【文禄慶長】 秀吉の朝鮮征伐スレ6 【壬辰倭乱】at SENGOKU
【文禄慶長】 秀吉の朝鮮征伐スレ6 【壬辰倭乱】 - 暇つぶし2ch1:人間七七四年
12/02/03 11:19:28.13 aF7PsUHT
秀吉の朝鮮征伐を語るスレ


前スレ
【文禄慶長】 秀吉の朝鮮征伐スレ5 【壬辰倭乱】

関連スレ
秀吉による朝鮮征伐の軍事分析
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【文禄】 秀吉の朝鮮征伐 【慶長】
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世界史に於ける秀吉の朝鮮征伐の考察
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秀吉による朝鮮征伐に関する考察
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秀吉の朝鮮征伐を明の観点からの考察
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2:人間七七四年
12/02/04 19:31:51.15 SR4uE7cq
2get!

3:人間七七四年
12/02/05 14:55:19.00 hATKY5Dh
日本軍が連戦連敗w

4:人間七七四年
12/02/05 16:35:43.57 tZMvg/dl
韓流史観と媚韓史観ではそうなるな

5:人間七七四年
12/02/05 17:02:03.01 /MyCkyRT
西日本VS明・朝鮮連合
日本最強の関東武者勢力は参加せず終了した

6:人間七七四年
12/02/05 21:24:57.72 Wd4gv2tA
後北条のヘタレっ振りを見るに関東武者は最強じゃ無い気がする。

7:人間七七四年
12/02/05 23:18:01.75 3/UVWQG2
日本軍が連戦連敗w

8:人間七七四年
12/02/06 13:17:26.07 13PPf3Px
嘘も百回言えば本当になるというやつですな

9:人間七七四年
12/02/06 19:52:09.31 OGxa1JuG
柳成竜『懲毖録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)
・日が暮れ、賊(日本軍)は、(白)光彦らの緊張がやや緩んだのを見て、白刃をきらめかせて
大声をあげて突進して来た。光彦らは、あわてて馬を探して逃げようとしたが、間に合わず、
みな賊に殺されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。

・翌日、賊はわが軍が怯えきっているのを察知し、数人が刃を揮って勇を誇示しながら
突進して来た。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。
打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。

・まだ川に身を投じていなかった者には、賊が後ろから長刀を奮って切りかかったが、
みな這いつくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。
 (金)命元と(韓)応寅とは、川の北から遥かにこれを眺め、気力を喪失してしまった。

・わが軍は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発の砲声が響き、
四方面から大声で呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵であったので、
仰天して総崩れとなった。将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、
ことごとく泥沢の中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、まるで草を刈るように
斬り倒し、死者は数しれなかった。

・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。

・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。"

10:人間七七四年
12/02/06 19:53:33.06 OGxa1JuG
  ルイス・フロイス「日本史」  
  ・朝鮮人は頭上に振りかざされる日本人の太刀の威力に対抗できず、ついに征服された。  
   
  ・日本軍は極めて計画的に行動し、鉄砲に加え、太刀の威力をもって散々に襲撃したので、  
  朝鮮軍は戦場を放棄し、足を翼のようにして先を争って遁走した。  
   
  →→・(朝鮮人の)その他の武器には威力がなく、特に刀剣は短く、たいして役立たない。  

11:人間七七四年
12/02/06 22:39:02.62 hLtdF6Zp
あなたの隣の集団ストーカー
駅改札や駅周辺で、人の流れを見張っているのが犯人です。
犯人はナマポで税金で食べていけるため通勤、通学者を
馬鹿にしながらターゲットを見張っています。
エア待ち合わせとエア電話が得意です。
エア荷物、エアマスクもいます。鉄道職員にも犯人がいます。

12:上杉謙信
12/02/07 15:10:38.09 sVv91E0v
朝鮮軍、民を守る気概がない。
軍人として失格。
所詮、中華の属国に過ぎない、李氏朝鮮。

13:義経
12/02/07 15:40:54.45 sVv91E0v
朝鮮なんてさ、賊だよ。
成形して、奴隷を売る国。
まあ、分断国家で良かったんじゃね?
日米と中ロの狭間で生きながらえる人種。
まあ、日本においてはさ、ヨーロッパのユダヤ人みたいなもんだよ。

14:人間七七四年
12/02/08 14:24:55.85 s8kQWzEH
征伐

15:人間七七四年
12/02/09 16:32:47.00 5lqzptQz
【正論】増殖する韓国の「自尊史観」
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
 日本の自虐史観の対照には韓国の自尊史観があるのであり、それはひずんだ鏡のように日韓の関係を歪(ゆが)めてきた。
もはやポストモダン期にある日韓では、世論は反日でも贖罪(しょくざい)でも盛りあがらない。
盛りあがっているのは、韓国の反日市場で利権をあさり、同じく日本の贖罪市場で利権の維持に汲々(きゅうきゅう)とする、一部マスコミと学者たちにすぎないのではないか。(ふるた ひろし)

16:人間七七四年
12/02/09 20:28:46.81 Tk1hzcOV
南朝鮮で学校の先生やってたって人(日本人)が職場にいるんだが、向こうの歴史では加藤清正公や石田三成公は朝鮮の役で討ち取られたことになってるらしい。
そう言う史跡もあるんだって。
ま、日本が敗退した最大の原因は、基本的に現地調達を前提とした兵坦で、そもそも食糧難のうえ国内の道路なんかが未整備な半島での作戦に無理があったんだって笑ってたな。
もう占領しても占領しても、行くとこ、ことごとく荒れ地と貧乏人しかなかったとw

17:人間七七四年
12/02/10 00:30:17.48 8iASnDI1
現地調達による兵站は日本の伝統。
第2次世界大戦でもそうだからなあ。

18:人間七七四年
12/02/10 00:47:01.74 am62Jfcj
んで、それが分かってきて戦略を変え、さあこれからだってところで秀吉が没。
なんというか。

19:人間七七四年
12/02/10 18:41:59.78 PrYbIvyC
当時は世界的に現地調達が基本だったと思うが

20:人間七七四年
12/02/12 10:25:35.67 GQnoVHG3
>>19
別に現地調達を非難してるわけじゃないよ。
半島は現地調達が出来ないくらい貧しい土地だったと言うだけ。


21:人間七七四年
12/02/13 01:17:48.71 oWh6m6lx
朝鮮征伐の七大捷

忠州
龍仁
碧蹄館
晋州
漆川梁
蔚山
泗川

22:人間七七四年
12/02/13 01:25:59.03 oWh6m6lx
因みに>>21の内
韓流国定教科書では忠州以外はスルーパス

23:人間七七四年
12/02/13 01:41:22.48 brwuaVRZ
日本は全部スルーパスだと思うw

24:人間七七四年
12/02/13 01:50:38.43 oWh6m6lx
個々の戦闘名はまず書かないな、日本の教科書は。
その割には鼻削ぎとかは、写真入りでやたらと強調してるがなw


25:人間七七四年
12/02/13 02:02:12.66 oWh6m6lx
高校韓流国定教科書で登場する戦闘

★「壬辰倭乱の勃発」内
釜山
東莱
忠州

★「水軍の勝利」内
玉浦
泗川
唐浦
唐項浦
閑山島

★「倭乱の克服」内
平壌
幸州山
稷山
鳴梁
露梁

26:人間七七四年
12/02/13 02:23:12.06 oWh6m6lx
>>21で韓流国定教科書がスルーしてる日本軍が大勝した戦闘の内
碧蹄館以下の5戦闘が全て>>25の★「倭乱の克服」内 の期間にあることに注目
倭乱を克服したことに歴史を捏造するには、日本軍の勝利が都合悪いからスルーしてるってこと
★「倭乱の克服」内 で出てくる戦闘で朝鮮軍・明軍勝利の内容も出鱈目。
つまり、韓国で「倭乱の克服」と言ってることが大嘘で
本当のところ全然克服できてないのが現実。

