劉備が天下統一できなかった最大の原因at CHINAHERO
劉備が天下統一できなかった最大の原因 - 暇つぶし2ch350:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/06 00:08:31.50 hGlcl3bI0
>>344
田豫とかと勢力築いて北方に割拠するんかね?

351:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/06 05:28:15.65 wVgAvOr40
>>349
謝安ならまだしも、謝玄ではなんともならんて
劉備の天下に必要だった人材は、後方を任せられる人材でしょ

曹操にとっての荀彧、孫策・孫権にとっての二張、袁紹にとっての田豊
混乱期に単なる軍閥から群雄となり勢力を伸ばせたのはこれら後方を支える人材がいたから

徐州時代の劉備には陳羣や陳珪・陳登親子がいたが、劉備自身が彼らを活用できなかったため
後に諸葛亮の加入まで単なる傭兵集団的な軍閥から脱却できず、勢力を築けなかった
それが最後まで響いている

352:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/06 11:49:04.75 dgRgUGVj0
>>351
後方というかむしろロングプランが立てられる人間で、中原で生き残ることを考えると加えて謀略にも長けてると望ましい感じだと思う。
劉備は大局視が微妙な感じだから。
つか孫策・孫権で言うなら二張より周瑜・魯粛が必要。

>徐州時代の劉備には陳羣や陳珪・陳登親子がいたが
この3人じゃ無理でしょ。
制度設計タイプと謀略家と司令官タイプだし。
劉備や中原劉備政権(仮)が出来たら要を担える人材だけれど、
初期劉備最大の短所はすぐ物事を放り出したり、大局視が出来ないところにあるんだから。

353:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/06 11:50:23.61 dgRgUGVj0
下から二行目の「劉備や」は校正中の消し忘れだから無視してw

354:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/06 12:06:57.43 M7UguFgCO
結局は支配地等でチャンスは幾度か(徐州や荊州)あっても
劉備自身が人を得ないか、いても使いこなせず後手後手に回って間に合わなかったのが原因でFA?

355:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/06 20:02:46.22 KTDf8IRr0
>>354
むしろそこら辺で勢力を築けないで逃げられたから,最後まで生き残った気がするけど。

変に徐州なんかに居座っていたら,袁紹か曹操に滅ぼされるか吸収されるかしてたのでは。

356:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/07 02:06:31.08 QTjEW/2IO
劉備は一応、曹操の評でも準曹操格だし、
軍事面では大局的な視点の完全な欠如を除けば欠点が少ないから、
それを補う荀イク・魯粛タイプが早期に得られれば雄飛の可能性はあると思うよ。

まぁ、でも当時の徐州は確かに場所が悪い気もするけどね。
煬帝が京杭大運河を築いた後なら悪くない場所なんだけど。
後方確保のために南方進出したくなるけど、九江には袁術がいて、
丹陽には既に孫策が入ってるんだよな。

劉備が呂布を斬って曹操につき出していれば、曹操が南陽攻めて、袁紹が地盤固めしている最中に、
曹操の与党のふりをして曹操の手駒使って袁術倒して九江郡取り込む手が使えるんだけどね。
この時期だと劉備は袁紹と曹操の間で風見鶏やってもなんの問題もないし。
それでも荀イク格の人間が補佐に居ないと曹操が東向いたらアウトだろうけど。
まぁ、荀イク格が居れば三つ巴位には持ってけるんじゃないか?

357:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/07 15:08:16.99 jt/pgLiA0
徐州では戦略をたてる軍師がいなかったし、
曹操、孫策に挟まれて窮屈、袁紹、袁術、呂布らもいて場所が悪かったと思う。

軍師を得て荊州、益州で勢力を伸ばすというのは真っ当な戦略だと思うけど、時既に遅し。
曹操「劉備はわしと同等だが、計略を考え付くのが少し遅い」
司馬徽「臥龍、主を得るとも、惜しむらくは時を得ず」
敗因はこの評通りじゃないかと。

それでも蜀の皇帝にまでなったのは偉業。
滅亡へのターニングポイントは呉と和を保てなかったこと。
徐庶、ホウ統、法正、馬良、黄権らが長く仕えていたら違う展開になってかもしれないけど、
どの道魏と呉が健在でいる限り天下統一は無理ゲーだったんじゃないか。

358:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/07 19:58:11.43 oj6GF0ouO
地の利でチャンスだった時は人がおらず、次に地の利を得て人も来たのに既に時期を逸していた。
ならば劉備にとって天の時とは何時だったんだろか。

359:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/07 21:12:18.15 UJlppX6l0
計略を考え付く時

360:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/07 23:46:42.54 niNFEXfw0
曹操は天の時を得る
孫権は地の利を得る
劉備は人の和を得たり

361:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/09 15:18:56.28 fmRfEur20
陳群の劉備への指摘は正しいけど
じゃあ陳群に従っていれば劉備は飛躍できたのかといわれると大いに怪しいな
回りまわって袁家に天下が転がり込んでいただけという気もする


362:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/10 01:21:56.75 5qwBF9B10
正しいかね。
一年どころか数ヶ月で状況が変転した190年代に、
二年間外からの大規模な攻撃がなく地盤固めに専念できた徐州は
かなり恵まれた戦略条件にあったはずだが。
194年徐州というのは周囲が不慮の損害や別の敵に手一杯という幸運の時機だった。

ただ、196年に「不慮の損害」が劉備に巡ってきただけで。

363:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/10 02:29:05.87 f+w5I14Q0
そこだよなー
何で受け入れちゃったんだろ

某小説のように、王朝の守護者という評判に
劉備か徐州士大夫層が骨抜きにされてしまったのか?

364:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/10 06:38:08.90 Ga721o26O
呂布で失敗したのがトラウマになって、劉表の元で自分が呂布と同じような立場になったときに「絶対裏切ったりしない」と言い張ってまた失敗したのかな

365:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/10 22:44:32.08 6y2GEj1V0
劉備が五湖十六国時代の劉裕のような性質だったら、何とかなったのかもしれません

366:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/13 07:08:40.46 cRjOfao50
諸葛亮は政治家だからな
本物の軍師は法正で
法正の死と同時に蜀の快進撃も終る
つまり戦略家がいないっての諸葛亮の不運


367:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/13 17:42:40.24 zcYV8Z9B0
戦略家というか軍略家な
政治と戦略はほとんど同じだから

368:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/20 12:53:00.32 HMIFEGOTO
40過ぎて無職

369:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/20 23:46:47.22 i/iKkiVy0
劉備は正規採用されてないだけで無職じゃねーってw
肩書きだけなら30代で左将軍のエリートだぞw

370:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/21 04:26:38.34 Mh7pbv1qO
出世スピードすごいよね
優秀な人だったんだね

371:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/21 07:27:52.61 KIeAsvz9O
そう。無能じゃないし、お人よしでもない。
ただ、地盤も無ければ武力以外の人材も無くて登場は黄巾直後でも
漢末群雄の中では事実上のスタート遅れになってしまった人。

372:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/21 10:33:44.20 jVapWuKf0
いや黄巾後に起家っていうのが相当の後発組なんだよ。
他の群雄の殆どは、
・黄巾以前からの朝廷高官または世に知られた名士
・動乱後に地盤を築いた群雄の跡を継いだ子弟
・董卓一派の部曲などで朝廷の実権を者
だから。
無位無官から始めて、黄巾の乱から5年ほどで県令まで昇って、
動乱の中を渡り歩きながらさらに5年で国相、刺史、牧。
さらに2年で正式に鎮東将軍を拝命っていうんだから。
これを支えた「武勇と信望」という評価は並大抵のものじゃない。

373:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/21 16:39:38.16 CPdjCTj00
鎮東将軍に上奏したのは曹操だけどな

374:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/21 16:54:09.72 jVapWuKf0
司空の推挙による献帝よりの拝命。

375:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/08 15:37:48.81 zcCjAE/n0
考えてみると劉備に公的権威与えちゃったのって曹操なんだよな。
県尉(県令じゃなかったと主)はとりあえず朝廷からの任命だけど、微官だし、
平原国の相は公孫瓚の勝手な任命だし、徐州の牧も現任が勅許も受けずに官を私物化して
譲り渡したもの。でも豫洲牧と左将軍は正真正銘の任命だからね。

懐柔しようとしてわざわざ将来の敵に箔つけちゃったわけだ。
関羽の寿亭候もそうだけど、曹操って結構迂闊な人?

376:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/08 16:53:30.50 pdZff8YD0
曹操は張繍の件をみても分かるようにかなり迂闊な所があるが、その件は大して迂闊じゃない。
当時の情勢がそう簡単に漢朝廷に従う状況なら別だったが、
実際はどこも軍事力の方を見て日和見してるからな。

377:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/08 18:00:21.61 tu6YkYDO0
曹操だって人の子ですから万能であっても全能ではないのよね

378:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/08 21:07:06.86 omG2uGrF0
>>376
献帝を擁した直後、袁紹へも含めて官位をばら撒きまくってるからね。
献帝=曹操を同一勢力とアピールする誇示でもあり、切実な懐柔策でもあり。
そのうちの一人を取り込み損ねて大敵になってしまった、ってだけで、
196年当時の劉備への待遇自体は、そんなに特筆すべきものでもない。
その後、対呂布・袁術戦線で劉備の価値がさらに上がっていって、
地位と箔を与え続けるはめになってしまったことが仇になったが、
他に有力者がいなければどうしようもないわけだし。

379:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/11 18:40:36.39 +Du5ZCvy0
NHK総合→dボタン→NHKデータオンライン→双方向クイズ天下統一

380:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/08 20:01:21.23 7ALwRQHC0
劉秀<なんだ、天下統一できなかったの?情けない奴だなぁ。
    そんなやつが俺を意識した諡号とかやめてくれない?

381:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/09 01:16:33.24 G6ca9upk0
光武はそんなこといわない!

382:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/09 02:53:27.55 fAeonDCV0
>>381
案外、三国志ばかりもてはやされてるのを知れば、光武帝とて皮肉の一つも言いそうだがwww


383:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/09 08:32:36.87 PXmkSwXP0
部下いじりが好きだった光武帝のこと、
あの世で昭烈をいじり倒しておられよう。

384:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/09 11:49:54.14 fAeonDCV0
>>383
優しいし、冗談や皮肉好きだしね。光武帝。

いくら過疎スレとはいえスレタイとはずれてるのでちと個人的見解を
劉備が天下統一できなかった原因・・・やっぱり年齢と領土かなぁ

①かなり難があるが徐州をなんとか守り抜いて曹操の台頭を防いでいれば
②劉表死亡後に荊州を奪っていれば
③孫権ばりに長生きして魏延の北伐案をやってみる

でも天下統一を劉備がしても、なんか劉邦の晩年をなぞりそうだと思うのは俺だけ?

385:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/09 14:12:40.06 AuuMgBNE0
④周瑜の劉備奉戴策に劉備・孫権共に乗る
ってのはどうかな?実現性が低いのはわかってるけど
戦力的には他のifより可能性があるのでは・・・

386:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/09 14:37:36.87 PXmkSwXP0
いや周瑜の策は呉の奥深くで飼い殺しってもので、奉戴しようってものじゃない。
良くて、呉帝孫権の下で一兵も持たない驃騎か車騎将軍ってところだろう。

387:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/09 16:47:09.07 AuuMgBNE0
周瑜の策は献帝と曹操の関係のように
劉備を祭り上げて実権は孫権が執るって
ものじゃないか?
確か「宮殿を築き、美女を与え・・・」みたいな事が
書いてあったと思ったが。

388:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/09 17:33:37.54 fAeonDCV0
曹操の下でじっと反乱の機をずーっと伺うてのはどうだろ
司馬懿のようにそれはもう辛抱強く・・・


(´・ω・`)無理っぽいか

389:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/09 19:04:18.02 7nlB0KTq0
>>384
その中じゃ、徐州堅守以外は手遅れでどうにもならない

袁曹戦争は、いわば天下分け目の関ヶ原
曹操が袁家を滅ぼし、河北を制覇した時点で、
他の勢力では曹操の天下統一を阻めても、曹操の天下を奪うことは不可能
それほどに勢力差がひらく

390:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/09 20:45:07.12 PXmkSwXP0
>>387
あーごめん、そうかも。
原文「宮室」か。
少なくとも諸王を名乗らせるくらいの計画になるね。

391:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/09 21:15:38.93 PXmkSwXP0
④荊益を完全に保全した上で、魏を防ぎつつ交州を固め揚州を制圧し、然るのち北伐する

