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そんな中、戦局の打開を図るために、利家にも渡海の命が下った。7,000人
の兵を率い、城の包囲を命じられた(岩沢愿彦「前田利家」)という。57歳に
なった利家には、つらい出陣であったろうが、船や乗員の調達を指示する文書
に心境をつづる文言は見当たらない。
しかし、渡海は直前でとりやめになった。明から講和の使者が名護屋に到着
し、利家は家康とともに応接に当たることになった。
この折、先に懐旧の手紙を書いた最上義光が家康のもとに出向いたときのこと
を記している。家康は「不思議に出羽(義光)もわれらも、このたび命を見つ
けた。やがて国へくだり鷹狩ができることはまことに喜ばしい」と述べたという。
家康にして、講和使の到来を「夢かうつつかとよろこび候」としている。
利家の心境も同様であったろうが、家康のようにあけすけな感想を残してはいない。
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後に徳川三百年の天下を築きあげた家康が泣き言を言うくらい、文禄の役末期の
朝鮮戦線は日本にとって絶望的だったんだろう。