そのことは朝鮮や明の史料でも明確。

資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然倶潰, 人心恟懼, 荷擔而立。『宣祖実録』
(三路の明・朝鮮軍は共に潰え、人心は恐々となった。)

自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。『明史・朝鮮伝』
(7年間の戦争で多大な犠牲を出し、明と属国の朝鮮に勝算は無くなっていたが、秀吉が死んで戦争は終わった。)

27:人間七七四年
12/03/13 22:34:52.38 lskFXV7e
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など

【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
スレリンク(sengoku板)l10

28:人間七七四年
12/03/14 23:13:44.22 E3fTh66w
test

29:人間七七四年
12/03/22 18:41:51.22 S3H0uVKj
>>13
 そいつァー違うぜ旦那、あんたユダヤ人を馬鹿にしちゃいけねーや。


30:人間七七四年
12/03/23 21:44:09.21 gMz/5r00
30

31:人間七七四年
12/03/31 01:04:48.79 S827EN8E
まあ、結局は戦略的に敗れたんだけどね。明に上手くしてやられた。
壬申倭乱(文禄の役)では明は小西行長を買収、石田三成に働き掛け、
秀次事件を起こし、日本を大混乱に追いやった。戦闘不能になり、
やむを得ず講和。

丁酉倭乱(慶長の役)は日本は秀次事件の影響で戦意なく、朝鮮南部を
荒らし回るのが精一杯だった。

家康が相手の総大将毛利輝元を放置してまでも三成、行長の斬首に
拘ったのは、両者が明とつるんで日本を売ったことが公然の事実だった
ことも大きい。

32:人間七七四年
12/03/31 07:52:03.33 cNkwBXVl



【社会】 "韓国の家庭に代々伝わる伝統" 「キムチ」や李舜臣の「乱中日記」をユネスコの世界遺産に申請…韓国
スレリンク(newsplus板)




33:人間七七四年
12/04/02 12:05:38.35 c6O9Uq1c
>>31
お前上杉謙信は女だったとか思ってそうだなw

34:人間七七四年
12/04/07 11:27:30.53 wmpjdyG4
女のほうが萌えるな

35:人間七七四年
12/04/08 01:56:24.83 j8zlHXVG
朝鮮役で石田三成が負傷したらしいが、本当かね?
日本の著者でも朝鮮妄想が入り混じってるから
どこまでが本当なのか難しくてw

36:人間七七四年
12/04/09 02:11:48.32 5R06CRcJ
転んだんじゃね

37:人間七七四年
12/04/09 10:56:44.17 UynkJD42
幸州山城の戦いで前線に出張って負傷してるね
文治派なのに無理しすぎ

38:人間七七四年
12/04/11 20:50:57.47 lFBFfX13
完全に文官タイプだけど、それでも武将だぞ
前線に出なくてどうする

39:人間七七四年
12/04/12 16:00:57.29 ze8z9Vwp
とはいえ敵軍の矢が届く距離まで接近するのもどうかと思う
同じように吉川広家も負傷してるけど、こっちはなんか納得してしまうな

40:人間七七四年
12/04/13 01:57:00.38 Tds/0m7T
指揮官は後方で指揮を取るってのは後世のイメージだから

41:人間七七四年
12/04/13 02:06:12.21 4mQES0gh
>>13
おまえはユダヤ人に何か恨みでもあんのか?

>>32
つまりチョンは日本兵が寒さ対策に足にいれてた鷹の爪が溢れたのを拾い食いして
山椒キムチから今のキムチにしたっていう説も無形遺産として世界に広めるって事か
ついに他称から自称乞食国家の誕生だな

42:人間七七四年
12/04/13 11:46:45.60 Zmvx83G1
>>40
いや、だからといって実戦期の武将が常に敵兵の矢が届くほどの最前線に身を置いたというわけではないだろ
ちょっと両極端じゃないか?

43:人間七七四年
12/04/13 18:52:24.03 Tds/0m7T
別に常~にとは言ってない。極端な取り方はしないで貰いたい。

44:人間七七四年
12/04/14 00:49:12.43 PZnTR+GB
>>35
三成は才能が武官に向いていない文官タイプなだけで
性格そのものは武断派以上にイケイケの武闘派タイプだから
三成なら敵兵の矢が届くほどの最前線に身を置いても不思議はない
むしろ秀吉の目が行き届いていない朝鮮だからこそ普段は禁止されている最前線へ行きたがるだろう
そういう人間だからこそ関ヶ原が成立してしまうわけで

45:人間七七四年
12/04/14 06:23:59.62 uOmiYNEp
在特会を許さん!絶対に潰す!(爆)シンポに特別サービスで友情出演
URLリンク(www.youtube.com)
京都の同志社大学はこんな在日や過激派 弁護士を集めて
朝鮮学校擁護集会を学校内でやってるの??
校門前の在日 態度悪いWWW 



46:人間七七四年
12/04/14 06:24:14.17 uOmiYNEp
(浅野健一同志社大教授/在日朝鮮人問題) 同志社には在日が多い
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
構内には元朝鮮人学徒を顕彰する詩碑が複数建てられている。


47:人間七七四年
12/04/14 06:24:51.95 uOmiYNEp
韓国人・朝鮮人は、人が一番嫌がることを平気でやる。
例えば、韓国の企業で ストライキなど起ると必ずと言っていいほど、
労働者側や雇用主側が嫌がらせの意味で、
工場や事務所にバキュームカーで人糞をバラ撒いたとか、
相手の口の中に人糞を無理矢理に押し込んだといった事件が
必ず話題になります。言わば、朝鮮人・韓国人は
「糞尿」のイメージなのです。
つまり朝鮮人・韓国人は極めて不潔、汚い以上に卑しい存在なのです。

<10万もの韓国人女性が国外で売春に従事、 そのうち5万人が日本で売春>
【サーチナ 2010/10/28】 URLリンク(news.searchina.ne.jp)

韓国ハンナラ党の議員がこのほど、韓国国外で売春を行っている韓国人女性は10万人以上に達し、
そのうち5万人が日本で売春を行っていると発表した。環球時報が伝えた。


48:人間七七四年
12/04/18 22:28:05.61 /ZPbxTsd
秀吉が長生きして出兵が続き、
江戸の鎖国した250年が、
大陸を侵食し続けた250年になってたら、
面白そうだと妄想してるんだが??

49:人間七七四年
12/04/19 20:16:33.92 f0ldIgWF
そもそもあの時点でボロボロだったのに250年なんて無理だろボケ

50:人間七七四年
12/04/20 21:23:09.57 v2WLC1T6
ボロボロってなんの事だ?
明軍の士気か? 朝鮮の財政か?

51:人間七七四年
12/04/21 22:23:13.33 vgPx/qVS
>>48
秀吉がどれだけ長生きしようが秀吉が死んだらそこで出兵終了だろ
秀吉が300歳くらいまで生きるのか?

52:人間七七四年
12/04/22 19:29:51.04 dQFVAE4u
>>51
撤兵したのは秀吉の死とともに日本が無政府状態に陥ったから。
(厳密には秀次事件以降秀吉政権の末期も無政府状態に近かった。)
日本が無政府状態でなければ、後継者の政策次第で続いていた
可能性もあるよ。

53:人間七七四年
12/04/23 00:26:18.37 Mooazs8C
まぁ秀次になったら諸将が撤退を声高に主張しだすだろうな。
あんな土地に割り当てられたら目も当てられん

54:人間七七四年
12/04/27 19:52:33.47 lOMY1LCO
【ゲーム】 李舜臣将軍モデルのロボット登場~日本で突風「ガンダムよりすごい」「韓国がこんなロボットを作れるとは」★3[04/21]
スレリンク(news4plus板)l50


55:人間七七四年
12/04/30 13:18:53.48 j5X8I0Pb
既成事実化推進してます。

【日韓】韓国に沙也可の足跡伝える韓日友好館オープン
URLリンク(www.wara2ch.com)

56:人間七七四年
12/05/04 00:35:15.69 J4/XS4AZ
沙也可「チョンって、ホントばか」

57:人間七七四年
12/05/08 15:42:10.58 oGDwOMms
そもそも存在しないんじゃねぇか
日本人の名前じゃねぇ上に、漢字表記なら日本人名そのまま使うだろうし

58:人間七七四年
12/05/26 12:42:52.71 TYj11oD0
>>50
補給がボロボロだったってことじゃね?

