【文禄慶長】 秀吉の朝鮮征伐スレ6 【壬辰倭乱】at SENGOKU
【文禄慶長】 秀吉の朝鮮征伐スレ6 【壬辰倭乱】 - 暇つぶし2ch186:人間七七四年
13/03/25 23:12:09.70 lz8dO7Xb
奪ってない奪ってない
開戦初期に豪族の乗った船団をいくつか撃破しただけ。

輸送船を攻撃とか、補給線を断ったとかどっから出てきた与太なんだろ・・・

187:人間七七四年
13/03/26 04:56:40.37 3LCRQbfR
>>186
旧日本海軍が予算獲得のために海防の必要性を説くのに李舜臣を持ち上げたのが
そもそもの始めらしいけど、それを戦後に左傾朝鮮史学者が逆手にとって制海権やら
補給線遮断やらとすっかり”定説”にしたみたいね。

でもまぁ、ネット上での輸送船やら海賊やらいうのは、たぶんnayukiが大元なんだろうなぁ、と
思う。次の下りなんかいろいろ間違ってるんだけど、これを無学なバカウヨが聞きかじりで次々
拡散している印象。

URLリンク(www.getemono.com)
*日:nayuki<しかも李舜臣が日本軍相手に大勝した? 事実は、補給船団を海賊のように襲っただけです。しかも最後は、嘘の休戦協定を日本と結んで、油断して撤退中の日本を背後から襲うという卑怯な戦法。
*韓:kiljap<お前靴やタックゴ出るに靴汚かったと言って捏造専門史家が生きて呼吸する日本
*日:nayuki<翻訳が乱れ始めましたよ。落ち着きなさい(w
*韓:kiljap<李舜臣将軍はお前達を皆殺しにした! 倭人は李舜臣将軍を見れば恐ろしくて逃げ出す!
*日:nayuki<李舜臣将軍の最後を知っていますか? 卑劣にも撤退中の秀吉軍を後ろから襲ったけど、日本の島津軍に返り討ちに遭い、鉄砲で撃たれて魚の餌になったのです。韓国の英雄に相応しい惨めな最後ですね。

 つまりは韓国で教えられている李舜臣の英雄奇譚は、補給船団の襲撃を
“倭国の大艦隊を正面から撃破”、嘘の休戦協定で騙し討ちにしたのを
“慢心している敵に機知を生かした快勝”、秀吉が死んで撤退中の日本軍を
後ろから奇襲したのを“最後の大決戦で倭国軍は敗走”となっているのである。
 ただし李舜臣の戦略は称賛に値する。秀吉軍と正面から戦わず補給船団を
襲って補給ルートを断つことによって、味方の犠牲を最小限にして敵を窮地に
追いつめたのだ。東郷元帥が言ったと伝えられているように、名将であったことには
変わりない。

188:人間七七四年
13/03/26 05:47:53.07 Bn3sGFxS
>>187
窮地には追い詰めていないよ
それに李舜臣は明国単なる下っ端で作戦の立案にも関係していない

189:人間七七四年
13/03/26 12:50:14.92 fdXMV1Mj
朝鮮征伐なんて痛い事やった馬鹿は秀吉くらいだなwwwww
「ワシは天下の豊臣秀吉じゃー、日本は全て俺のもの
だけんね 日本は掌握したから朝鮮もワシの手のひらに
収めよ、オラオラ福島加藤朝鮮行って来い、朝鮮人の
首を持って参れ」こうして2度の侵略戦争
は日本側も朝鮮側も無駄な犠牲者を増やしただけで、
国土の拡張や日中韓の貿易での御利益もなくなって
無駄に終わりましたwwwwwwww
これほどアホやった政治家も珍しいなwwwwww

190:人間七七四年
13/03/26 13:17:12.36 fdXMV1Mj
秀吉の朝鮮征伐ってこれ程アホwwww
①万単位の無駄な犠牲者ばかり生み出し
②加藤福島などの家臣の不満を煽り、裏切られるキッカケになった
③チョンシナとの外交貿易などで両国の不満を買い、
のちに家康が鎖国をする大きな要因になった
④ ①②のおかげで西軍の戦力低下につながり東軍に、
豊臣家を滅亡させられる大きな原因になった
⑤無駄に秀吉自身の後世の歴史上の評価を下げた(悪劣な行為、愚行と罵られ)
挙げればデメリットにキリがないな、
メリットとかあるの?

191:人間七七四年
13/03/26 14:05:45.75 UZ/IlPOX
16世紀レベルの戦争で輸送船とか補給線とか言い出す奴は
近代戦の思考に毒され過ぎ

192:人間七七四年
13/03/28 02:14:19.32 +TQTvqUr
>>190
侍なんて島国の弱い連中ニダ、大国男児のウリ達の花郎に一捻りニダ
って妄言が吐けない
結局秀吉の死で撤退したけど、終始戦闘では勝ち続きだった。

193:人間七七四年
13/03/28 20:21:54.94 xX3lCfEk
>>191
近代的な補給線なんて物ができる程補給があったら
秀吉が死ぬ頃には明どころかモスクワ包囲してそうだなw

194:人間七七四年
13/03/28 21:50:11.89 XTm10ED1
そうでなくても書状一通送るのに数百人の護衛が必要というレベルだからなぁ

195:人間七七四年
13/05/03 23:24:43.78 PdIBjcc3
家康にも圧勝した秀吉公

196:人間七七四年
13/05/04 00:58:47.86 Qxsv7eun
小牧長久手で雑魚信雄相手に7分の1の兵力で挑みかかったら1万人ぶち殺され
その後も松ノ木浜田二重堀前田蟹江東駒野戸木河波など各城郭で負け続け
寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半分すら切り取れず必死に本願寺顕如に取り成し頼んで和睦までこぎつけたのが秀吉

197:人間七七四年
13/05/04 01:01:08.49 ZGRnni1M
いまだに小牧長久手を秀吉勝利とか言ってる馬鹿堀に影響されてる馬鹿がいてワロタw

198:人間七七四年
13/05/04 01:06:16.81 Qxsv7eun
大友や宇喜多に蹴散らされまくった雑魚輝元に敗北した秀吉w

史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下

荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判

巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書

199:人間七七四年
13/05/04 01:07:07.04 3IO2wfWk
だがさんのコピペなんか誰も見ないから

200:人間七七四年
13/05/04 01:09:06.51 Qxsv7eun
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

