガイもいるけど目立たないだけ
菅沼遼太が消えたら徐々に目立つと思うよw

68:人間七七四年
14/03/26 20:51:53.18 Obx0j6rT
菅沼がいるかぎり、どんなことをしても目立ちません。

69:人間七七四年
14/03/26 21:35:04.32 KzefbWb2
菅沼がいる限り2chの武田評価はガタ落ちなままか
ある意味ですごい影響力なのかもな

70:人間七七四年
14/03/27 06:45:11.80 X3bsN0jc
なお菅沼は織田厨に責任転嫁しようとしているらしい
しかし武田を出さないのですぐバレる

71:人間七七四年
14/03/28 15:03:25.98 gFuZC+ra
責任転換も何も○○厨なんてどっちもどっちな奴らだろ

72:人間七七四年
14/03/29 19:02:48.07 5hSrhsFA
本当に○○厨であるならね

73:人間七七四年
14/03/30 18:59:57.95 oNk3czD2
大岡城の城ラマ来てるね。
URLリンク(mirai660.net)

74:人間七七四年
14/04/03 23:39:56.66 GyN0wJkJ
これが武田信玄公だってよ。
ただの普通のおっさんじゃないか。
URLリンク(www2.harimaya.com)

75:人間七七四年
14/04/05 15:52:12.67 Nr/6mJ0/
>>1
信玄はしょせん雑魚w

76:人間七七四年
14/04/10 12:04:26.10 YjfygM9p
信玄ってリトマス紙的な存在だと思う

歴史を知らない人~初心者=信玄すごい!

歴史中級者頃=信玄は雑魚

歴史上級者=信玄はそこそこ凄いよ

77:人間七七四年
14/04/10 12:59:53.23 x4DB6hxc
ああ、三国志の孔明の評価も似たような感じだな。
中級者は演義の反動で低評価したがるけど
上級者になるとまた高評価になるという

78:人間七七四年
14/04/10 21:49:32.69 xcDUEd2H
仮にも中国王朝で時代屈指の名将扱いされている諸葛亮と
地方大名でしかない武田信玄を同一視するのは諸葛亮に失礼だろ
信玄は三国志でいえば袁術、劉表の如し

79:人間七七四年
14/04/11 08:44:29.55 mElw58cv
>>78
歴史を知るに連れて変わっていく評価の上がり下がりが孔明と似てるってだけの話だぞ?
信玄が孔明並みだのそんな話はしていない

孔明が好きなのか、信玄が嫌いなのか知らんけど、もうちょっと冷静になれよ

80:人間七七四年
14/04/11 19:45:52.89 bIk+KAX8
菅沼の反動がこの板での低評価の原因だろうが
まあ、地方ボス程度の器量はあった。
天下人の器には程遠かっただけで。

81:人間七七四年
14/04/11 20:54:58.24 k3H03EZ6
「器の大きさが~」ってのは何かなぁ…
単純に信玄には先見の明がなかったと思う

82:人間七七四年
14/04/12 12:54:38.44 VNygNCam
地方のボスとしても上杉や北条に勝てないだろ

83:人間七七四年
14/04/12 16:56:40.66 aMkSvscG
武田は山岳内陸国家だったから思いっきり不利なスタートなんだよな。
流通商業資本を一から育成しないとならんかった農業国家から
あれだけの成功を生んでいるのだから大したもんだ。

84:人間七七四年
14/04/13 13:34:41.25 YLxf3Biu
>>83
こう書かれると色々と荒れそうだな

まぁ、スタートが圧倒的に不利なのは同意
でも地形的に攻め込まれにくいっていう利点もあったわけで
世間ほどは凄くないけど、2ちゃんで言われるくらいに雑魚ではないな

85:人間七七四年
14/04/13 14:49:18.86 FQJoI0T7
いや駿河から超簡単に甲斐へ攻め込めるぞ。
小山田が北条と両属状態時代では、
小山田が町田領とかもってたくらいだから
小山田の協力さえあれば武蔵から甲斐へも簡単に侵攻可能。

86:人間七七四年
14/04/16 16:54:55.70 Ud0RzqTy
武田擁護は平地だから攻めやすいといったり山岳だから攻めにくいといったり、今度は山岳でも攻めやすいですか
信濃に膨大な時間がかかった信玄公もさぞお喜びでしょう

87:人間七七四年
14/04/16 22:14:43.08 gOAhrl9y
>>86
擁護の意味わかってる?
「○○だから攻めやすい」と書いたら「なんで攻めやすかったのに武田は~」という批判が出てくる
「攻めやすい」なんて言葉は武田擁護では使わないと思うけどなぁ…
>>84みたいに「攻め"られ"にくい」というニュアンスならわかるけど