59:人間七七四年
12/05/27 00:39:31.66 /al6T1B1
南側までは補給できてたんだから、別にボロボロというほどでもないと思うが。
むしろ勝手に前進しすぎ

60:人間七七四年
12/05/27 01:20:46.09 TIccOlHy
というか勝手に前進しすぎた結果が数万人の犠牲じゃん

61:人間七七四年
12/05/27 02:03:36.57 /al6T1B1
その後直ぐ戦線縮小したべ
戦略レベルでは堅実そのものの戦いじゃないか。
戦闘レベルだとジャンプで敵陣に飛び込んで無双とか脳筋のまんまだけど

62:人間七七四年
12/05/27 02:25:06.21 TIccOlHy
でも全軍の三分の一も死んでるじゃん

63:人間七七四年
12/05/27 08:15:42.44 /al6T1B1
6年も戦争続けりゃそんなもんだろ。
中世の戦争だから、損害扱いのかなりの部分は脱走兵だろうし

64:人間七七四年
12/05/27 18:54:27.06 D3heVzrE
中世の遠征の死者の大半は病傷死者
その常識を覆して戦死者より病死者が少なく各国からどんな衛生術使ってるんだ!と
各国から視察団が殺到したのが日露戦争の日本陸軍
(実態は旅順攻撃がアレでソレだったんだけど)

65:人間七七四年
12/05/29 02:12:13.80 CUz3X6q/
あの大損害を取り繕った辺りから日本の末路が見えてたな

66:人間七七四年
12/05/29 14:13:19.96 rS0z1AKt
まーた「日露戦争で日本は勝ってない!」論かよ

67:人間七七四年
12/05/29 14:23:13.05 aa6+VWys
なにそれ?

68:人間七七四年
12/05/29 21:28:52.51 CUz3X6q/
見えない敵と戦ってんじゃねーの?

69:人間七七四年
12/06/05 09:36:54.11 HkHcu1V1
秀吉が福島に宛てた書状を見ると
清正が皇子らを捕らえたことを注進してきた話の中で
向こうは寒空で上下の者どもは堪え難いので
当物成半分人数
応高頭可支配候
残半分為兵糧蔵可納置候也
などと書いてるんだよね。
頭数に応じて半分を配って支えろ
残り半分は蔵に置いておけって話なんだろうけど
まだ9/22(いまで言えば11月入ったくらいか)
なのにこの寒さとか朝鮮半島無理ゲー過ぎる凍土だろ。

70:人間七七四年
12/06/05 09:54:44.26 HkHcu1V1
秀吉が福島に宛てた書状を見ると
清正が皇子らを捕らえたことを注進してきた話の中で
向こうは寒空で上下の者どもは堪え難いので
当物成半分人数
応高頭可支配候
残半分為兵糧蔵可納置候也
などと書いてるんだよね。
頭数に応じて半分を配って支えろ
残り半分は蔵に置いておけって話なんだろうけど
まだ9/22(いまで言えば11月入ったくらいか)
なのにこの寒さとか朝鮮半島無理ゲー過ぎる凍土だろ。

71:人間七七四年
12/06/05 12:08:30.51 1gwIc9s8
ソウルですら日本で言えば宮城か岩手辺りの緯度だからなあ

72:人間七七四年
12/06/05 13:28:28.66 UF9IQ9Kz
実際、長期駐留には、南国九州の大名でなく、
東北、北陸の大名を割り当てた方が良かったんじゃなかろうか。
寒い気候だったろうし

73:人間七七四年
12/06/11 04:47:50.88 fvxs281x
名護屋在陣で兵力を温存できた家康

74:人間七七四年
12/06/14 09:56:16.24 sqRAU7+v
>>73
家康は明侵攻の主力の予定で温存されてたからね。

75:人間七七四年
12/06/14 18:38:55.35 BQ1uAtf3
餓死者、凍死者が出た戦い

76:人間七七四年
12/06/29 04:37:38.75 6jt7lPGv
>>56
まあ、わかっているかもしれませんが、”雑賀”のことなのではないかと
いうのがよくある見解
(沙也可の朝鮮よみと、Saigaまたはsaikaの音の近似
沙也可は鉄砲の名手だった点
雑賀はそもそも傭兵)

まあ、いずれにしても、ある段階で日本側から明側に寝返った日本人の
集団または個人がいたのは不思議でもないでしょう。

77:人間七七四年
12/06/29 04:50:22.22 6jt7lPGv
>>69
朝鮮半島の大半は冬季少雨の冷帯に属している
ので雨(雪)が降らない分冬季の寒さは半端ではない
(確か、ソウルで1月の平均気温が-4、ピョンヤンだと-9ぐらいだと)
日本だと、札幌、旭川位の感じ

78:人間七七四年
12/06/29 19:24:56.10 O9pqmHIU
直接中国侵攻は無理としても、海岸拠点を確保して超賎半島岸づたいで山東半島
上陸・北京侵攻っていう選択肢はなかったのかな?
それとあんまり注目されてない気がするんだが、モンゴル軍と違って日本軍は歩兵
主体だったっていうのは不利な要素だったと思う


79:人間七七四年
12/06/30 21:56:17.78 Ou5eVA/I
単純に補給ラインの問題だから騎馬は関係無いだろう
明はあの時点では弱体化してなかったし

80:人間七七四年
12/06/30 22:54:42.23 bGUHSJwM
騎兵主力の明先発隊は平壌で小西行長にぼこられてる

81:人間七七四年
12/06/30 22:55:36.70 bGUHSJwM
おっと読み違えた

82:人間七七四年
12/07/01 02:29:57.96 tjUXJrZA
大規模陣形を組まない上に、鉄砲の多い日本の場合、騎兵はあんまり怖くない。
崩れた時に追撃されるのが怖い位

83:人間七七四年
12/07/10 21:54:50.29 42yZkcSP
日本側にドラグーンを!
伊達騎馬鉄砲隊って竜騎兵みたいなもんじゃ?
そういうので明軍を蹴散らして欲しい

84:人間七七四年
12/07/11 00:21:52.67 DfVpPNHy
伊達の騎馬鉄砲隊って言ってみりゃ西洋でいうカラコールだよ。
カラコールなんて帯に短し襷に流しを地でいく完全なネタキャラだよ。

85:人間七七四年
12/07/11 09:29:08.20 hrKRmbsi
重装槍騎兵に止めを刺したときはネタキャラじゃなかったんだけどな
方陣に対してはネタキャラだけど

86:人間七七四年
12/07/11 10:37:46.30 jbK2zR2i
>>45
在特会 = 在日特権を許さない市民の会

生活保護を守れ!
URLリンク(www.nicovideo.jp)
外国人に食いつぶされる日本
URLリンク(www.nicovideo.jp)
韓国は即刻竹島から出て行け!
URLリンク(www.nicovideo.jp)

87:人間七七四年
12/07/11 22:17:16.73 Yhgw52qU
>>85
歩兵に重騎兵がトドメさされたからカラコラールなんて可哀想な子ができたんだと思う

それはそうと単なる騎乗鉄砲歩兵なら意味はあると思うな

88:人間七七四年
12/07/12 09:56:08.14 ExBcBRn0
そのピストル騎兵が三兵戦術に繋がるんだからそんなに
貶めるものでもないと思うが。

89:人間七七四年
12/07/12 11:25:35.99 kqTSCQF3
でも結局「サーベル突撃のがいいじゃん」っていらない子になりましたし。

90:人間七七四年
12/07/12 18:24:27.30 lk6SNF5C
考えてみると「個人の技量に裏打ちされたご恩とご奉公の武士」っていうのは、外征軍として不向きじゃないかな
とは思うね
オスマン・トルコ帝国や明軍も砲兵・騎兵・歩兵の兵科が一人の指揮官に指揮される形態で運用されてた訳で、給養
とか補給・補充も国が責任持ってたし(現地調達もあったようだが)
失敗するべくして失敗したと考えるべきかも知れんね

91:人間七七四年
12/07/12 20:17:13.72 kqTSCQF3
鎌倉武士かなんかと勘違いしてない?