201:人間七七四年
13/05/04 01:09:28.50 Qxsv7eun
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる


体調が悪いからとかんなもんただの言い訳だろ
最初から会戦しないか部下にまかせりゃよかっただけ
徳川方は春から特政・信雄領国は伊勢のみならず尾張でも会戦当初から寝返り続出と不利な条件だったんだから
夏の対陣のときでも徳川方は兵の半分を返していて(家忠日記)
総勢一万足らずだったとあるしな(当代記)
体調が悪かったなんて事書かれた史料あったっけ?
「見舞い」の事だったら戦場見舞いの事じゃないの?
大阪の二度目の対陣は蟹江合戦の敗戦により三河侵攻計画の前哨戦が頓挫したからだと
愛知県史資料編が位置づけている
あと二重堀合戦は家忠日記にある

202:人間七七四年
13/05/04 01:09:54.61 Qxsv7eun
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である

203:人間七七四年
13/05/04 01:10:14.03 Qxsv7eun
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉

204:人間七七四年
13/05/04 01:10:37.73 Qxsv7eun
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千~5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する

205:人間七七四年
13/05/04 01:17:20.96 3IO2wfWk
NGでスッキリ

206:人間七七四年
13/05/04 01:17:50.97 Qxsv7eun
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
>>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ
>>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬~下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬~下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく
普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ
>>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ
尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い
>>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ
>>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし
>>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる
そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ

207:人間七七四年
13/05/04 01:19:39.16 Qxsv7eun
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7~9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬~下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬~下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

208:人間七七四年
13/05/04 04:14:13.13 Qxsv7eun
>>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない
>>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに
>>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ
>>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン
>>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ
>>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入
なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス
>>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
兵力差が圧倒的なんだから当たり前
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される

209:人間七七四年
13/05/04 05:11:31.65 Qxsv7eun
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ

愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで
5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期
どうみても秀吉の失態です。

210:人間七七四年
13/05/04 05:11:57.49 Qxsv7eun
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867~869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7~9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬~下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。

211:人間七七四年
13/05/04 05:12:43.59 Qxsv7eun
8月中旬~下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め

>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう

212:人間七七四年
13/05/04 05:14:53.89 Qxsv7eun
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る 6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発 6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように 6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた 6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った 三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
上記のように秀吉は蟹江合戦当初滝川が軍事行動起こした蟹江から近い大垣近辺にいたため秀吉の軍事行動と容易に想像がつく
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月 これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
こんな圧倒的兵力差で負けまくって一年一杯使って信雄ごときの尾張半国すら自力では倒せなかったのが秀吉
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ 家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。 そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や
天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況
が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ

213:人間七七四年
13/05/04 05:16:05.37 Qxsv7eun
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ
石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな
家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜)
残りは信雄の兵力だし
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
7~8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ
そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず
恐れてるのは明らかに秀吉の方
家康・信雄は圧倒的に兵力に劣る上、楽田の留守居2万や美濃の後詰部隊放置して
加賀野井・竹鼻にむかったら別働隊に追撃されるなり小牧山襲撃されて退路たたれるなりしてアボーン
>>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
滝川からすれば物資はすぐ近くの秀吉陣からもたらされると思ったんだろう
>>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がヘタレなのではなく秀吉がビビッて放置したから降るしかなくなったのが滝川
7/3まで持ちこたえているがこれも秀吉が見捨てただけからってだけの話だろ
秀吉は三河方面への攻撃を想定していたのに結局この合戦の失敗で延期して信雄戦にきりかえる事になったんだから明らかに秀吉の失態
>>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
これは木造記(軍記物)の造り話。ちなみに秀吉も7月には木造の事に触れてるのに
この時は何も触れていないし中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵こいつらより
貫高で勝る連中も普通に人質出していない。木造記は具政を具康としてるくらいでただの軍記の信憑性だし別名木造軍記ともいうもの
>>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
そりゃ8000そこそこで8万も10万もの秀吉軍とガチンコでやりあうなんて無理
そんな勝って当たり前の状況と兵力差で苦戦しまくって1年無駄にしたのが秀吉
>>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
戸木も小牧山も松ノ木も小牧山周辺の砦郡も似たような状況で落とされなかったのにこれで勝ったような事いわれても
>>11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある。これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
あくまで秀吉が言ってる事なんでおおいに疑問
9月にも信雄が人質を出して懇望してきたけど許さなかったとか書いてるけど
なんで秀吉は11月になったら許すのかって話だし

214:人間七七四年
13/05/04 05:18:23.08 Qxsv7eun
>>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ビビリ信雄が勝手に和議を結んだから大義名分失って和睦せざるをえなくなっただけ
>>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
秀吉の書状なんて全部自分に都合いいことしかかかれてないし
家康領国が天正大地震と離反の連鎖と徳政連発で困窮してる状態ですら母と妹を人質に出した程のヘタレぶりかましたのが秀吉
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康領国は合戦前や合戦当初から徳政連発で十分困窮してるのがわかる
元々貧国ばかりだし上杉や北条の変心に備え大部分の兵力を領国に残してたからな
>>信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
そんな史料にない妄想いわれても
>>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
野戦回避してたのはむしろ家康がいた小牧山避けてしかも小牧山からでられないように
まわり砦で囲いまくって2万も残して一方で自分はこそこそ家康の出てこれない
木曽川筋の諸城圧倒的大軍で攻めるだけだった秀吉の方
>>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
7倍もの兵力比で歯がたつも立たないも糞もない
>>無条件降伏を飲む形で集結
母と妹差し出すのが無条件降伏とかアホですか
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに 放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として南伊勢五郡を与えられてる 松ヶ島城あたりは算用次第
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や 天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで
秀吉にとって圧倒的優位な状況が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ

215:人間七七四年
13/05/04 07:44:17.54 cztiZSu1
天正12年の秀吉と家康・信雄との戦役は
秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もって
ひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように
依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
秀吉に呼応する上杉の南下と
秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
秀吉と敵対する愚を犯した家康は最低最悪の戦略的大失敗を
犯しただけじゃんよ。
アンチ豊臣政権のキチガイ在日の捏造歪曲コピペ爆撃の必死さは買うけどよwwwwww

216:人間七七四年
13/05/04 09:27:35.82 ZGRnni1M
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけだしな
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

217:人間七七四年
13/05/04 09:36:17.22 Qxsv7eun
>>秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もってひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
>>毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度兵力で柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
135000の大軍相手にわずか1万7千そこそこで優勢になるわけねーだろボケw
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7~8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉

218:人間七七四年
13/05/04 09:41:16.67 Qxsv7eun
秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)
まで2か月も経ってるな。大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない。戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意の
ハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ

3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)  周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

219:人間七七四年
13/05/04 09:41:46.15 Qxsv7eun
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね で、11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ
>>信雄も家康も手も足も出ないほど追い詰められていた事実は動かない
当初去就が不明だった池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け 二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7~8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出なかったのが秀吉

220:人間七七四年
13/05/04 09:49:05.06 Qxsv7eun
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

221:人間七七四年
13/05/08 12:20:57.34 jqfJ1xr1
長くて読む気がしない

222:人間七七四年
13/05/08 12:26:09.98 YyQDKLDc
無意味なコピペをわざわざ読む奴も居ないだろ

223:人間七七四年
13/05/08 12:51:19.49 TtMObdXk
>>221>>222
要約すると>>220だから。

224:人間七七四年
13/05/08 12:56:05.44 TtMObdXk
間違えたw
>>200だけ読めばいい。

225:人間七七四年
13/05/08 12:56:23.76 pxsh4RgW
墨俣一夜城とか農民からの出世エピソードとか中国大返しのマンセーとか城攻め名人とか捏造ばっかだもんなぁ

226:人間七七四年
13/05/08 12:58:36.84 TtMObdXk
なぜかうまくリンクしないな。
めんどうだからレスるか。

天正12年の秀吉と家康・信雄との戦役は
秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もって
ひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように
依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
秀吉に呼応する上杉の南下と
秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
秀吉と敵対する愚を犯した家康は最低最悪の戦略的大失敗を
犯しただけじゃんよ。
アンチ豊臣政権のキチガイ在日の捏造歪曲コピペ爆撃の必死さは買うけどよwwwwww

227:人間七七四年
13/05/08 12:59:54.13 rzaXg7b+
>>226

>>216->>219

228:人間七七四年
13/05/08 13:03:47.39 pxsh4RgW
>>1万人戦死
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから

229:人間七七四年
13/05/08 13:04:40.83 pxsh4RgW
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉

230:人間七七四年
13/05/08 13:05:24.92 pxsh4RgW
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千~5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する

231:人間七七四年
13/05/08 13:21:35.26 TCbMjrZB
< 丶`∀´> 「秀吉はカスニダ、あんな雑魚で運よく天下とれただけの雑魚は日本の英雄ではないニダ」

<=(* ´∀`)「アンチ豊臣政権のキチガイ在日の捏造歪曲コピペ爆撃必死杉www」



.   ∧__,,∧
   <`∀´∩ 常に結論は一つ。”日本が悪いニダ!”
  / つ E_)  
  し―-J

232:人間七七四年
13/05/08 13:29:30.74 pxsh4RgW
朝鮮出兵はアホな戦だったとしかいいようがない

233:人間七七四年
13/05/08 13:40:05.65 RQmbQjul
沖縄の歴史家は、琉球征伐を『琉球侵略』と歴史修正主義に必死なようだけど
朝鮮征伐は『朝鮮侵略』にはならんの?文禄慶長の侵略

234:人間七七四年
13/05/11 09:07:19.33 BfrJXfUo
ザ・餓死
日本軍もメシがなくて餓死

でも朝鮮人征伐して良かったわ

朝鮮人の弱さを証明出来たし、任那日本府等の報復に少しはなった

235:人間七七四年
13/05/11 15:27:05.71 7NoYbc73
>>233
一部左翼が朝鮮侵略って言ってるでしょ

>>234
秀吉の朝鮮征伐が無かったら

【世界最強】フサリアVS朝鮮花郎VS侍VSイェニチェリ【決定戦】
戦国時代李氏朝鮮に攻め込まれてたら日本って征服されてたよね(´・ω・`)

なんて一面無残なスレが立ってたと思う。
中華の四辺から精鋭を集めただけあって明兵は噂通りの強さ
一方朝鮮兵は大方の予想通り尋常じゃないほど弱いって証明出来たのは大きい。

236:人間七七四年
13/05/31 18:24:37.89 eMet2tz4
明軍が強かったのってウン小西を敗走させた李如松の精鋭くらいだろww

237:人間七七四年
13/05/31 22:44:46.33 mJADbyZn
ウン小西とは無礼な。
文治派扱いされることの多い人だが普通に優秀な指揮官だよ
めちゃくちゃ騙されやすいのは頂けないがw

238:人間七七四年
13/06/07 04:03:12.10 g1F39+Kl
>>237
なんか民主党の仙谷と同じ臭がするんだよな小西ってさ
国際都市に生まれて、裕福な商家に生まれて、キリスト教徒で、エリートコース爆進で
才覚で商人から武士になり、大名になった。
優秀なのは間違い無いけど、自軍や同僚よりも敵軍を信じて騙されて
自軍を壊滅寸前まで追い込んで、一度ならまだ馬鹿なボスで済むけど2度も騙されたら弁解の余地ない。

本当に左翼臭と言うか花畑臭がプンプンする、戦国大名なのにさ。
そういう意味では異色の存在だと思う。

239:人間七七四年
13/06/07 04:13:32.49 g1F39+Kl
ある意味国際舞台の最前線に居て、肌で現場を知ってる
宗や松浦は相当ゲンナリしてたと思う、小西の夢見心地の世界観にさ。
まぁ間違いなく優秀だっただろうけどさ。優秀なエリートお花畑政治家って感じ。