あと信玄の信濃侵攻については2ちゃんでは過小評価気味だよね
信濃を甘く見すぎ

88:人間七七四年
14/04/16 23:14:26.50 XGWcIaVE
あんだけ山ばっかでだだっ広いところ取るのに時間かかるのはしゃあないけど
あらかた取った後で長尾上杉と泥沼の争いをまた10年近くやっちゃったのはなあ
関東片手間で空巣狙いまくれる相手なのに。

89:人間七七四年
14/04/17 05:03:18.16 AUFU3cT3
87
大抵「一方織田は平地だから攻めやすい」って珍説とセットだからな
何でもかんでも織田厨と言ってるやつ見てりゃわかるだろうけど

90:人間七七四年
14/05/03 21:55:51.61 kRmo/Bj+
信長は地の利や自国の国力に馬鹿みたいに恵まれてたからね

斉藤…道三・義龍・龍興と三代続けての内紛と幼君で混乱しクーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢… 木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で分裂、自壊
今川…たまたまおきた遠州騒乱と松平独立で極度に弱体化
六角… 観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化、信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家… 三好や松永らの反逆で権威が落ちきり形骸と化し信長に助けを求める
播磨但馬丹波…守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない
摂津… 石高がわずか12万石しかない
浅井…もともとは織田方で上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。石高はわずか10万石程度
波多野…石高は10万石以下。
上杉…謙信死後の御館の乱や新発田の乱で自爆崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除

91:人間七七四年
14/05/03 21:56:11.12 kRmo/Bj+
信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。

そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。

92:人間七七四年
14/05/03 21:56:39.68 kRmo/Bj+
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。

斉藤が三代続けての内紛や幼君での混乱・クーデター騒ぎで弱体化しきっててまともに抗戦するものが皆無で自落していったし
義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけ。
その上さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてただけ。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になる。

93:人間七七四年
14/05/03 21:57:16.85 tAcIsIWB
信長の周りには畿内で賢主と呼ばれた大名はみんな死んでいて最盛期が過ぎ 衰退に向かっていく弱い大名ばかりだが
信玄の周辺には実力が同等国か同盟国ばかりだった。 仕方ないから謙信方面に行くしか道がなかったよね。
北条・武田・上杉の三国が互角の鼎のように竜虎獅子が合い戦う強豪っぷりだったしな。
武蔵国の名は武器の蔵と言われていたと信玄も言ってる。 家康は武田旧臣を配下に入れて翼が生えたようなもんだ。そのおかげで信濃や甲斐が統治できたしな。
そんな中で勢力拡大してた武田さんは素直に凄い

94:人間七七四年
14/05/03 23:49:59.92 bMoQyh4D
そんなチート性能持ってたのに、朝倉やらに協力仰いで、待機してお手紙をのんびり書いてたら死んだのか
チャンスを掴む能力がとことん欠如してたんだね

95:人間七七四年
14/05/08 22:06:16.47 m2bqCJwR
武田信玄は織田信長と同じように、徳川家の江戸幕府政権の影響があったから評価が過大になったんだよ。
それは信玄の次女が、保科正之をお江の魔の手から守って会津藩を作れるきっかけを作っただけでなく、水戸家の原点も作った
(頼房が生まれるとすぐに穴山家を継いだ信吉が死んだから、実質的に信吉の後は頼房が後を継いだと言っても過言でない。)んだし。
しかも武田の分家である柳沢吉保が綱吉に可愛がられて、御家人から大名に昇格するための権威付けのために、徳川家と接点持つきっかけとなった人物
(信玄の孫信道は大久保長安と親しかったため伊豆大島に流されたが、吉保は信道の孫である信正を旗本にした)として祭り上げたからなんだな。

96:人間七七四年
14/05/08 22:19:14.51 fk0N30TF
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだのが信長

最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り北条の大軍大破して150万石まで領土広げた信玄

どうみても信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長でしょ。
信長が甲斐に生まれてたらきつい城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮の信濃の城をほとんどおとせず終わっただろうし
山之内上杉か諏訪あたりに蹴散らされて終りでしょ。史実で弱体化したクーデター騒ぎの幼君斉藤に負けまくり
長島侵攻戦でも何回も大敗し、餓死寸前の一揆勢数百を数万で騙まし討ちにしたら一門10人以上殺される雑魚だし
信濃の拠点落とせるわけがない。