92:人間七七四年
12/07/12 21:39:04.62 ZAQupN9l
鎌倉武士だって必要なら群れるべ

93:人間七七四年
12/07/13 00:06:19.42 L2Rw1g3n
というか鎌倉武士は一族郎党単位で群れるのが普通で
規模が大きい場合(源平とか承久の乱とか元寇とか)は
大将の指示に従って一斉に戦うべ。
鎌倉武士が個人戦闘メインなんて俗説だべ。

94:人間七七四年
12/07/14 12:11:41.93 67ho4OnI
一騎打ちって言っても随伴歩兵も含めて「一騎」だろうしねぇ

95:人間七七四年
12/07/14 12:50:10.38 FQBR0N6F
そもそもその一騎打ち自体が殆ど起こらなかったからね。
基本的には「一斉に矢をいかけた」「○○以下数百騎が突撃した」とかばかりだし。

96:人間七七四年
12/07/15 01:36:11.39 jN0cuk+K
史実だと奴隷兵みたいな連中が主力だったけど
モンゴル騎兵VS鎌倉武士
みたいなガチンコ勝負を見てみたかった気がする。

装甲と数の差で勝負にならん気もするが・・・

97:人間七七四年
12/07/15 03:00:41.81 BbWzL1iq
奴隷兵じゃなくてれっきとした正規軍だよ。
東路軍はモンゴル人と漢人がメインだし
江南軍の南宋兵だってれっきとした正規軍をぶつけてる。
奴隷だなんてどこの一次史料にあったんだ?

98:人間七七四年
12/07/15 03:03:57.73 BbWzL1iq
あと装甲と数の差で勝負にならないとはどっちのことを指してる?
装甲なら武士のが上だが、モンゴル軍にとって装甲があんま意味ない事はリーグニッツで証明済み。
数の差に関しては兵力数では日本のが上だぞ。
そもそも純粋なモンゴル人兵士なんてモンゴル帝国全体で10万行くか行かないか程度だし。

99:人間七七四年
12/07/15 03:05:49.03 BbWzL1iq
元寇については最近一次史料の研究が進んでるからな。
杉山あたりの本ソースに棄民だの元軍は本気じゃないだの
あんまし適当なこと言わない方がいいぞ?

100:人間七七四年
12/07/15 14:45:06.19 jN0cuk+K
敗戦国の捕虜を連れてきたのを奴隷兵見たいと表現しただけだが
連投する程興奮することか?

101:人間七七四年
12/07/15 17:38:14.59 BbWzL1iq
亡国の兵士を自軍に取り込んで正規軍として再編成し
その一部を遠征軍として送り出すのを「奴隷兵を送る」とは斬新な表現だな。
それじゃあ歴史上の大帝国の殆どは奴隷兵が作った帝国になってしまうな。

102:人間七七四年
12/07/15 21:16:25.16 XCclMbxG
騎兵の馬ちゃんには
撒菱
馬上の人物には手裏剣ってワケにはいかないのか?

103:人間七七四年
12/07/16 00:06:23.15 p6t2iN/r
>>101
心底どうでもいい

104:人間七七四年
12/07/16 00:15:26.40 k023e2w9
>>102
普通に鉄砲と槍でよくね?

105:人間七七四年
12/07/16 00:44:24.64 p6t2iN/r
鉄砲前だとしても弓うちゃいいしな

106:人間七七四年
12/07/31 10:57:46.09 AM1kpXxA
>>103
心底どうでもいいはずなのにいちいちレスする矛盾ww

107:人間七七四年
12/07/31 11:51:52.75 3upy2+rX
そんな二週間以上前のレスにレスされても・・・

108:人間七七四年
12/08/04 17:35:45.20 EKkdQ8ia
顔真っ赤wwwwww
とかレスしてあげると、顔真っ赤にして煽りだしそうだな

109:人間七七四年
12/08/22 16:53:06.41 I2USVIey
【韓国】「豊臣秀吉の朝鮮侵略に抵抗した義兵の精神を受け継いだ」と無罪主張=ソウル日本大使館トラック襲撃の韓国男[08/22]
スレリンク(news4plus板)l50

110:人間七七四年
12/09/27 22:15:59.10 OyF2PJBo
本日は黄石山城攻略記念日
(慶長2年8月16日)

111:人間七七四年
12/10/15 08:46:14.81 lkHZMsQM
日本VS朝鮮って扱いはおかしいと思う
日本VS明国が正当だしもっと言うと
九州中国四国大名連合VS明国精鋭&朝鮮国になる

112:人間七七四年
12/10/15 18:50:46.35 7OiGZUHG
>>111
終盤から終戦後は朝鮮国との交渉しか窓口が無かったし
当人達の認識は違うかも知れないが
歴史的に見て日本VS朝鮮で問題ない

113:人間七七四年
12/10/15 20:19:32.65 7002YGsM
一応国力上げて補給とかしてたり、政権トップが外交もしてるんだから日本VSと言うべきじゃないかなあ

114:人間七七四年
12/10/15 21:44:16.16 K4LkeGsg
日本vs明でしょ。

戦争終結に際しての和議もこの2国間で決められたわけだし。
朝鮮はずっと蚊帳の外。

115:人間七七四年
12/10/16 00:55:09.42 jQyodQTx
>112は異世界史でも学んでたのかね。例えば南朝鮮国史とかさw

文禄の後の講和交渉はもちろん、終盤も朝鮮は全く蚊帳の外で、
ウリナラ救国英雄・李舜臣もギギギ<丶`田´> と歯ぎしりしてただろうに。

116:人間七七四年
12/10/16 22:50:27.93 DY3QagBG
どっちも間違いじゃない。狭く言えばvs朝鮮だし広く言えばvs明でいい。
vs朝鮮単独、とかいうと間違いになるけどね。

強いて言えば日vs明でいいと思う。朝鮮は明の属国(柵封)だったわけだから。

117:人間七七四年
12/10/17 00:19:27.67 RioR6ijx
本日 2012/10/17は
1597年(慶長2年9月7日)
慶長の役、稷山の戦いで黒田長政が明軍を撃退した日。

118:人間七七四年
12/10/21 07:24:16.30 4GOvUM71
>>73
秀吉はむしろ家康を朝鮮の役に参加させたくなかったんだよな。
秀吉は西国大名や秀吉の親族を勢力拡張のための緒戦出兵だ。

秀吉は秀次に宛てた手紙の中で
・明を征服したら(後陽成)天皇を北京へお連れし周辺三十カ国を献上する
・秀次は大陸の関白となし、北京周辺百カ国を与える
・秀吉自身は寧波にあって天竺攻略の指揮を執る
・日本の天皇は八条宮(天皇弟)か良仁親王(天皇皇子・皇太子)とし豊臣秀保か宇喜多秀家を関白とする
・九州は小早川秀秋に任せる
・朝鮮は豊臣秀勝か宇喜多秀家に任せる

