15/08/30 10:46:15.37 8lXclS2hp.net
武蔵国の御家人猪俣党に甘糟太郎忠綱という侍は深く法然に帰依した念仏の行者であった。
山門の輩が蜂起して日吉八王子の社壇を城廓として乱を起した時、忠綱は勅命によってそれを征伐に向った。
時は建久三年十一月十五日であったが、甘糟忠綱は出陣の命を受くると共に法然の許に走せ参じ、
「拙者は武勇の家に生れて戦をしなければなりません。戦をすれば悪心が盛んになり願念が衰えます。
願念を主とすれば却って敵の為に捕虜になって永く臆病者の名を残し家の名を汚すでしょう。
何れを何れとしていいか分りません。弓矢の家業も捨てず、往生の願いもとぐる道があらば願わくは一言を承りたいものでございます」