97:人間七七四年
14/05/09 09:58:43.36 /j35Pz77
スレチでしょ
菅沼認定される前に去れ

98:人間七七四年
14/05/11 13:17:24.49 ++JoDQti
また織田チョンの自作自演か。
相変わらず気持ち悪いな。

織田チョンによる偽だがの見分け方。

昔のだがレスを盗用してコピペ爆撃する。
だがは秀吉擁護であり、
偽だがはアンチ秀吉である。
織田チョンが装う偽だがは、秀吉の功績は信長のおかげであり、秀吉は無能だと主張し、信雄を必死に擁護する。
アンチ秀吉コピペレスは、だがに対する反論になっているので、
織田チョンが主張するだが像がデタラメであることがわかる。
アンチ秀吉コピペ爆撃荒らし行為を織田チョンは絶対に非難しない。

99:人間七七四年
14/05/11 17:11:08.64 zukHDlmU
参考としてだがのレスをひとつだけもってきてくれたまえ

100:人間七七四年
14/05/28 10:09:21.24 E1/31HxO
>>78
信玄って袁術そっくりだよな
勢力伸ばして調子に乗って無謀なことして
最後に悲惨な死に方して死後お家は滅亡

101:人間七七四年
14/06/01 06:20:15.85 CPdLBPQR
それでも、甲府ではそこそこの人気。
しかし、高知での坂本龍馬にはとても及ばない。

102:人間七七四年
14/06/01 08:31:15.60 9bbg4fvX
>>100
それまんま信長のことじゃんw
内政無視して略奪虐殺で軍資金稼ぎ。
自分は女踊り、鷹狩、相撲観戦、没収茶器コレクション、甲冑刀剣コレクション、
神獣鹿狩、香木集め、尾張から安土への魚調達などの美食、賄賂優遇
など悪政搾取して放蕩し遊んでいただけじゃん。
まー孔子の絵画など内装まで贅を尽くした安土城こそ贅沢の極みだけどな。

103:人間七七四年
14/06/01 09:15:25.42 Mwr8+BQH
>>100
四世三公の名家に匹敵する家柄を持つのは天皇の子孫でもある甲斐源氏武田くらいのもんだからなあ
袁術の子の袁燿が孫権に嫁いだ姉妹である袁夫人をアテにして呉に仕官したのと
信玄の子の信清が景勝に嫁いだ姉の甲斐御前をアテにして上杉家に仕官したのは全く同じ構図だし
先祖の御威光を笠にきた栄華と、勢力拡大に敗れて衰退と言う構図がここまで被るとは

104:人間七七四年
14/06/01 09:33:40.83 fnAfQq19
>>101
駅前に銅像があるのと館が神社になってるだけで他には何もないよ
どんなに資料館やグッズがあるのかと楽しみにして観光に行ったのにガッカリしてる

105:人間七七四年
14/06/01 09:41:59.55 MM5HLNr9
山梨は関東地方の植民地だからな
本人は関東の仲間気取りしてるけど関東からは相手にされてない。

106:sage
14/06/01 10:06:32.72 ve8w8q3p
略奪する場所がなくなり資金難の織田軍

永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに、
賀茂から嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
銀1300枚受け取り拒否した上京を焼き討ち略奪。下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、
三好や六角や一向一揆はその交通量を激減させ
織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だからかなり有効だったと思われる。
京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。
さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、
これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、
天正2年春に織田が攻勢をかけるもまた資金難で停滞し各軍が各国で苦戦している。
兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。
原則は軍役負担者が安堵地から輸送による自給ではあるが、
軍役に次ぐ軍役でとても負担出来るわけもなく現地略奪方式を取らざるを得ない。
織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。
この略奪モンゴル方式は天正8年の本願寺との和睦まで続く。
あんだけ無理を強いて戦い続けてりゃ軍費だって無くなるだろ。
戊辰戦争でも軍費問題はデカかったんだから。ガキの頃から豊かな生活を親が与えると
大人になっても浪費癖が治らないばかりか酷くなるってのは事実なんだな。
それで金が無くなると虐殺と略奪だもんな。
そいつがアスペ・パワハラ独裁権力者だったから日本は不幸の闇に包まれたってわけだ。

107:人間七七四年
14/06/02 12:24:59.50 nPuo3jVO
>>105
え、何でそうなるの…(ドン引き)
余りにも唐突な山梨県批判はNG

108:人間七七四年
14/06/03 10:13:07.58 BOZPcN8A
>>103
名門血統の没落と言えば日本じゃ武田と今川が2大代表例だよな
仮にも天皇家子孫の源氏と足利将軍家の縁戚だし
こいつらが滅んで領地を持てず、下賤の家である織田や徳川が生き残る
これぞ戦国を象徴する話だな