実際にこうなってれば家康なんて物の数ではなかった。

119:人間七七四年
12/10/21 10:40:52.15 d6esz5jI
>>118
文禄じゃ先鋒が加藤と小西、慶長じゃ先鋒は加藤だからな
子飼いに手柄を取らそうって意図が読み取れる

ただ、明を征服できたらともかく
慶長の役は朝鮮南部(今の韓国の国土に近い)の割譲が目的なんだけど
これは秀吉があと5年長生きしてたら成功してた可能性もあるけど
これが成功しても豊臣政権が磐石とは言い難い。

120:人間七七四年
12/11/08 08:32:56.39 HRkTs+0q
>>118
旨みのない朝鮮北部を支配するのは嫌だっただろうな
現場は南部限定で支配したかっただろうな

121:人間七七四年
12/11/18 18:32:09.35 TvWf7YLe
秀吉が死んで国内政治がgdgdになったので撤退した訳だからな、慶長の役の場合
戦争自体では特に負け無しではあった

122:人間七七四年
12/11/24 15:24:42.59 +FKRff3e
朝鮮征伐

123:人間七七四年
12/12/22 17:16:16.39 juMyd7Xz
>>121
慶長の役は、文禄の役の反省を踏まえてほぼ満点に近いデキだしね。
けど、朝鮮全土を制圧するのに何年かかるわ分からん状態でもあるな
具体的などんなプランだったんだろ。

124:人間七七四年
12/12/30 16:03:39.65 lQaOCNsW
日本軍が連戦連敗

125:人間七七四年
12/12/30 18:28:57.22 AnDZL47H
>>124
そうでもない
朝鮮義勇軍や明軍には負けてたが
朝鮮正規軍にはある程度は勝ってた

126:人間七七四年
13/01/01 03:44:47.39 +5AvNiM2
妄想ばかりで哀れになってくるな
その連戦連敗の日本軍から一度でも城攻めで城を奪取したことや
名のある大名を何名か討ち取ったことはあるのかね?

127:人間七七四年
13/01/05 23:26:49.64 cNWDUXqS
【韓国】 国会議事堂にある李舜臣将軍銅像、「親日銅像」と批判され1億ウォンで作り直すことに[01/03]
スレリンク(news4plus板)l50

128:人間七七四年
13/01/06 16:06:24.74 BN/cOQoP
>>127
>中国式の鎧と日本式の刀を差している、いわゆる'親日銅像'と批判されてきた国会議事堂の李舜
臣(イ・スンシン)銅像<写真>が撤去され新しく建設される。


なんだほんとに日本刀じゃないか

391 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん [sage] :2013/01/05(土) 17:11:06.82 ID:mfDgBpCd
李舜臣の愛刀とかいわれている「雙環大刀」
URLリンク(www4.kjclub.com)(1).jpg
URLリンク(xn--eckud3f.kjidai.com)

武芸図譜通誌の環刀
URLリンク(hsmuseum.suwon.ne.kr)

129:人間七七四年
13/01/06 18:58:14.65 upHyaKH7
和刀っぽいなぁ
本当に李舜臣の刀だとして
途中で導入した物かねぇ?

130:人間七七四年
13/01/07 09:21:16.73 PXGlTKsp
当時の明国じゃ日本刀を模した倭刀、苗刀が大流行してたからね。
勿論、宗主国様の国の流行り敏感なのは属国に常なので李瞬臣も倭刀は装備済み。

親日銅像も何も事実に忠実なんだから仕方ないでしょうに
得体の知れない刀剣でも持たせるのかね。

131:人間七七四年
13/01/07 12:40:15.76 jNrzio7V
カタナの起源は韓国ニダ、ってーのはどうしたんだろうな。
韓国起源なら別に日本刀でも苗刀でもいいだろうw

132:人間七七四年
13/01/07 20:01:25.23 fM7e7M6Z
日本刀→親日派!
中国刀→属国清大

独自の文化のない国は大変だな

133:人間七七四年
13/01/12 11:32:28.40 iU2e3Rl7
偽倭寇は大して強くないが、1割程度居た純粋な倭寇
その純粋な倭寇が装備する日本刀と、日本の剣術が尋常じゃない強さで
明国副首都の南京が倭寇相手に攻められて何千人と討たれ篭城戦までする始末。

一方的にやられてたが明代後期、屈指の名将と謳われた戚継光が
1対1じゃ勝てないから、常に1対4(短刀、長刀、槍、捕縛の4人で1組)で戦うことを確立し
常に4倍以上兵力で個々の戦闘でも組織戦を行うことで、倭寇相手にやっとマトモな戦いができるようになる。

1対1じゃマトモに戦えない程の強さを誇る倭寇、その倭寇の強さの根源を日本刀に求め
日本刀を模した刀である苗刀を造る。
その日本刀に模した苗刀を装備した属国の将軍である李瞬臣。別に何も大騒ぎすることは無いと思う。
むしろ当時の最強の携帯武器を武装してたんだから褒められてもいいぐらい。

134:人間七七四年
13/01/12 19:01:34.98 X4QqZ93b
世界地図を見るたびに日本はちっこいなと、ため息が出る。
これが実力か。

朝鮮とケンカしてる程度が日本の実力。ため息。

135:人間七七四年
13/01/12 23:34:56.23 5PEEqtS5
日本の1/4しかない韓国の立場も考えてあげてください。(゚∀゚)アヒャ

136:人間七七四年
13/01/13 04:52:24.10 DA/q5J2/
毎年韓国では260万頭の犬と多くの猫が殺され食用とされている。
金属製の小さな籠に生きたままぎゅうぎゅう詰めにして運搬され、
生きたまま首を吊り、パイプやハンマーで叩き、わざと時間をかけて殺す。
また、生きながらに火であぶり毛皮をはがすこともある。
なぜそうするかというと、韓国では動物の苦しみが大きいほど肉が香り高く
柔らかくなり、さらに“男性の精力の源になる”と信じられているため。
その根拠は「苦しむ際に組織にたまるアドレナリンによるもの」とされているが、
当然これは犬肉業界がたくみに広めた迷信である。
猫も同様に殺され、生きたまま煮られることすらある。
ちなみに猫の場合は“リューマチや神経痛に効果がある”と宣伝している。

137:人間七七四年
13/01/13 04:53:37.57 DA/q5J2/
○チョン鮮人の性格

1 依頼心が強い
2 すべきことをせず他人に期待し裏切られると恨んだり非難する
3 相手も自分と同じ考えだと思い「違う」と分かると裏切られたと思う
4 せっかちで待つことを知らず「今すぐ」とか「今日中」とよく言う
5 すぐ目に見える成果をあげようとし効果が出ないと我慢せず別の事をやろうとする
6 計画性がない
7 自分の主張ばかりで他人の事情を考えない
8 見栄っ張りで虚栄心が強い
9 大きなもの・派手なものを好む
1O 物事を誇張する
11 約束を守らない
12 自分の言葉に責任をもたない
13 何でも出来るという自信を誇示するが出来なくても何とも思わない
14 物事は適当で声だけ大きくウヤムヤにする
15 綿密さがなく正確性に欠ける
16 物事を徹底してやろうとしない
17 “見てくれ”に神経を使う
18 「世界最高」とか「ブランド」に弱い
19 文書よりも言葉を信じる
20 原理・原則より人情を重んじ全てを情に訴えようとする

参考資料 : 「現代朝鮮人の国民性格」 著者:李符永(ソウル大学教授)

138:人間七七四年
13/01/13 04:54:17.27 DA/q5J2/
李栄薫ソウル大教授:「従軍慰安婦は売春業」 勇気ある告発で殴る・蹴るの暴行受ける!
URLリンク(bbs.jpcanada.com)
慰安婦を詐称する元売春婦の前で「土下座謝罪」させられる教授!
URLリンク(image.space.rakuten.co.jp)