240:人間七七四年
13/06/07 21:23:16.69 AfEQp2QT
結局のところ武士じゃないんだよ。
武力をちらつかせて交渉の道具にすることは出来ても
本気の潰し合いをする覚悟が座ってない。
キリシタンになったのも、ただ自分で腹を切るのが嫌だっただけだと思うわ。

241:人間七七四年
13/06/11 22:11:28.69 S7s3qlyH
結局この後、日本より武力のない満州族が弱った明を滅ぼして
朝鮮も隷属させるんだから、日本は大損だったなぁ(´・ω・`)

242:人間七七四年
13/06/12 19:08:52.72 iPjJJF/a
日本は他人の事情よりも自分の事情を優先したからね
衰退し始めてたと言えども一枚岩の明に喧嘩売ったんだよね。
ヌルハチってか清国の創設者連中は日本と違って明をよく見てたと思うよ。

明が少し弱ったところで独立して、ほかの満州族を束ねて
明で内乱が起こったところで、片方に味方して急遽明国を侵略、中華世界のボスになる。
味方した明の残党も結局後で滅ぼしたし。

243:人間七七四年
13/06/21 13:13:39.61 Knja3/6V
【韓国】救国の英雄・李舜臣の「乱中日記」、世界記録遺産に登載~日帝時代にウェノム(倭奴)らが奪おうとしたが奪われなかった[06/19]
スレリンク(news4plus板)l50

244:人間七七四年
13/06/26 21:59:18.26 KLqoCTQR
朝鮮総督府が見つけて管理してたのにな>乱中日記

245:人間七七四年
13/06/27 20:53:17.09 k4YPE6Bg
「乱中日記」に限らず
大日本帝国の保護・管理が良かったから
李氏朝鮮時代の遺産が大量に残ってるんだよ

246:人間七七四年
13/07/04 NY:AN:NY.AN 2dL1wNLd
>501 名前: [´・ω・`] FLH1Agw121.kng.mesh.ad.jp[] 投稿日:2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN ID:Rg4Kd3VP [10/10]
>>499
>ば~か、秀吉の朝鮮出兵なんぞ、それこそ織田信長の猿真似だわ。
>秀吉には構想力や理念が無いから、大失敗しただろ。


↑朝鮮出兵って、信長の猿真似だったの?その根拠を教えてください

247:人間七七四年
13/07/05 NY:AN:NY.AN OSLjE6yg
信長は日本を平定したら大艦隊をしたてて中国を征服する考えであった

ルイス・フロイス『日本史』

248:人間七七四年
13/07/05 NY:AN:NY.AN jYGP/2gV
それだけで246の人は「猿真似」っていうつもりだったのかな?

じゃ天下統一ってのも猿真似だよね?徳川家康も信長のパクリじゃ・・・

249:人間七七四年
13/07/05 NY:AN:NY.AN 4D8D6k39
そもそも信長は畿内周辺しか支配してないんだから
中国を征服なんて戯言レベルでしょ。

250:人間七七四年
13/07/05 NY:AN:NY.AN OSLjE6yg
フロイスは誇張癖があると上司に評される人物だからな。

ただし『日本史』は日本側史料には無い話の宝庫で
他史料から否定されるものもあれば考古学的に裏づけられた話もあって
一時の嘘つきフロイスの証言は無効な風潮は見直されてきてるのと
豊臣政権は織田政権内部から発生した後継政権なので
当然ながら豊臣政策は織田政策の継続発展版が基本なのも事実

251:人間七七四年
13/07/05 NY:AN:NY.AN bo5YxH6j
つ、つまり秀吉は信長の猿真似である、ということか?

252:人間七七四年
13/07/05 NY:AN:NY.AN OSLjE6yg
個人的には大言の類だと思うし
発言と実行の間には大きな溝があるので、
合理的かつ世論を気にする性格の信長が唐入りを実行するとっは思わないけど
大言を真に受けた秀吉が唐入りを実行し
それを見たフロイスがあの発言は書き留めとかなきゃと思ったくらいはあるかもね程度

253:人間七七四年
13/07/05 NY:AN:NY.AN tReuQgyc
猿まねっつうか、物事はマネの連続だしな
信長だって三好政権を相当マネしてるし、
家康の幕藩体制の前身は秀吉の統治体制

254:人間七七四年
13/07/05 NY:AN:NY.AN kyY0SkMd
信長は幕府に寄生虫してただけで、
内政なんて何もやってねぇだろ。

信長の根拠なしの大言壮語をフロイスが記憶してただけだわ。
信長が生きていたらキリスト教大名が蔓延して日本は植民地になってたわ。

255:人間七七四年
13/07/06 NY:AN:NY.AN 5zQclR38
信長がこねた餅を秀吉がこねて家康もこねたって感じだからなw
猿真似にしか見えないのなら詳しくないのだろう

256:人間七七四年
13/07/06 NY:AN:NY.AN nTgIrGps
信長が棚ボタ火事場ドロした天下を秀吉がさらに棚ボタ火事場ドロして家康もさらにそれを棚ボタ火事場ドロしただけ。

257:人間七七四年
13/07/06 NY:AN:NY.AN 5zQclR38
だがさんしつこいっすよw

258:人間七七四年
13/07/06 NY:AN:NY.AN ZVoRCR2+
結局、秀吉がやったことはすべて
信長の脳内にあったことだって言う
思考の飛躍wがないと成立しない妄想っぷりが
織田厨クオリティw

259:人間七七四年
13/07/06 NY:AN:NY.AN rpTocy3l
>>246
それ、こいつのことか?
ネ国愛聖のロビー★7
スレリンク(bobby板)

赤穂藩の家老だとのたまう、アホの子孫か
朝鮮人叩きに毎日精を出してるようじゃのう

260:人間七七四年
13/07/10 NY:AN:NY.AN GbZIqgel
>>249
日本の中枢押さえてるから天下取る目前だべ
あれだけ勢力確保すれば特に敵対してない大名は下るし

261:人間七七四年
13/07/11 NY:AN:NY.AN 4+7tuRGY
信長が天下統一まじかとかないわ
別所荒木松永明智など離反がたて続けにおきてたしどの道他の奴に殺されて終りだろ

