15/08/30 13:26:34.95 ysmERIpup.net
佛の説法は質問者ありて、此に對して酬答する時と、問者無きに佛が進んで教訓する時とあり、前者は對告衆あひての性質、情想等を顧慮して隨宜の説を爲し、
所謂る應病與なれば、目的を達する爲には時と處とに應じて適宜の處致を採らるゝは勿論なり、然るに後者の場合は何時も是の如くならず、直に佛の眞意を發露し教訓せらるゝこと寧ろ多に居るべし、
法句は或は※(「烏+おおざと」、第3水準1-92-75)陀南(Ud※(マクロン付きA小文字)nam)とも云はる、無問自説と翻ぜらる、心の琴線に觸れて詠出せる詩なり、
此の點より見ても、法句經は單刀直入的に釋迦教の本意を探るに最もふさはしきものなり。
單に文句が原始的成立なるに由るのみに非ず。
本書波梨語の原本は今より八十一年前安政二年に丁抹の學者ファスボェル此を公刊し、
且つ羅甸語の譯を添へたり、爾來英・獨・佛・伊等各國の語に翻譯せられ、歐人間荐に珍讀せらる、
我邦にては明治三十九年に常盤大定君は英漢譯に和譯を加へ出版せられたるも、
君の文は英譯に基づきしものにて未だ原本ありのまゝを紹介したるに非ず、
僕不肖を顧みず出來得るかぎり原意を傳へんとし、兼て學生の波梨原本を讀むものに便ぜんがため文を潤飾せず、
句調を整へず、拙譯を試み、新譯法句經と題し、雜誌宗教界に載せたり、
爾來二十有三年後の今日岩波書店主の慫慂に因り、前稿を修正し、注解を益し、一書として再び公表しぬ。