流石は奇形民族wwwwwwwwwwww


wwwwwwww流石はウンコリアン
URLリンク(dl4.gerugugu.com)
URLリンク(imgnews.naver.com)
URLリンク(plaza.rakuten.co.jp)
URLリンク(nandakorea.sakura.ne.jp)


★韓国 盧武鉉(ノムヒョン)前大統領の言葉 (わかってんじゃんWWWW)

「私は僑胞(キョッポ)の連中を信用などしていない。徴兵の義務を負わない
くせに韓国人を名乗り、 日本の選挙権を求める。 馬鹿げていないか。つまりは、
いいとこどりではないか。 私たちが苦しい思いをしていた頃、僑胞(キョッポ)の
連中は私たちよりいい暮らしを日本でしていたのだ。 僑胞(キョッポ)は僑胞(キョッポ)だ。
韓国人ではない。」 (03年6月の訪日時TBSのテレビ番組より)

139:人間七七四年
13/01/15 13:15:09.45 7DtV3Pe2
雑賀衆=沙也可でまちおこし
どう思う?
無理やり和歌山に沙也可碑建てたらしい。

140:人間七七四年
13/01/15 14:32:45.99 W/fFMisX
福岡西区民としては原田信種であって欲しい

141:人間七七四年
13/01/15 19:25:26.16 /xo/u8DA
>>139
あれが史実だとしたら、沙也可はフツーに裏切り者だろ。

朝鮮人と卍派朝鮮史学会的には、ウリナラに帰順した
良心的日本人かもしらんが。

142:人間七七四年
13/01/16 02:38:31.87 ab/tQt+A
>>141
アレを日韓友好の象徴にする感覚がおかしいよね。
日米友好の黒船祭りと同じくらい脳死状態。

143:人間七七四年
13/01/17 21:18:31.08 CKvwlIm2
【韓国】海上展示用‘壬乱亀甲船’が曳航途中に高波で浸水[01/15]
スレリンク(news4plus板)l50

144:人間七七四年
13/01/19 12:43:23.82 BkqXe4F6
沙也可自体、雑賀という発音にそっくりスミダとか根拠のない妄想だからな
何より応仁天皇の正体は王仁とかいう馬鹿学者がいる国だしなwww

145:人間七七四年
13/01/27 12:28:31.43 PCHZ+jDG
信長だったら明軍に信長みずから突撃して将帥を討ち取って
一気に北京まで猛追してただろうな。
秀吉みたいに人望がまったくなく残虐ゆえに末代まで恨まれ現在に至るほどの非人間では誰もついてこないだろう。

146:人間七七四年
13/01/27 14:25:20.04 giogWPc8
信長だったら、一回負けて、次は明軍以上の大兵力で攻めこむ希ガス
あと秀吉の調略で反乱祭り

147:人間七七四年
13/01/28 00:53:59.23 Ebiivg3f
>>145
結局秀吉の場合農民あがりだから限度があるんだよね
どこか舐められてるところがある。

一方信長は恐帝だし。
本能寺がなければ、82~3年には毛利や上杉が滅んで、九州は大方臣下になってたから。
遅くても85~6年には天下統一してただろうし。家康も従順な犬状態。
5年前倒しの朝鮮出兵でも普通に40万とか渡海させそう。

148:人間七七四年
13/01/28 08:27:08.37 svkbdTcK
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)

149:人間七七四年
13/01/28 09:13:18.12 svkbdTcK
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。

150:人間七七四年
13/01/29 10:08:52.43 nfaWdNrn
底辺から成り上がったは秀吉自身が言ってる自称だな
底辺が具体的にどの層のことを言ってるかまではわからないけど

151:人間七七四年
13/01/29 19:56:40.34 W+4jEnPH
底辺に近い所からの成り上がりなのは確かじゃない?
それが貧農なのか、行商人なのか、やくざ者なのかはともかく。
権威全盛の時代に、わざわざ卑しい家柄を自称する意味は無い

152:人間七七四年
13/01/29 20:37:20.67 aB3NI/4C
秀吉が武勇伝で自慢話として語っただけだろ
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)

津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。

153:人間七七四年
13/01/29 20:54:24.94 dojyPlq3
突然どうした?例の発作の子?

154:人間七七四年
13/01/29 21:09:04.16 +3y+sNr0
木下は親類衆でもないし
秀吉の氏素性が書いてない時点で氏素性のわからん人間だし
後世の人ほど当時の人はそれ程気にしてなかったってだけでしょ

155:人間七七四年
13/01/29 21:52:04.35 O7wc17Fb
氏素性書いてないって織田家臣団なんて皆書いてねーじゃねーか

156:人間七七四年
13/01/29 22:01:11.83 aB3NI/4C
木下雅楽助は織田の親類衆
あと秀吉の素性どうこうは完全に太閤記の講談ネタ。
つうか秀吉の逸話なんてすの俣一夜城とか金ヶ先の退き陣とかほとんど太閤記のデタラメ逸話ばっかりだから
今更一々疑う必要性すらない。一次資料にないどころか同じ軍記系列の信長記ですら初登場は
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし

157:人間七七四年
13/01/29 23:29:58.35 nfaWdNrn
秀吉自身が言ってるのだから仕方ない

158:人間七七四年
13/01/30 00:42:55.46 A7INh0yp
そんな史料あったっけ?

159:人間七七四年
13/01/30 00:49:09.71 w+1+FOrP
話題に加わりたいなら流石にその程度は知っとけよ

160:人間七七四年
13/01/30 00:51:51.84 4kpWxAlF
秀吉のいう底辺が数千貫クラスの地方豪族レベルだったってだけの話じゃね
大名レベルからいえば底辺もいいとこだしな

161:人間七七四年
13/01/30 01:00:50.25 w+1+FOrP
数千貫だと準大名クラス。柴田や前田より上で記録に残らないわけがない。馬鹿なの?

162:人間七七四年
13/01/30 01:12:59.20 4kpWxAlF
高木とか尾張毛利とか関とか田丸とか数千貫クラスなんだが信長時代の記録には全く残ってないわけだが

163:人間七七四年
13/01/30 01:18:07.15 A7INh0yp
つーか高い身分として登場してるのがちゃんと残ってるじゃん。
一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし

164:人間七七四年
13/01/30 01:28:22.30 w+1+FOrP
>>162
どの高木と田丸だよ。知ったか恥ずかしいぞ

165:人間七七四年
13/01/30 01:32:50.05 w+1+FOrP
だいたい数千貫と言いつつ記録がないとか、じゃあどっから持ってきた数字なんだ?
本気で馬鹿だろ

166:人間七七四年
13/01/30 02:13:11.21 4kpWxAlF
>>164
東駒野城の高木氏に伊勢の田丸氏だな
>>165
織田信雄分限帳に書いてる

167:人間七七四年
13/01/30 02:18:48.47 A7INh0yp
織田家臣団の貫高を記録した記録なんてあったか?
特になかったような…

168:人間七七四年
13/01/30 02:28:57.60 4kpWxAlF
丹羽氏次とかも数千貫レベルの領主なんだが信長時代の記録には全く載ってないしな
石田の毛利広盛とかも同じ

169:人間七七四年
13/01/30 10:07:36.03 w+1+FOrP
その辺の有名どころなら家譜その他で記録が残ってるだろ
高木氏なんか信長からの書状とがまとまって残ってるし
公記にも載る名前のものもいる
どこが記録が無い家なのかね