109:人間七七四年
14/06/03 15:06:07.46 h/eio9jd
名家出身の守護大名は家臣の専横と傀儡化した大名の権力といった腐りきった権力構造抱えてたからな
新興勢力は逆に子飼いの家臣や自分が好きで登用できるような連中一杯持てた時点で有利さが全然違う。
両上杉と北条、大内尼子と毛利なんかがいい例

厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。
と言うか斯波氏は行政府自体を任国に作ってすらいなかった。
尾張は織田、越前は朝倉、遠江は今川にやりたい放題され、
最後は今川氏親に斯波義達が捕虜にされ、事実上崩壊。
斯波には公銭方や段銭方と言った任国の守護行政府が存在しなかった為、
簡単に下克上が出来て国が盗めた。
国人たちが重視する家格の差もあって守護代が守護権力を凌ぐことが出来ず、
守護代などが下克上に失敗敗北する長尾為景や斎藤道三や近江国人連合や長尾景春といった東国でよくあった、
いくら家格を上げようと必死になっても結局、権威で守護行政府を上回れず、下克上に失敗することによる困難に直面することが織田や朝倉には無かった。
言わば管領家の守護代が、家格をあげる努力をせずに割と簡単に主を傀儡に出来ることは特質だろう。
畿内近くに任国があるものでさえ、細川には三好、畠山には遊佐などいずれも家格上げ努力などしておらず明らかである。

110:人間七七四年
14/06/04 20:38:43.45 gUjnC2qU
>>108
大友や六角や大内や畠山や大崎や葛西や両上杉など
守護大名級は直轄地が全く無かったから加増約束も
ろくに出来ず、生き残りは超ハードモードだよ。

111:人間七七四年
14/06/07 12:22:27.10 Oh5rUYaF
信長は戦前までまったく人気なかった
活発な中世最盛期だった信長統治と違って江戸時代は搾取された暗黒時代などと
左翼御用学者による信長英雄論や天才革命児などの捏造妄想を利用した
光栄がゲーム販促を通じて一般大衆に宣伝広報して洗脳されただけ


映画
『伊達政宗』(1912年、エム・パテー商会)
『伊達政宗』(1915年、日活京都、主演:尾上松之助(2代目))
『伊達政宗』(1919年、天活、主演:澤村四郎五郎 (5代目))
『独眼龍政宗』(1942年、大映京都・キネマ倶楽部、監督:稲垣浩、主演:片岡千恵蔵)
『独眼竜政宗』(1959年、東映京都、監督:河野寿一、主演:中村錦之助)


映画
織田信長(1940年 日活 監督:マキノ正博 演:片岡千恵蔵)
紅顔の若武者 織田信長(1955年 監督:河野寿一 演:中村錦之助)
風雲児 織田信長(1959年 監督:河野寿一 演:中村錦之助)
若き日の信長(1959年 監督:森一生 演:市川雷蔵)

112:人間七七四年
14/06/07 15:57:25.33 w0kxMu2z
>>103
そんなショボイ末路を迎えたから上杉や毛利、織田や豊臣のように
国を挙げて神様扱いしてくれなかったんだな