262:人間七七四年
13/07/11 NY:AN:NY.AN eRw+qFos
信長は信玄にもボロ負けし滅亡寸前の所で偶然的に信玄の死で救われ
謙信にもボロ負けし滅亡寸前の所で偶然的に謙信の死で救われ
弱体化しきった斉藤や内訌で分裂の北畠、対浅井の敗戦や観音寺騒動で弱体化しきった六角相手に火事場泥棒で勢力拡張しただけだもんなぁ
実力で広げた領土じゃないから結局光秀に殺されて織田家は滅亡するわけだし
信玄があと3か月くらい生きてたら武田の天下になったと思う

263:人間七七四年
13/07/11 NY:AN:NY.AN RaSCb5lT
だがさん落ち着いて

264:人間七七四年
13/07/11 NY:AN:NY.AN Uejmaca/
織田も豊臣も結局滅んだしな
織田なんて火事場泥棒と騙まし討ちで勢力広げたけど
所詮実力0だから光秀に殺されて滅んだわけだし

265:人間七七四年
13/07/11 NY:AN:NY.AN 3HUjJ8Be
信長は所詮天下取る器じゃなかったんだろうね
反乱続きだし光秀に殺されなくても別の奴に殺されて終わってただろうし

266:人間七七四年
13/07/13 NY:AN:NY.AN wYc8Zbus
反乱続きなのはどこの勢力でも一緒じゃないか

267:人間七七四年
13/07/15 NY:AN:NY.AN Zjw5MzcD
沈惟敬の秀吉暗殺説はチョンの願望だろw

268:人間七七四年
13/07/15 NY:AN:NY.AN V2wdro4O
>>266
信長ほど大規模謀反が起きてるケースはほとんどない。
織田家を乗っ取った秀吉・丹羽・池田の家中や信長を暗殺した明智家中など
信長は有力家臣の家中の支持がなかった現われ

別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。

荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵

269:人間七七四年
13/07/15 NY:AN:NY.AN 5YUZbrEz
勢力が大きいからな大きくは見える

270:人間七七四年
13/07/16 NY:AN:NY.AN NmNUW4D4
スレ違いばっか

271:人間七七四年
13/07/17 NY:AN:NY.AN dzSbUQRO
「歴史通 3月号」の古田博司氏による「あの、朝鮮民族とつき合う方法」から引用。

以下引用(38~9頁)

日本は豊臣秀吉の時に、朝鮮に出兵しているのを知っていますね?
最近は研究が進んできて、日本の占領地にどんどん朝鮮農民が逃げてきていたことが
分かってしまったのですよ。朝鮮の李朝がひどくて、日本の方がずっといいから、
占領地に城下町もできてしまいます。
朝鮮農民は李朝でひどい目に遭っているから日本の方に行けば良くしてくれるということで、
どんどん日本の占領地に逃げ込んできてしまうわけです。
これが事実なのですね。こんなこと教わってないでしょう?
日本は戦争が強いからどんどん勝ってしまい、そこに日本の城を建ててしまいます。
・  ・  ・  ・  ・
おそらく教科書では負けたと教わったのではないかと思いますが、あれは嘘ですからね。
すでに半島の領地の藩分けもしていたと言われているのです。
でも、秀吉が亡くなって、そのまま撤兵することになってしまいました。

引用終了

学校では全く教わっていない、知らない話でした。

272:人間七七四年
13/07/17 NY:AN:NY.AN uwrxtQYi
へぇ
文禄の役の時に秀吉が死んだとは知らなかったな。秀吉の死と遠征軍撤退の時系列を確認したほうがいいぜ。

273:人間七七四年
13/07/18 NY:AN:NY.AN TtC6UcFI
にしても慶長の役って打ち切り少年漫画みたいな終わり方だよな

274:人間七七四年
13/07/18 NY:AN:NY.AN p72+aV+g
良くも悪くも、秀吉は替えのいない存在ということ

275:人間七七四年
13/07/27 NY:AN:NY.AN nxv0kpaT
徳川家康の軍隊が朝鮮に攻めこんでたら慶長の役には勝てたの?
スレリンク(morningcoffee板)l50

276:人間七七四年
13/07/30 NY:AN:NY.AN +N0Eqgf4
「歴史通 3月号」の筑波大学大学院教授・古田博司氏による「あの、朝鮮民族とつき合う方法」から引用。

以下引用(38~9頁)

日本は豊臣秀吉の時に、朝鮮に出兵しているのを知っていますね?
最近は研究が進んできて、日本の占領地にどんどん朝鮮農民が逃げてきていたことが
分かってしまったのですよ。朝鮮の李朝がひどくて、日本の方がずっといいから、
占領地に城下町もできてしまいます。
朝鮮農民は李朝でひどい目に遭っているから日本の方に行けば良くしてくれるということで、
どんどん日本の占領地に逃げ込んできてしまうわけです。
これが事実なのですね。こんなこと教わってないでしょう?
日本は戦争が強いからどんどん勝ってしまい、そこに日本の城を建ててしまいます。
・  ・  ・  ・  ・
おそらく教科書では負けたと教わったのではないかと思いますが、あれは嘘ですからね。
すでに半島の領地の藩分けもしていたと言われているのです。
でも、秀吉が亡くなって、そのまま撤兵することになってしまいました。

引用終了

学校では全く教わっていない、知らない話でした。

277:人間七七四年
13/07/31 NY:AN:NY.AN a3hlyg2W
半年近くも前のネタをマルチコピペしまくって、ニワカなアホですか?