ってのがあるが、劉備にとっては完全に時間切れだな。
劉備生前ならやはり>>384の①

同時期は曹操の人生最大の苦境の時代で、袁紹・袁術も全盛期を迎えていない。
徐州を押さえつつ当面の主敵の袁術を撃退してから、
袁紹と組んで曹操に成り代わり河・江間を独占するもよし、
公孫サンを支援して東西対決に持ち込むこともできる。
楽な道とは言えないにしても選択肢が豊富にある。

392:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/09 22:30:15.60 AuuMgBNE0
私も現実的なセンでは>>384の①しかないと思う。
徐州失った直接的な原因って袁術でも曹操でもなく呂布だから
呂布を迎え入れず、自力で袁術を撃退できれば官途に徐州太守として
介入できたかもしれないね。

393:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/10 17:31:56.49 qMmaUzvV0
その徐州維持が難しいんだけどな・・・・
曹袁のどちらと結んでも、どちらかと敵対するので相応の戦力は必須。
又、どちらも徐州を狙っているので、実際の援護自体も望み薄だろう。
呂布を迎えたのは、そんな状況で少しでも戦力が欲しかったからか。

とりあえず、呂布の裏切りを乗り越えるのが第一段階だろうな。
そして、田予や陳登みたいな優秀な人材を、どれだけ使いこなせるか。

394:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/10 18:37:33.17 xqf2cFR20
曹袁が決定的に対立するのは199年。
史実の劉備は徐州牧になった直後に袁紹と誼を結び、
曹操=献帝からは正式に官位を貰うわけだから、三者は小康状態でいける。

199年までに袁術を破って淮北から青州の河水南岸までを制圧すれば
曹操と同格以上の兵力を有することになる。
まあ、そこから天下を狙うには、どちらかに従属しているのでは駄目で、
袁紹と組みつつも手薄な許都を単独襲撃して献帝を掻っ攫うとか、
曹操と組んで袁紹を撃退した直後に疲弊した曹操を襲撃して
献帝を掻っ攫うとかしないと駄目だけど。

呂布は事故みたいなもんなんで、これは「上手くしのいだ」とするしかない。
それから田豫はもういないし、当時は若いので有力者ってほどでもない。

395:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/11 23:32:25.61 lznfMtJm0
>>394
いろいろキビシイけど人材的なものが一番きついな・・・

396:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/12 00:05:16.71 vaONGZPH0
曹魏で中核を占める有力者の多くが曹操に仕えたのは
実は196年の皇帝奉戴以降だから、
対応が早ければ人材は挽回できるんだろうけどね。

それは同時に、袁氏のような人脈名望がない劉備が中原で
天下を狙うには皇帝を担ぐことが必須条件ってことでもある。

397:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/12 00:58:06.45 S34et2SG0
>>393
難しくとも、どんなにうまく立ち回れたとしても時間切れが目に見える
ほかの不可能な選択肢に比べればマシ

>>395
将に関張、軍師に内は陳羣、外に陳登がいる
駒不足ではあるが、当時の曹操も駒は不足がちだから隔絶たる差ではないよ


398:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/14 11:18:14.26 id1ZgJsx0
徐州が維持できなかった理由は君主論を読めば分かる

399:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 00:14:59.62 PQBdqXJ90
たとえもし劉備が徐州を維持できたとして曹操の拡大を抑えられても天下は無理だろ

まず曹操が拡大できなかったのなら袁紹や袁術がはびこってるだろうし大小含め曹操に掃除されるはずの雑魚勢力が中原にうようよしてる

そんな状態で劉備が天下とれるわけない

曹操みたいに斬新な作戦も能力もないから袁紹の天下に順調に進むなか一人「漢室復興()」を唱えて史実のように消え去る

400:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 00:57:35.93 3JZQ4d2O0
曹操って何か斬新な作戦とってたっけか。
民屯も背景に「豪族の私兵と墾田の構造」があるから斬新と言う程ではないし、部下の発案だしな。
劉備の徐州時代まで行っちゃうと雑魚はほとんど残ってないような。

401:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 01:03:43.13 OcfUSvyP0
>>399
あのな、徐州時代でダメなら、そもそもが天下統一なんて不可能なの
他の時期じゃもはや状況を覆す時間がないの
消去法なのよ、消去法
微かな可能性だが仮に天下統一できるとしたら徐州時代でしか残ってないの

そもそも、そんなこと言い出したら、劉備は天下統一なんてできないで終了よ?

402:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 08:44:01.18 oR/NL52H0
徐州を得た時に,豫州をそのまま維持できなかったのだろうか?
その上で,陳羣のような潁川、汝南の人材をかき集めれば,
曹操や袁紹にも人材面では負けないだろう。

当時の兵力じゃ難しいか。

403:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 14:33:06.67 OcfUSvyP0
>>402
「できた」「できなかった」のはなしなら「できなかった」
当時、徐州の将兵の掌握をままならぬまま、領土欲から袁術に挑み
留守の隙を突かれて呂布の台頭を許す結果となった。

劉備は、陳羣の諌めに従って、まずは徐州の将兵の掌握と人民の慰撫に勤めるべきだったと思う

何かとネタにされる曹豹だが、徐州時代の劉備にとって重要人物
彼から忠誠をえられなかった事が最大の失策であり、ターニングポイントといえる

404:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 16:10:42.38 q6xeklnzO

そもそもただの小説だから



405:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 16:15:52.76 pzs5hFMo0
>>403
それと同等以上の失敗をしたのが、エン州を失ったときの曹操だけどね。
なにせ何進に招聘されたこともある地元有力名士の辺譲をないがしろに扱って
同じく地元有力名士の張バクの乱を呼び込んだわけだから。

劉備と曹操の差は、(結果から見れば)曹操には驚異的な軍事的粘り強さがあり、
当時の劉備には無かったことだろう。
それ以上の中原情勢として、
曹操がエン州を回復する二年という長期間、外にはエン州に本格侵攻する大勢力が無く、
不利な横槍がほとんど入らなかったことがある。
しかし、劉備が徐州を失った196年は袁術の最盛期近くに辺り、
曹操も献帝を抑えてエン州・豫州西部・司隷東部に支配を伸ばす大勢力になりつつあった。
この二者の影響を劉備(と、それから勿論呂布も)受けざるを得なく、
徐州が独立的に安定する機会は結局二度と訪れなかった。

406:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 16:37:12.47 OcfUSvyP0
>>405
同等の失敗には違いないが、本拠地を失陥して徐州を失った劉備軍と異なり
たった3城まで追い込まれても、本拠地を死守した曹操軍との差は大きい

また、困難な状況において、死力を尽くして抗った曹操と
あきらめて軍門に降った劉備の差も大きい

劉備を粘り強い人と考えている人も多いようだが
その事績から見ると自分の命以外のものは、割とあきらめのよい人と見受けられる

この点が天下争奪戦において、
曹操に対して十歩も百歩も後塵を拝する結果になったと考える

407:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 16:43:46.37 pzs5hFMo0
>>406
劉備は三城どころか一郡確保したよ。広陵という。
呂布の反乱だけならある程度踏ん張れた。
しかし、反乱が起きたのは袁術との対陣中。
劉備はまず、袁術に破れて主戦力を失い、
広陵に逃れたものの至近に袁術の揚州がある状況ではこれを維持できず、
呂布に降伏するはめになった。

人となりの面では、曹操は諦めが悪くて粘り強く、劉備が諦めが良い、というのは同意するけど、
徐州を失った原因はそれだけではない。

408:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 17:11:56.82 PQBdqXJ90
>>402
豫州牧っていっても実権は劉備になかった

409:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 19:04:03.51 vY9YzM6M0
曹操と袁術の間で上手く立ち回れれば良かったんだろうけど、外交面での劉備のスタンスは
どんな感じだったんですかね
豫州は完全に領土争いの渦中、徐州は曹操と袁術が狙っており、呂布は拠り所を求めて徘徊
曹呂袁の少なくとも2勢力と、何らかの盟約を結んでおきたかった所じゃないかな
そういう意味では、袁術と交戦した時点で厳しい状況になった感はある

410:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 19:12:20.72 pzs5hFMo0
劉備は徐州牧になった直後に袁紹と誼を結び、
曹操=献帝からは正式に官位を貰う。