170:人間七七四年
13/01/30 10:22:15.30 A7INh0yp
信長時代に丹羽高木田丸が数千貫もらってた記録なんてない
つーか織田家家臣団の貫高を一々記載した織田家公式の記録自体が存在しない
そもそもそういうのは軍記とか由緒書とかにちょっこっと書かれるくらいが普通で
小田原所領役帳とか信雄分限帳みたいな物がない限り不明なのが実態

171:人間七七四年
13/01/30 10:40:37.97 w+1+FOrP
>>170
ちょっと黙っててくれない。ずれたレスを延々と迷惑なんだけど・

172:人間七七四年
13/01/30 11:17:06.89 A7INh0yp
まずお前が黙るべきだと思うよ

173:人間七七四年
13/01/30 11:28:39.39 w+1+FOrP
>>157
このレベルの奴が何を言ってもねぇ

174:人間七七四年
13/01/30 11:30:12.26 w+1+FOrP
えへ、まちがえた。こっちね>>158

175:人間七七四年
13/01/30 11:36:56.40 4kpWxAlF
>>158
そんな史料ない

176:人間七七四年
13/01/30 11:41:30.48 w+1+FOrP
すごいねw
秀吉の出身を考察した箇所のある本なら大体載ってるのにw
自分の脳内だけで歴史作りたいだけかね

177:人間七七四年
13/01/30 19:21:36.82 /Pg+0BLN
面倒くさいからどっちも一次資料だせよ・・・

178:人間七七四年
13/01/31 22:00:33.60 sYom7/Va
史料無視の妄想者と大した史料じゃないのにもったいぶってからかってる奴なんてほっとけよ

179:人間七七四年
13/02/02 13:15:46.55 +rzhMMhA
>>143
古代ギリシア時代の三段櫂船なんかは復元してもちゃんと航行できるのにね

180:人間七七四年
13/02/09 03:07:05.32 J56K7msb
亀甲船はオーパーツ、倭乱によって製造法が失われた

181:人間七七四年
13/02/09 10:59:59.06 nSSIFuuS
韓国に歴史的建造物がそれほど残っていないのは
秀吉が全部燃やしたから

182:人間七七四年
13/02/22 16:07:23.04 tyKU4Gqt
>>180
現代技術でも作れない謎の新技術とかって吹いてそうだな

183:人間七七四年
13/03/17 15:22:38.89 AdvP78e4
朝鮮征伐

184:人間七七四年
13/03/25 04:43:42.69 PeI0ESI2
まー日本の大名が軒並みやる気ないんだからしょうがないよ

つーか、日本軍てそんなに負けたか?
資料見たり本読んでもそんなに負けていない気がする

185:人間七七四年
13/03/25 04:50:12.62 1l6pI2As
李舜臣とかいう明国の下っ端、与太海賊は最初はたまたま物資を奪うのに成功したけど
あとは大した戦果もあげられず、あっけなく戦死しちゃったっていう事実を
ちゃんと韓国で教えてくれないかな

186:人間七七四年
13/03/25 23:12:09.70 lz8dO7Xb
奪ってない奪ってない
開戦初期に豪族の乗った船団をいくつか撃破しただけ。

輸送船を攻撃とか、補給線を断ったとかどっから出てきた与太なんだろ・・・

187:人間七七四年
13/03/26 04:56:40.37 3LCRQbfR
>>186
旧日本海軍が予算獲得のために海防の必要性を説くのに李舜臣を持ち上げたのが
そもそもの始めらしいけど、それを戦後に左傾朝鮮史学者が逆手にとって制海権やら
補給線遮断やらとすっかり”定説”にしたみたいね。

でもまぁ、ネット上での輸送船やら海賊やらいうのは、たぶんnayukiが大元なんだろうなぁ、と
思う。次の下りなんかいろいろ間違ってるんだけど、これを無学なバカウヨが聞きかじりで次々
拡散している印象。

URLリンク(www.getemono.com)
*日:nayuki<しかも李舜臣が日本軍相手に大勝した? 事実は、補給船団を海賊のように襲っただけです。しかも最後は、嘘の休戦協定を日本と結んで、油断して撤退中の日本を背後から襲うという卑怯な戦法。
*韓:kiljap<お前靴やタックゴ出るに靴汚かったと言って捏造専門史家が生きて呼吸する日本
*日:nayuki<翻訳が乱れ始めましたよ。落ち着きなさい(w
*韓:kiljap<李舜臣将軍はお前達を皆殺しにした! 倭人は李舜臣将軍を見れば恐ろしくて逃げ出す!
*日:nayuki<李舜臣将軍の最後を知っていますか? 卑劣にも撤退中の秀吉軍を後ろから襲ったけど、日本の島津軍に返り討ちに遭い、鉄砲で撃たれて魚の餌になったのです。韓国の英雄に相応しい惨めな最後ですね。

 つまりは韓国で教えられている李舜臣の英雄奇譚は、補給船団の襲撃を
“倭国の大艦隊を正面から撃破”、嘘の休戦協定で騙し討ちにしたのを
“慢心している敵に機知を生かした快勝”、秀吉が死んで撤退中の日本軍を
後ろから奇襲したのを“最後の大決戦で倭国軍は敗走”となっているのである。
 ただし李舜臣の戦略は称賛に値する。秀吉軍と正面から戦わず補給船団を
襲って補給ルートを断つことによって、味方の犠牲を最小限にして敵を窮地に
追いつめたのだ。東郷元帥が言ったと伝えられているように、名将であったことには
変わりない。

188:人間七七四年
13/03/26 05:47:53.07 Bn3sGFxS
>>187
窮地には追い詰めていないよ
それに李舜臣は明国単なる下っ端で作戦の立案にも関係していない

189:人間七七四年
13/03/26 12:50:14.92 fdXMV1Mj
朝鮮征伐なんて痛い事やった馬鹿は秀吉くらいだなwwwww
「ワシは天下の豊臣秀吉じゃー、日本は全て俺のもの
だけんね 日本は掌握したから朝鮮もワシの手のひらに
収めよ、オラオラ福島加藤朝鮮行って来い、朝鮮人の
首を持って参れ」こうして2度の侵略戦争
は日本側も朝鮮側も無駄な犠牲者を増やしただけで、
国土の拡張や日中韓の貿易での御利益もなくなって
無駄に終わりましたwwwwwwww
これほどアホやった政治家も珍しいなwwwwww

190:人間七七四年
13/03/26 13:17:12.36 fdXMV1Mj
秀吉の朝鮮征伐ってこれ程アホwwww
①万単位の無駄な犠牲者ばかり生み出し
②加藤福島などの家臣の不満を煽り、裏切られるキッカケになった
③チョンシナとの外交貿易などで両国の不満を買い、
のちに家康が鎖国をする大きな要因になった
④ ①②のおかげで西軍の戦力低下につながり東軍に、
豊臣家を滅亡させられる大きな原因になった
⑤無駄に秀吉自身の後世の歴史上の評価を下げた(悪劣な行為、愚行と罵られ)
挙げればデメリットにキリがないな、
メリットとかあるの?