113:人間七七四年
14/06/07 17:46:46.82 Oh5rUYaF
秀吉だけが信長の葬儀をしてるのに、何を言ってるんだ?
秀吉は葬儀の準備をしつつ、岐阜で監禁されていた三法師の近江安土への移動を催促していたんだぞ。
秀吉は死んだ信長の葬儀を立派なものにしようと、朝廷に掛け合って朝廷の職を辞して無官になっていた
故信長を贈従一位太政大臣に任じてもらい、大徳寺へ贈官宣命使として少納言舟橋国賢が派遣されてしまったために
これ以上、葬儀延引きができず、やむなく三法師を葬儀に招くことを断念して養子秀勝を喪主にして葬儀してる。
これほどの旧主への義理立てがあるかよ。だいたい信雄は秀吉に敵対した男だぞ。
それなのに信雄の官位官職を狂ったように急速に向上させて、甲斐信濃駿河遠江三河の超加増までやろうとしてたんだぞ。
信雄が我がままで自分で断ったのに、なんでそれを以って秀吉が批判されなきゃならないんだ?
やむなく信雄の代わりに秀信を取り立てて父の信忠の岐阜城を与えて官位官職につけてやったし、
信長への義理から信雄を許し、信長ですら信雄には従五位下しかくれなかったのに、
秀吉は政権No.2の正二位内大臣にしてやったほど、信雄を引き立ててやったんだぞ。
実力のない信雄に対して、旧主信長への義理立てから秀吉が厚遇していたのに、その恩を忘れて増長し、
家康家臣団が転封準備しているのを知った、信雄家臣団が、転封準備しないとまずいですよって忠告したのに
信雄は、絶対転封はないから、秀吉の命は無視していいなんて言い放って、秀吉の顔を潰してるのが信雄。
結局、信雄も秀信も有楽斎も西軍に付き、大阪陣寸前まで豊臣擁護をしているのだから、
織田家は秀吉に感謝していたのは行動でわかる。
しかし家康は何をした?秀吉や利家らが死ぬやにわかに野望を露骨にむき出し
幼君であることを良いことに、幼君のためと偽る奸臣となって
その地位を奪いたい一心で平時に乱を起こし、
幼君が成長する前に権力と権威を奪い取り独裁し
秀信を高野山で幽閉し22歳で死に至らしめたし、
信雄も公家や寺社に影響力を行使できる五山の僧たちの
全力擁護で家康を説き伏せ助命と領地宛がいをなんとか約束させただけだし
孫娘千姫と夫である秀頼を殺しただけでなく、国松まで殺し、
女子供を含めた大坂20万人大虐殺をして、秀吉の墓を暴き、神号を剥奪し、
自らは東方を照らす大権現となってる糞老人だろ。

114:人間七七四年
14/06/07 22:03:34.96 H9INxYpm
糞中年アスペルガーだが、本名・菅沼遼太

115:人間七七四年
14/06/07 22:17:00.47 kDvgxeNF
そもそも主家簒奪の名分として自分を利用するだけ利用してポイ捨てしたり
自分にいちゃもんつけて改易した秀吉の恩によって信雄や秀信が西軍についたというのは相当無理があるだろ。
恩どうこう言うなら高い身分まで取り立ててもらった秀吉の方が、ろくに援軍も出さず畿内平定にこき使われまくってた家康より遥かに恩を受けてるわな
つか、一番秀吉から恩を受けてるはずの福島加藤浅野らが家康に篭絡されてる時点で、
武功派が主家を考えず自分の好悪の感情だけで動いていたのがハッキリわかる。
家康が信長から恩を受けていたとか、もうね、笑わせるなと。
畿内平定に狩り出され、大国武田に攻められてもろくに助けてもくれず
散々いじめられてただろうが家康。
立身出生を全面的にお膳立てと棚ボタであげてやった秀吉の方が異常に恩受けてるだろうがクズ
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

散々こき使われまくり同盟とは名ばかりの援軍なし放置状態(しかも大国と交戦中なのに)の、
恨みばかり残ってもおかしくない状況で織田家を再興してやったのが家康。
恩を受けまくり、信長のおかげでトップにたてたといってもおかしくないくらいなのに
主家を崩壊簒奪し、役に立たなくなったと思ったらポイ捨てしたのが秀吉。
だからこそ、織田家は江戸期でも細々とながら残り、豊臣家あっさりは滅亡し、家康が天下取れたんだろうな。

116:人間七七四年
14/06/07 22:17:44.65 kDvgxeNF
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

9/3柴田→丹羽
若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので
重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)

三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。
我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので
なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。

10/14の晴豊記
茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。

秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか 10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。 柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね?
信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。
日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。
(多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある) 名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので
御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。
ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。 信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。 濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども
御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。 尾州も人質も三助様に全部渡した。
坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか
さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。
御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。
天下の外聞はいかがかと思いやった。

117:人間七七四年
14/06/07 22:52:58.26 kDvgxeNF
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない

118:人間七七四年
14/06/07 23:58:23.55 FaaDRcds
>>116
そのレスだけ大昔のだがレスからの盗用だな。
だがはそのレスを他の織田人脈よりも
有能な秀吉の辣腕ぶりを称賛するために書いていた。
お前は他人のレスを盗用して文意を180度真逆のアンチ秀吉での意味で利用して恥ずかしいとは感じないの?
そりゃ在日織田ちょんには恥の文化無いから何でもありなんだろうがw

119:人間七七四年
14/06/08 00:20:54.94 QomeRok+
変な改行といい「織田ちょん」という単語といい……

120:人間七七四年
14/06/08 00:26:56.72 1WmlBHYg
10/6 柴田→堀
秀吉批判の書状 清洲において誓った置目の条々に相違している。 仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。
静謐の評定をするのは無論のことなのに清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。
若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが
御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。 誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。
我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して 信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして
守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。

