06/06/15 00:37:24 0
東京都内の裕福な家庭に生まれ、麻布中学校に進学したが、中学在学中から暴力団の安藤組事務所に出入りしていた。
そのため麻布高校への進学が認められず、慶應義塾高校に進学したが、暴力団との関係のため退学処分となった。
その後、本格的にヤクザとなり、刑務所で服役したこともある。府中刑務所収監中に知り合った囚人の中に赤軍派(後に日本赤軍)活動家城崎勉がおり、
安部の著作によると、ダッカ事件が起きる直前、(既に獄外の日本赤軍と連絡を取り合っていた?)城崎にオルグされかけたことがあったという。
暴力団員だった時期に保善高校通信制課程に入学した。高校通信制課程卒業後、会社経営、日本航空の客室乗務員、キックボクシング中継の解説者、ライブハウス経営など職を転々とした。
日本航空の客室乗務員を辞めるきっかけとなったのは、理不尽な要求をする乗客とトラブルになり殴ってしまい、それがきっかけで暴力団に籍を置いていることがばれてしまった為だと言われている
(普段は組の代紋を付け、日本航空に出勤するときはマメに外していた)。
ヤクザ時代、青森まで抗争に駆り出され、そこで出会った医師との友情から、上京するといって聞かない医師の娘を下宿させることになった。その娘こそ後の矢野顕子である。
日本社会党、日本共産党の支持を受け東京都知事在任中であった美濃部亮吉がホテルオークラで朝食を摂っているのを目撃した安部は美濃部と一悶着起こしたと自著にて記している。