278:人間七七四年
13/08/01 NY:AN:NY.AN lImF5OA1
>>277
いや、これは知られるべき内容だと思うよ。
反日左翼と、韓国・在日朝鮮人は数百年前のことを持ち出して、
ネチネチと反日活動をおこなって金や領土を奪い取ろうとしてるしね。

とくに文禄・慶長の役は嘘が多いw

279:人間七七四年
13/08/01 NY:AN:NY.AN SJ5fcWfF
>>278
文禄の役と慶長の役を混同してるようなバカ教授の与太話が知られるべき内容だと?
文禄・慶長の役は嘘が多いというのは同感だが、このコピペも大概だぞw

280:277
13/08/02 NY:AN:NY.AN 5chUMImx
>>278
教授の肩書きがある人間がこういった発言をするということ自体は
ある程度は評価できても、もう古田センセは専門外のことを自分の
無知を自覚せずにしゃべくりまくる辺りが、お粗末すぎだからなぁ。
前にも、染料と顔料の区別さえ付いてないというのがあったし。

要は、馬鹿な味方は敵より怖い、ってのを地でいきそうでさw


だから、そういうのをわきまえず、賞味期限切れのネタを
嬉々としてマルチポストしている>>276みたいのは、
阿呆にしかみえん。

281:人間七七四年
13/08/02 NY:AN:NY.AN IjZlvyYa
つか半島と同じレベルに自ら落ちてるだけだわな

282:人間七七四年
13/08/02 NY:AN:NY.AN YfJBDgtg
まぁ、左翼とか半島人、在日朝鮮人にとっては、
秀吉軍の占領地に朝鮮人がドンドン、逃げていたってのは
絶対に認めたくない事実だわな。
反日材料のネタも無くなるわけだし。


明軍が関わった数万単位の合戦で、明確に明軍の勝利と
言えるのは第三次平壌攻めくらい(おまけに不意打ち)

第二次平壌の戦い(日本勝利)
第三次平壌の戦い(明軍勝利 勧告により小西が城を明け渡す)
碧蹄館の戦い(日本勝利)
稷山の戦い(日本勝利)
南原城の戦い(日本勝利)
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(日本勝利)

露梁について補足。
明軍、朝鮮軍、日本軍の2倍の兵力&待ち伏せの好条件ながらも
小西軍、島津軍を殲滅できずに取り逃がす。
朝鮮軍主将の李舜臣が戦死 明軍副将の鄧子竜が戦死。

特に慶長役で明軍が負けた戦いは、いずれも明史、朝鮮王朝実録などで
大敗、大損害、人が溶けたと表現されるくらいの潰走っぷり。

第二次晋州城攻防戦では明軍救援に赴かず(または秀吉軍に撃退されたとも)
南原の戦いでも付近にいた陳愚衷旗下の明軍3000千は動かず、
南原が落ちると、これも付近にいた朝鮮軍1000とともに散り散りになって逃げた。

戦意も低く、日本軍を恐れているのがわかる。

283:人間七七四年
13/08/02 NY:AN:NY.AN YfJBDgtg
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)
URLリンク(tokugawa-tokugawa.blogspot.jp)
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)
URLリンク(tokugawa-tokugawa.blogspot.jp)


唐武陣 文録・慶長の役の偏り5 中国(明)・朝鮮から見た日本の船
URLリンク(zaq.ne.jp)

284:人間七七四年
13/08/02 NY:AN:NY.AN rhYjrU+D
  
  
世界史板のスレで物凄いのが沸いているなw
スレリンク(whis板:924-番)


  

285:人間七七四年
13/08/02 NY:AN:NY.AN xDpbJgt8
>>279 >>280
与太じゃないよ。
283の下のURL先の記事で宣祖実録や懲毖録の、それぞれ違う報告書で秀吉軍地域に逃げ込んだり、
日本の風俗に従って生活してる朝鮮人のことが書かれてたのを確認した。
実録の巻数をみると時期は1595年頃だから、初期の混乱期ではなく、
交渉時期という落ち着いた期間に朝鮮人が次々と秀吉側に逃げてるのは興味深いな。

つか歴史的事実に賞味期限も糞も無いだろ。
278の言じゃないが、無知だと一方的に相手の言うことに騙されることになるから
こういうことを知っておくのは詐欺られない為に絶対必要。

まぁ、そこまでムキになってる、
あんたの思想や出自はなんとなくわかるけどね。

286:人間七七四年
13/08/03 NY:AN:NY.AN SOOnzrxq
>>285
朝鮮人認定キターw 付け焼き刃の知識でいきり立ってる夏休みの
お子さまかよ。ヤレヤレ

文禄4年なんてのは引き続く飢饉で餓死者続出、流民が夥しかった
時期なんだが、食い詰めた流民(土地を捨てた古田センセいうところの
"朝鮮農民")が、よりましな日本側支配地に流入したからと言って、
それを朝鮮民衆が日本の徳をしたって集まってきたとでもいうような
拡大解釈してどうするよw
朝鮮民衆の宣撫策はモデルパターンだった咸鏡道で破綻した時点で
終わってるというのは変わらんだろ。

あと、賞味期限切れ、ってのは古田センセのこの手のネタ話のことな。
発表されると無知無教養な連中だけはがっつり喰い付くけどさw

287:人間七七四年
13/08/03 NY:AN:NY.AN xOr3px9E
【ラジオ】米ローカル局の司会者が韓国蔑視?「犬肉でも料理してあげて」と発言
 韓国ネット「犬肉文化の何がおかしいのかwwwwww

ロサンジェルスのローカルラジオ放送局「KFI」(KFIAM 640ステーション)で、
米国の司会者が韓国人をバカにする発言をしたとして、韓国内で物議をかもしている。
問題発言があったと指摘されているのは、同放送局で放送された
法律番組。司会者の弁護士ビル・ヘンデルさんは、視聴者から相談を受けつける
コーナーで、フィリピン系女性から寄せられた悩みを聞いていた。
ビル・ヘンデルさんは、女性が「韓国人の家主とトラブルがある」と語ると、
「犬肉でも料理してあげればいい。韓国人はフィリピン人が好きじゃない」と発言。
さらに「韓国人の家主は、借家人の境遇なんて気にしていない」と独自の考えを述べた。
最高だなWWWW

URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)

288:人間七七四年
13/08/03 NY:AN:NY.AN xOr3px9E
4月25日(木)、TBSが夕方の報道番組「Nスタ」で
新大久保デモの特集を放送した!内容はデモをほぼ一方的に批判する
内容となっており偏っていた。「日本人差別をやめろ」の横断幕や
「日本人を脅して補助金ざんまい」のプラカードなども映ってはいたが、
番組がそれらについて特段取り上げることはなかった。
URLリンク(blog-imgs-59.fc2.com)
アナ
「私はこれは言葉による暴力だと思うんですねー
あの、ぶちころせとかみなごろしにしろっていう言葉をですねー
表現の自由として議論すること自体に疑問を感じます
国家による法規制を議論する前に、こうした行動とか発言をですね
日本国民として受け入れられるのかどうかをまず考えるべきだと私は思いますね!」