家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立ててやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である

佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。

信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取ってから三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。
突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと
自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。

丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。


1/17秀吉→小早川 25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川 滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物 前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利 信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川 自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村 津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部 羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部 同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記 三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記 斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。

信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。

121:人間七七四年
14/06/08 00:28:29.01 1WmlBHYg
無能ぞろいだから簒奪していいとかもうね、アホかと。
自分を高い身分まで取り立ててくれた最も恩義のあるはずの主家を、
信長や信忠が殺され、明智が主殺しの大義名分を背負ってくれたからといって、自分が当主になっていい資格があるわけではない。
信雄や秀信、信孝など、トップにするべき人物がいるにもかかわらず、織田家の合議制を良い事に、専横しまくり、
謀略を謀り廻らし、ついに漁夫の利的に簒奪した秀吉など、初めから主家の当主の家柄の信雄からすりゃ、家臣であるのに主家を簒奪した大罪人であって
その後大した理由もなく攻め込んだり、改易したり、十分反逆すぎるといっていい行為を秀吉はやってる。
最初から主家を乗っ取った秀吉に対して、結果的にすずめの涙程度の待遇を与えたからといって
甘いも寛容も糞もない。超凶悪大罪人の「超」の部分が幾分薄れるかどうかという程度であって、
自分を取り立て出世させてくれた恩義のある主家に対して大反逆行為をやらかした事に何ら変わりはない。

122:人間七七四年
14/06/08 00:28:51.73 QomeRok+
アスペルガーだがは日付をスラッシュで表記します
これ豆な

123:人間七七四年
14/06/08 00:32:48.66 1WmlBHYg
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。

信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

信雄追放について
イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが
父の形見なのでと申し出た。
関白殿はただちに、その所領も他の国も有することまかりならぬ。
汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略
じつに従順な姿勢で願ったというのに。

日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し
1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか
仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。

家康の関東移封がもはや現実のものとして準備が開始される中で
信雄も移封の噂が流れ、領内では諸道具の運び出しの準備が開始されたが
信雄は7月朔付け書状でも神に誓ってありえないと書き
準備する者ははりつけの刑にするとまで言っている。
さらに小田原攻めの時に清洲城や星崎城は小早川隆景に接収されている(長島城は地震で崩壊している)
そして尾張伊勢は秀次に与えられ、流された信雄は8月には常真と号して出家した。
秀吉の野心を嗅ぎ取って柴田や信孝が政治闘争をしているのがわかる。
それで秀吉が三法師を一方的に廃して信雄3を擁立。
逆らう者はすべて謀反人とレッテル貼って叩きつぶす。
その後、信雄は秀吉への屈辱から家康の後援を得て戦うと
秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
そして北条戦では家康の岡崎城には吉川広家を入れて接収し
関東移封を拒否できないようにしている。
信雄の場合は最初から秀次を入れるために信雄を潰すつもりだったのだろう
三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したのでいちゃもんつけて攻め込む
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与

124:人間七七四年
14/06/08 00:37:03.67 1WmlBHYg
秀吉は既に不忠をやらかしまくってるからな。
本来なら信雄や信孝を主君に彼らの命令で織田家の政務に励むのが筋目。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる

125:人間七七四年
14/06/08 00:38:06.94 1WmlBHYg
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに

126:人間七七四年
14/06/08 00:38:55.46 1WmlBHYg
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる



宇留津城の悲劇

秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は
高橋元種の小倉城を攻略。高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらな
る抵抗をしめしていた。

そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)
攻略に取りかかる。しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要
害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねて
いたのだった。

そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳
ぎ渡っているのを兵士が目撃する。報告を受けた小早川隆景は検使
の黒田官兵衛と相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より
攻撃を開始。

浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略す
るのだった。この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した
男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することにな
り、周防灘が赤く染まったそうである。

127:人間七七四年
14/06/08 00:39:56.55 1WmlBHYg
無能ぞろいだから簒奪していいとかもうね、アホかと。
自分を高い身分まで取り立ててくれた最も恩義のあるはずの主家を、
信長や信忠が殺され、明智が主殺しの大義名分を背負ってくれたからといって、自分が当主になっていい資格があるわけではない。
信雄や秀信、信孝など、トップにするべき人物がいるにもかかわらず、織田家の合議制を良い事に、専横しまくり、
謀略を謀り廻らし、ついに漁夫の利的に簒奪した秀吉など、初めから主家の当主の家柄の信雄からすりゃ、家臣であるのに主家を簒奪した大罪人であって
その後大した理由もなく攻め込んだり、改易したり、十分反逆すぎるといっていい行為を秀吉はやってる。
最初から主家を乗っ取った秀吉に対して、結果的にすずめの涙程度の待遇を与えたからといって
甘いも寛容も糞もない。超凶悪大罪人の「超」の部分が幾分薄れるかどうかという程度であって、
自分を取り立て出世させてくれた恩義のある主家に対して大反逆行為をやらかした事に何ら変わりはない。