191:人間七七四年
13/03/26 14:05:45.75 UZ/IlPOX
16世紀レベルの戦争で輸送船とか補給線とか言い出す奴は
近代戦の思考に毒され過ぎ

192:人間七七四年
13/03/28 02:14:19.32 +TQTvqUr
>>190
侍なんて島国の弱い連中ニダ、大国男児のウリ達の花郎に一捻りニダ
って妄言が吐けない
結局秀吉の死で撤退したけど、終始戦闘では勝ち続きだった。

193:人間七七四年
13/03/28 20:21:54.94 xX3lCfEk
>>191
近代的な補給線なんて物ができる程補給があったら
秀吉が死ぬ頃には明どころかモスクワ包囲してそうだなw

194:人間七七四年
13/03/28 21:50:11.89 XTm10ED1
そうでなくても書状一通送るのに数百人の護衛が必要というレベルだからなぁ

195:人間七七四年
13/05/03 23:24:43.78 PdIBjcc3
家康にも圧勝した秀吉公

196:人間七七四年
13/05/04 00:58:47.86 Qxsv7eun
小牧長久手で雑魚信雄相手に7分の1の兵力で挑みかかったら1万人ぶち殺され
その後も松ノ木浜田二重堀前田蟹江東駒野戸木河波など各城郭で負け続け
寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半分すら切り取れず必死に本願寺顕如に取り成し頼んで和睦までこぎつけたのが秀吉

197:人間七七四年
13/05/04 01:01:08.49 ZGRnni1M
いまだに小牧長久手を秀吉勝利とか言ってる馬鹿堀に影響されてる馬鹿がいてワロタw

198:人間七七四年
13/05/04 01:06:16.81 Qxsv7eun
大友や宇喜多に蹴散らされまくった雑魚輝元に敗北した秀吉w

史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下

荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判

巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書

199:人間七七四年
13/05/04 01:07:07.04 3IO2wfWk
だがさんのコピペなんか誰も見ないから

200:人間七七四年
13/05/04 01:09:06.51 Qxsv7eun
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

201:人間七七四年
13/05/04 01:09:28.50 Qxsv7eun
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる


体調が悪いからとかんなもんただの言い訳だろ
最初から会戦しないか部下にまかせりゃよかっただけ
徳川方は春から特政・信雄領国は伊勢のみならず尾張でも会戦当初から寝返り続出と不利な条件だったんだから
夏の対陣のときでも徳川方は兵の半分を返していて(家忠日記)
総勢一万足らずだったとあるしな(当代記)
体調が悪かったなんて事書かれた史料あったっけ?
「見舞い」の事だったら戦場見舞いの事じゃないの?
大阪の二度目の対陣は蟹江合戦の敗戦により三河侵攻計画の前哨戦が頓挫したからだと
愛知県史資料編が位置づけている
あと二重堀合戦は家忠日記にある

202:人間七七四年
13/05/04 01:09:54.61 Qxsv7eun
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である

203:人間七七四年
13/05/04 01:10:14.03 Qxsv7eun
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉

204:人間七七四年
13/05/04 01:10:37.73 Qxsv7eun
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千~5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する

205:人間七七四年
13/05/04 01:17:20.96 3IO2wfWk
NGでスッキリ

206:人間七七四年
13/05/04 01:17:50.97 Qxsv7eun
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
>>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ
>>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬~下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬~下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく
普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ
>>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ
尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い
>>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ
>>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし
>>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる
そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ

207:人間七七四年
13/05/04 01:19:39.16 Qxsv7eun
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7~9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬~下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬~下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

208:人間七七四年
13/05/04 04:14:13.13 Qxsv7eun
>>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない
>>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに
>>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ
>>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン
>>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ
>>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入
なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス
>>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
兵力差が圧倒的なんだから当たり前
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される

209:人間七七四年
13/05/04 05:11:31.65 Qxsv7eun
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ

愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで
5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期
どうみても秀吉の失態です。

210:人間七七四年
13/05/04 05:11:57.49 Qxsv7eun
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867~869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7~9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬~下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。

211:人間七七四年
13/05/04 05:12:43.59 Qxsv7eun
8月中旬~下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め

>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう

212:人間七七四年
13/05/04 05:14:53.89 Qxsv7eun
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る 6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発 6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように 6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた 6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った 三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
上記のように秀吉は蟹江合戦当初滝川が軍事行動起こした蟹江から近い大垣近辺にいたため秀吉の軍事行動と容易に想像がつく
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月 これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
こんな圧倒的兵力差で負けまくって一年一杯使って信雄ごときの尾張半国すら自力では倒せなかったのが秀吉
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ 家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。 そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や
天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況
が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ

213:人間七七四年
13/05/04 05:16:05.37 Qxsv7eun
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ
石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな
家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜)
残りは信雄の兵力だし
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
7~8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ
そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず
恐れてるのは明らかに秀吉の方
家康・信雄は圧倒的に兵力に劣る上、楽田の留守居2万や美濃の後詰部隊放置して
加賀野井・竹鼻にむかったら別働隊に追撃されるなり小牧山襲撃されて退路たたれるなりしてアボーン
>>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
滝川からすれば物資はすぐ近くの秀吉陣からもたらされると思ったんだろう
>>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がヘタレなのではなく秀吉がビビッて放置したから降るしかなくなったのが滝川
7/3まで持ちこたえているがこれも秀吉が見捨てただけからってだけの話だろ
秀吉は三河方面への攻撃を想定していたのに結局この合戦の失敗で延期して信雄戦にきりかえる事になったんだから明らかに秀吉の失態
>>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
これは木造記(軍記物)の造り話。ちなみに秀吉も7月には木造の事に触れてるのに
この時は何も触れていないし中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵こいつらより
貫高で勝る連中も普通に人質出していない。木造記は具政を具康としてるくらいでただの軍記の信憑性だし別名木造軍記ともいうもの
>>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
そりゃ8000そこそこで8万も10万もの秀吉軍とガチンコでやりあうなんて無理
そんな勝って当たり前の状況と兵力差で苦戦しまくって1年無駄にしたのが秀吉
>>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
戸木も小牧山も松ノ木も小牧山周辺の砦郡も似たような状況で落とされなかったのにこれで勝ったような事いわれても
>>11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある。これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
あくまで秀吉が言ってる事なんでおおいに疑問
9月にも信雄が人質を出して懇望してきたけど許さなかったとか書いてるけど
なんで秀吉は11月になったら許すのかって話だし

214:人間七七四年
13/05/04 05:18:23.08 Qxsv7eun
>>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ビビリ信雄が勝手に和議を結んだから大義名分失って和睦せざるをえなくなっただけ
>>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
秀吉の書状なんて全部自分に都合いいことしかかかれてないし
家康領国が天正大地震と離反の連鎖と徳政連発で困窮してる状態ですら母と妹を人質に出した程のヘタレぶりかましたのが秀吉
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康領国は合戦前や合戦当初から徳政連発で十分困窮してるのがわかる
元々貧国ばかりだし上杉や北条の変心に備え大部分の兵力を領国に残してたからな
>>信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
そんな史料にない妄想いわれても
>>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
野戦回避してたのはむしろ家康がいた小牧山避けてしかも小牧山からでられないように
まわり砦で囲いまくって2万も残して一方で自分はこそこそ家康の出てこれない
木曽川筋の諸城圧倒的大軍で攻めるだけだった秀吉の方
>>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
7倍もの兵力比で歯がたつも立たないも糞もない
>>無条件降伏を飲む形で集結
母と妹差し出すのが無条件降伏とかアホですか
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに 放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として南伊勢五郡を与えられてる 松ヶ島城あたりは算用次第
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や 天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで
秀吉にとって圧倒的優位な状況が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ

215:人間七七四年
13/05/04 07:44:17.54 cztiZSu1
天正12年の秀吉と家康・信雄との戦役は
秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もって
ひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように
依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
秀吉に呼応する上杉の南下と
秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
秀吉と敵対する愚を犯した家康は最低最悪の戦略的大失敗を
犯しただけじゃんよ。
アンチ豊臣政権のキチガイ在日の捏造歪曲コピペ爆撃の必死さは買うけどよwwwwww

216:人間七七四年
13/05/04 09:27:35.82 ZGRnni1M
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけだしな
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

217:人間七七四年
13/05/04 09:36:17.22 Qxsv7eun
>>秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もってひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
>>毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度兵力で柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
135000の大軍相手にわずか1万7千そこそこで優勢になるわけねーだろボケw
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7~8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉

218:人間七七四年
13/05/04 09:41:16.67 Qxsv7eun
秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)
まで2か月も経ってるな。大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない。戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意の
ハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ

3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)  周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww


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