女子アナ
「はい、本当にそうですねー」

●TBSは韓国人に乗っ取られている。wwwwwwwwww
【就職】「在日は武器」 在日女子大生、面接で靖国や独島の質問答えて
TBSに内定:2007/01/10(水) 民団新聞
■TBSテレビ内定【李民和】さん
URLリンク(blog-imgs-34.fc2.com)
↓2年後↓
URLリンク(blog-imgs-34.fc2.com)

【金景敏】(TBSテレビ編成制作本部スポーツ局勤務)
【TBS社員が韓国代表に】 アメフトW杯、TBS社員など在日10人が韓国代表に!!!
URLリンク(blog-imgs-34.fc2.com)

2010年4月12日スタート『水戸黄門』シリーズ「第41部」第三話の監督は金鐘守www
金鐘守は2009年7月27日スタート『水戸黄門』シリーズ「第40部」
第一話(初回2時間スペシャル)でも監督を務め、両替商の「高麗屋」
お吉が善人として登場した。↓wwwwww
URLリンク(blog-imgs-34.fc2.com)

289:人間七七四年
13/08/03 NY:AN:NY.AN xOr3px9E
●韓国人に乗っとられた劇団四季●
「ライオンキング」
主催:劇団四季/フジサンケイグループ
特別後援:JR東日本

ラフィキ=金原 美喜、鄭 雅美、茜 りな、光川 愛(韓国)
ムファサ=平山 信二(韓国)
ザズ=布施 陽由(韓国)
スカー=金森 勝(在日)
シェンジ=孫田 智恵(韓国)
バンザイ=本城 裕二(韓国)
エド=韓 盛治(在日)
ティモン=黒川 輝(韓国)
プンバァ=福島 武臣(韓国)
シンバ=三雲 肇(韓国)
ナラ=江畑 晶慧、谷原志音、愛沢 えりや(韓国)

URLリンク(blog-imgs-59.fc2.com)
シナ朝鮮の犬HKwww NHK「ニュースウォッチ9」で劇団四季
(韓国劇団・民団死期)を10分間超にわたり宣伝!www

290:人間七七四年
13/08/06 NY:AN:NY.AN bj4DkJk6
まあ日本占領地なら義兵のふりした朝鮮人の匪賊に略奪されたり殺されたりせずに済むからなw

291:人間七七四年
13/08/08 NY:AN:NY.AN znrsH5wx
>>286
俺も285じゃないが君に名誉朝鮮人の称号を送るよw
朝鮮側に立って奮闘しているのだから、本来なら喜ばしいことだろ。

>それを朝鮮民衆が日本の徳をしたって集まってきたとでもいうような
ああ、要するに従来のように「一致団結して倭奴の侵略軍と戦った」
という反日カードのひとつが崩れるの認めたくないといわけねw

>咸鏡道で破綻した時点で
成功してるってw そもそも下記↓の
URLリンク(zaq.ne.jp)
朝鮮人が日本軍統治区に避難してるってのは慶尚道の記録だし。


徳川幕府時代の捕虜返還の交渉で、
朝鮮に帰ったのは少数の支配階層だけなんでw

下層階級の人たちは、帰りたがらなかったし、
港まで連れて行ったのはいいがみんな逃走してるし。

292:人間七七四年
13/08/08 NY:AN:NY.AN A0eFK6B3
ワロタ ID:SOOnzrxq が恥ずかしすぎる(藁
どっちが付け焼刃なんだか。

293:人間七七四年
13/08/11 NY:AN:NY.AN X5vz+EA/
朝鮮民衆が日本占領地に住み着かなきゃ、
安国寺とかがガキ共集めていろは歌なんか教えてられんなw

294:人間七七四年
13/08/11 NY:AN:NY.AN GTDhWCq4
何を笑われてるのかまだわかってないのか

295:人間七七四年
13/08/12 NY:AN:NY.AN jR1JcupC
宣祖実録の記録と、小西行長とその将兵から聞き取りしたフロイスの記録に残る、
日本人に成りすまして、略奪暴行する朝鮮人の記録↓(今も昔も変わらないね)

URLリンク(zaq.ne.jp)

296:人間七七四年
13/08/12 NY:AN:NY.AN s9bIjwNN
>>294
馬鹿につける薬はないということだね

297:人間七七四年
13/08/12 NY:AN:NY.AN jR1JcupC
>>296
朝鮮人に期待するのが無理だろう。



李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)
URLリンク(tokugawa-tokugawa.blogspot.jp)

李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)
URLリンク(tokugawa-tokugawa.blogspot.jp)

298:人間七七四年
13/08/13 NY:AN:NY.AN Z9ustAjO
李舜臣が日本水軍を壊滅させたとか、補給線を断絶したとか言った奴誰だよww
北島卍?

299:286
13/08/16 NY:AN:NY.AN XDnpPr6Z
あー、やっと規制あけた。その間、夏休みのお子さま2号with金魚のフンが
ずいぶんと調子こいてたなw
 
>>291
で、オマエ素で馬鹿だろ。

>成功してるってw~慶尚道の記録だし。  

とか言ってる時点で、多少の知識が有れば即座にそれと判るであろう、
当初日本側に最も協力的であった咸鏡道における加藤・鍋島勢の経略失敗の
話をしている事がまるで理解できてないのが丸判りで、自分は基礎的な
知識すらないのに伸びしてる無学なガキです、と自己紹介してるようなものw
 
さらに、ドヤ顔で何を持ち出してきたかと思えば、相変わらず飢饉と重なる
休戦期の話だし。
西生浦の話はともかくとして、解放された捕虜が食い物がないので
日本側に戻って行ったなんてのは、飢民が相殺食す、と記録にあるほどの
飢饉の傍証にしかならんし。
おまけに引用すべきURLが間違ってるしw、正しくはこれだろ。
URLリンク(zaq.ne.jp)