128:人間七七四年
14/06/08 00:41:09.16 hzLJRYcN
>>秀吉は充分に主家に義理立てした
主家織田家の当主に当たる秀信や信雄を利用するだけ利用しといてポイ捨てしておいて義理立てしたとかないわ。
>>信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいた
だから秀信をトップに据えて兄弟の対立をこれ見よがしに対立を煽ったりして崩壊させたのが秀吉だろ。
>>信雄と信孝は超アホで調停不能
だからこそ秀信を据えたり兄弟のうちどちらかを立てて主家のために忠義をつくすのが家臣としてあるべき姿
秀吉の場合はそれどころではなく清洲会議の合議も無視して好き勝手な専横で織田家を簒奪した極悪人。
>>信雄の官位官職も上げまくって
そりゃ信雄なんて主筋で一時期は当主に据えるほど、大いに利用させてもらったのが秀吉だからな。
その負い目や、大した理由もなくいちゃもんつけて攻め込んで、和議を結んだと思ったら改易までやらかすなど、散々な専横をしまくったのが秀吉。
>>秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝
ソースくれ。織田の当主になって秀吉に命令を下すべき人間がハナクソみたいな領土と地位を与えられただけで感謝も糞もねーわw
>>関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
関ヶ原ではむしろ豊臣恩顧系ほど東軍についたし、西軍は秀吉と繋がりの薄い連中ばかりだから
西軍=秀吉への恩義とかもう馬鹿かと。
>>大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄などは両家の和解のためいたんじゃないのか?家康が遣わした可能性も往々に考えられるのに
自分の意思で豊臣に感謝してたからとか勝手な決めつけだろ。
>>信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝
主家を乗っ取り簒奪に利用されるだけ利用されてポイ捨てされたのに感謝してるわけねーだろw
>>織田が家康を嫌ってた
ハイハイ、根拠なし。織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康。 信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許している
>>秀吉や光秀は自らの武辺と才覚で國持ち
いやほとんど信長や信忠のお膳立てだよ。長浜という鉄砲の名産地・交易・流通の絶好の場所
守護の赤松・小寺・別所・山名など衰退期もいい所で、しかも中国地方からは山中ら反毛利国人まで与力として味方がなだれ込んできてる状況
永禄末期や天正の第一回目の織田家での侵攻など見る限り播磨・但馬は元々ほとんど織田方で、抵抗勢力などたかがしれてる。
それを秀吉の失態自爆で敵が増え、別所など雑魚に信長や信忠や山中ら尼子残党らの後援を受けながら苦戦しまくり、2年近く費やしたのが秀吉。
>>信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔
そんな事全くやってない。信長は秀吉のためにわざわざ信忠ら主力を派遣して播磨の中枢の諸城を悉く砦や小城の普請などでいつでも攻められるようにお膳立てして帰ってる。
ちなみに明智光秀まで援軍として播磨に来ていたらしい(兵庫県史資料編の中で明智が別所攻めに加勢として遣わされてる文書があったはず)
>>逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで身が引き立てられただけ
そりゃあんたの主観だろ。秀吉なんて小牧長久手とか紀州征伐あたりまではともかく
他はほとんど部下に戦をまかせきりで物見遊山とか茶会とかやって遊んでただけじゃん。
あげくのはてには朝鮮出兵など愚行に走り、人徳を失い、子飼い系も含め悉く徳川に篭絡される事になった。

129:人間七七四年
14/06/08 03:39:31.82 s7YUIgZx
>>119
菅沼遼太しか使わないワードをホイホイ出しても意味ねーよなwww
逆に発見するのに大変役立っているというwww

130:人間七七四年
14/06/08 16:38:38.05 UfQTmK/c
>>118
だがレス盗用してるのは他にも>>120>>123もそうだな。

だがは秀吉の才覚がすごいという論拠でこれらをレスしていた。

131:人間七七四年
14/06/08 18:54:39.04 2kaTnGoY
菅沼遼太「>>130

132:人間七七四年
14/06/12 19:01:44.87 9pq0/oyO
菅沼遼太は嘘が大好き
中身がないクズは嘘にすがらないと生きてけない

133:人間七七四年
14/06/12 21:55:18.64 /Dn2uEmC
織田厨は発言の99%が嘘・妄想・願望
反織田厨は発言の10%程度が嘘(見誤りや勘違いであって厳密にはうそではない)

