13/12/17 19:18:26.19 7AERnJVK
>>352
君が固執する幸州山に関してだが、朝鮮の大勝とは程遠く、
日本の再攻撃準備中に逃げたのが真相が大だな。
こんなのがあったので参考に↓
俗に言う朝鮮出兵の戦いで、朝鮮側の三大大捷
と呼称されている勝利のひとつに、幸州山の戦いがあります。
幸州戦の記録で、当時に書かれたという意味で、一番信頼できる朝鮮の乱中雑録1にはこうあります
(後代になるほど朝鮮側は潤色され派手になります)
矢や石を浴びせ、日本軍も三度進み三度引いたが、火が回り城の柵も燃え落ち、
矢も尽き、日本軍に切り込まれて落城寸前だったとあり、白兵戦の最中に
朝鮮の丁傑の救援の2艘が現れたので、日本軍は引いたとあります。
小西、大谷、黒田ら8将が 秀吉に宛てた文禄2年2月18日発の書状でも、
この丸に攻入り数百人を切り捨て、本城の付近で相戦い、少々の手負が発生したとあり、
乱中雑録でも朝鮮側の戦果が130頸とあり、
現在言われているような派手な勝利?ではなく少なめであり、
そして日本側の数百人切捨と、乱中雑録1のあわや落城かという
双方の記録が一致しています。
乱中雑録では、日本軍が引いたところで 記録が終わっていますが、
同書状では、 諸将が城に対して夜責めでもしようと協議している間に
17日に朝鮮軍が城を焼いて逃げたとあります。
この書状は、権慄が城を焼いて放棄した翌日の18日に発せられているので、
日本軍は城の近くにいたことがわかります。
同時期の懲毖録も、この戦いについては簡潔にしているだけであり、
特筆するとすれば、幸山城の指揮官であった権慄が命令を出して、
日本兵の死体をズタズタにして、木に掛けたという箇所ですか。
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