そもそも、いつの時点の話で、どんな史料を根拠にしているのかも判然としない、
どう見ても都合のいいところだけをつまみ食いしてつなぎ合わせたような
古田センセも雑文を、マルチポストしまくった上にこれを知っておくのは絶対必要キリッ!とか
言い出すのは、まさしくウリナラ学者の珍説・奇説を鵜呑みにしてオナニー史観に
浸ってる韓国人とさして変わらないメンタリティであり知的レベルだと言うこと
くらい自覚しろよw
やりたけりゃ、291が引いてきたブログのような史料付き検証サイトを紹介する方が
遙かにマシだな。

ついでだから、上述の相殺食の史料をあげておくわ。

------------------
『芝峰類説』
癸巳(1593)春、大いに飢ゆ。各道の人民、流離巣を失し、餓ヒョウ相属し、人相殺食す。
山中の草葉、松楡の皮根、並びに尽く。

甲午(1594)夏、(中略)人相殺食し、女子稚児、敢えて任意出入せず。餓ヒョウ相続き、
飢民争いてその肉を喰らう。死骨を剥ぎて、汁を取り咽下するに至る。

            ※ヒョウはくさかんむりに俘のつくり=飢え死にすること

300:人間七七四年
13/08/16 NY:AN:NY.AN XDnpPr6Z
おっと。 ×古田センセも雑文を ○古田センセの雑文を

301:人間七七四年
13/08/16 NY:AN:NY.AN XDnpPr6Z
ちなみに、手持ちのタマに朝鮮土民宣撫に関係したちょっと面白いものがあるので、
この際だからスレ住人諸氏の参考に紹介。たぶん、ネット上ではあまり知られてない
一文だと思うので機会が有れば対韓戦闘の実弾にして下さいな。

なお、ガキンチョやフンは三跪九叩頭してから使うようにw

「城中糧粟不多、旦近郷之商人民黎驚明兵之大至、攜其妻子皆入城中、故穀粟尤乏」

         『 鹿児島県史料旧記雑録 後篇三、三四〇「義弘公御譜中」』

蔚山籠城戦の際に、明軍の到来に驚いた近在の朝鮮商人が妻子を伴って入城したため、
元々多くなかった糧食がますます欠乏した、というもの。
慶長の役においても、日本軍と商いをして利潤を得ていた商人は既に日本側を庇護者と
見なしていたという史料なんだけど、逆の見方をすれば農民はそこまでにはいたって
いなかったとも解釈できるので、まぁ、適切に利用して下さいな。
 
個人的には、当時の釜山周辺はベトナム戦争のサイゴンみたいなものだろうな、と
思っていたり。米軍撤退とともに多くの南ベトナム人が渡米したのと同じ事が
朝鮮役でもあったんでないかね。

302:人間七七四年
13/08/19 NY:AN:NY.AN uj2CHDOb
【書籍】 壬辰倭乱から朝鮮戦争まで、外部勢力はなぜ韓半島を分割しようとするのか~「韓半島分割の歴史」[08/18]
スレリンク(news4plus板)l50

303:人間七七四年
13/08/20 NY:AN:NY.AN efy995sp
【中央日報】「万無近隣」…安倍内閣に尋ねたいこと=秀吉を始め朝鮮を900回侵略した日本、韓国と親しくするのはそんなに難しいのか[08/20]
スレリンク(news4plus板)l50

304:人間七七四年
13/08/21 NY:AN:NY.AN OkN/0LiO
【中央日報】「万無近隣」…安倍内閣に尋ねたい事=秀吉を始め朝鮮を900回侵略した日本、韓国と親しくするのはそんなに難しいのか★2[08/20]
スレリンク(news4plus板)l50

305:人間七七四年
13/08/21 NY:AN:NY.AN wGgvhu0n
>>299
冬季が迫っていたのですぐに南部に移動した咸鏡道と
慶尚道を比べても意味が無い。

そもそも秀吉軍地域に逃げていったという事実に過剰に
反応してるのは、君だけだしw
別に飢餓だろうがなんだろうかいいじゃん。
なにが困るのか知らんけど。

それにもともと古田博司は親韓派だぞ。
そういった味方とも言えた人物に駄目だしされてることに危機感を覚えろよ。

306:人間七七四年
13/08/25 NY:AN:NY.AN cA3uWn5r
文禄・慶長の役で日本に連れられた7万名のうち
帰国者はたった4000人という時点でお察し。
94%近く朝鮮人が日本に永住を望んだ。

辛基秀・朝鮮通信使往来から。

307:人間七七四年
13/08/26 NY:AN:NY.AN 8+nTdiqQ
国外に大勢売り飛ばされたんじゃなかったっけ?

308:人間七七四年
13/08/26 NY:AN:NY.AN p8VaIkWh
日本軍地域では飯が食える。

倭軍の被虜となった身で釈放された朝鮮土民中には、
再び倭軍の許に立ち帰って「慶州駐屯の朝鮮軍将兵は、兵力も少なく軍糧も乏しい」との
漏らしている者があると、慶尚左兵使高彦伯が一月二十四日上啓した。
当時、朝鮮軍では釈放されて帰ってきた被虜たちを陣中に留め置いていたが、
給食にもこと欠いたので、ひもじさに堪えかねた者らは、再び倭陣営に立ち帰るため
脱走する者も少なくなかった。
朝廷では聞き捨てならず、巡撫御史徐ショウを叱責し、十分な食料補給処置を取らせる一方、
都元帥と兵使以下諸将にも密命を下して、軍紀を厳しく取り締まらせると同時に軍の機密漏洩に
対する軍律を定めて処罰するようにした。

宣祖実録巻五十九 正月丁酉


西生浦付近の百姓らは、悉く日本の占領地に立ち返って農耕に従事し、
租税を清正に収めているばかりではなく、日本の風俗に従って起居し、
遠近の商人らが互いに往来して市が賑わっていることが、
清正の副将美濃部金太夫と要時羅の書面に依って明らかになった。
朝廷では敵の交通路を断ち、より活発に敵中の百姓らを招慰する方針を
都元帥以下諸官に密命した。

宣祖実録巻六十一 三月甲戌 懲毖録巻四


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