134:人間七七四年
14/06/12 21:56:07.74 Fr/jeRFF
織田厨→意見の内容がほとんど自分の妄想・願望・嘘
織田厨を罵倒してる人間→意見の内容が歴史事例や時系列データベースや資料や論文の引用

よって嘘は織田厨であり反織田厨が事実

135:人間七七四年
14/06/22 02:41:46.43 CGllRnvo
菅沼って奴はさ、こんな、異様に長いレス連投して、自分を異常だと、思わない
のかな~。

136:人間七七四年
14/06/23 22:41:49.25 6Gvr2QGI
思っていたら個人情報流出した時にでも消えてる

137:人間七七四年
14/06/24 18:14:48.00 fSG1IhwZ
冷静に考えたら500年近く続く名門の家が
たかが50年もあるかわからない新興勢力に滅ぼされるのって
ちょっとした事件だよな

138:人間七七四年
14/06/24 20:38:00.84 tSLyFIBC
だがが自身の異常さは自己顕示欲だ

139:人間七七四年
14/07/03 08:01:52.86 Y+xiHRh9
室町期からの旧守護勢力なんて衰退してて次々新興勢力によって倒されてる時代に
血筋や血統などを持ち出して敗戦の原因を言い訳するとか相当馬鹿だな。
家が成ってからの年月と、一人ひとりの仕えている武将の忠誠心とどう関係あるかちゃんと論じてくれよ
昔から、自分の親の親の代から何代も仕えてようが、自分の代になってやっと子飼いとして仕えようが、忠誠心も
何も変わらん
つうか昔から仕えてる家臣の方が変に自立心強くて言う事聞かなかったり謀反起こしたりしてるだろ
松平の譜代なんて三河一向一揆で家中半分に寝返ったり武田の譜代系も言う事聞かなかったりしてるだろうが
自分の代になって士官した子飼いなんて家臣として一番扱いやすい部類だわw

140:人間七七四年
14/07/03 08:02:43.30 Y+xiHRh9
守護大名は家臣の専横と傀儡化した大名の権力といった腐りきった権力構造抱えてたからな
新興勢力は逆に子飼いの家臣や自分が好きで登用できるような連中一杯持てた時点で有利さが全然違う。
両上杉と北条、大内尼子と毛利なんかがいい例

厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。
と言うか斯波氏は行政府自体を任国に作ってすらいなかった。
尾張は織田、越前は朝倉、遠江は今川にやりたい放題され、
最後は今川氏親に斯波義達が捕虜にされ、事実上崩壊。
斯波には公銭方や段銭方と言った任国の守護行政府が存在しなかった為、
簡単に下克上が出来て国が盗めた。
国人たちが重視する家格の差もあって守護代が守護権力を凌ぐことが出来ず、
守護代などが下克上に失敗敗北する長尾為景や斎藤道三や近江国人連合や長尾景春といった東国でよくあった、
いくら家格を上げようと必死になっても結局、権威で守護行政府を上回れず、下克上に失敗することによる困難に直面することが織田や朝倉には無かった。
言わば管領家の守護代が、家格をあげる努力をせずに割と簡単に主を傀儡に出来ることは特質だろう。
畿内近くに任国があるものでさえ、細川には三好、畠山には遊佐などいずれも家格上げ努力などしておらず明らかである。

141:人間七七四年
14/07/11 07:58:47.90 CAjzLDz7
菅沼浮上age

142:人間七七四年
14/07/14 19:49:40.25 yUgubz41
こんなに主張したいなら本でも出せよ…

143:人間七七四年
14/07/18 15:02:19.14 liyORNoj
菅沼の本は売れると思う
主に井沢路線で

144:人間七七四年
14/07/18 19:57:07.71 MWnJh9+u
井沢に失礼

145:人間七七四年
14/07/19 22:58:14.11 z0rTOhXO
江戸時代に徳川が採用したのが武田兵法
だから
江戸時代に武家は武田研究し
やっぱ武田スゲエエエエエエエエになった

と個人的には思っている
どう思う?
俺の発見?

146:人間七七四年
14/08/11 08:26:55.97 DbFKYEPG
風林火山のうち林と山しかあってないな
甲府盆地じゃ暑苦しくてなにもやりたくないだろ


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