袁術と和解するのはまず無理。袁術は揚州に陣取った時点で、
徐州を狙って陶謙と小競り合いをしていた。
淮南から中原を狙う限りは必争の土地となる。

411:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 19:39:38.39 xo5btsyv0
>>403
「できなかった」とする結論は分かるけど,
陳羣は豫州潁川郡の人で,豫州刺史としての劉備に召されたわけだから,
彼は劉備の徐州行きそのものを止めたのじゃないか。

412:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 19:47:31.67 Zw2hnUG00
俺は409じゃないが、410聞く限りでは劉備は
対袁術に集中できる環境にあったっぽいね。

袁術撃退後、曹操と組んで官途に勝つor
袁紹に与して跡目争いで上手く立ち回る
事ができれば天下の目はあるんじゃないか?


413:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 21:20:24.83 pzs5hFMo0
積極的な天下狙いとは言えないが、
徐州一州を以って袁紹に附いて曹操を潰し、
そのあと袁紹が死んで、縁故のある袁譚に与して上手く立ち回れば、
結構機会があるかもね。
なにしろ袁譚に附くだろう人間としては、将軍・州牧クラスというのは
抜きん出た格を持つ。

414:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 22:45:48.20 vY9YzM6M0
呂布を利用して対袁術の共同戦線でも張れればな・・・・
袁術に手一杯の所を呂布にやられたので、呂布をどうするかが大きな課題だと思う
袁紹は遠いし、曹操も劉備に援軍送るだけの余裕は無し

415:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/17 19:08:54.61 PfMd+4ME0
でも呂布の謀臣の陳宮が、もう曹操に下るくらいなら死ぬって覚悟でいるからなあ。
そもそも袁紹・曹操に反して、交戦中に袁術と結ぼうとしていた勢力の残党だから、
袁術に傾斜するのは避けられないんじゃないか。
庇護したこと自体が失敗。

で、なんでわざわざ劉備が呂布を迎えたかというと、
朝廷(献帝)を守護した者という触れ込みがあったからだと思うんだよね。
だから袁紹・袁術・張バクと転々としつつも歓待されたし、
朝廷も東帰の際に呂布に助けを求めている。

めんどくさい状況だわな。

416:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/17 21:46:35.92 NwlYRXXjO
いっそ呂布に袁術攻めを任せてみたらどうだろう?
元々袁術から追い出された身だし、案外気張って上手くやってくれるんじゃね?

417:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/18 00:28:27.23 24WP2SmW0
>>416
呂布の勢力だけで対等に戦える相手かと言えば、そうでも無い気がする
戦場は徐州になるわけで、劉備だけ高みの見物とは行かない
呂布に劉備の盾となるメリットも少ないし、戦争のドサクサで呂布に徐州を
乗っ取られる気がするぜ・・・・

418:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/18 00:36:40.31 +3GcMstu0
本拠地に危険人物を置くわけにはいかないから前線に出すというのは割と常套手段。
しかし、呂布の手勢だけで袁術と戦えるはずがないので、
少数で放り出せば、そのまま袁術に駆け込まれる危険があり、
十分な戦力を与えれば、やっぱりそれを手土産に袁術に駆け込まれる危険があるという。
陳宮辺りは徐州を獲れないのならそれを薦めそうだしね。

419:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/18 04:27:11.77 9pEOqHlB0
刘备と武田信玄とは宅男型君様
曹操と信长とは远征型君様


420:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 22:18:20.29 0xKKMn3g0
> 劉備が天下統一できなかった最大の原因
劉備に天下を統一できる才能(器)と意思と天祐がなかったことだな

421:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 22:50:04.11 J4SBTuLJ0
そうだな。
そして武皇帝司馬炎は五百年に一人の器と天佑の持ち主よ。

422:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 23:00:49.91 Czs81myY0
劉備は独り立ちするのが遅いからなあ
徐州時代にどれだけできるかIFが難しい
何せ、徐州以後は完全に反曹操という名で売っていた訳だし

>>421
司馬一族は本当に乱世の統一者という感じがしないなあ
イメージで言えば王奔に近い
武将じゃなくて政治家がそのまま皇帝に成り上がった感じ
武将として実績がある司馬懿ですらそのイメージが強い

423:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 03:10:46.92 suxDHRhS0
>>422
単に演義のイメージに囚われているだけじゃね?

それに重臣から禅譲(簒奪)は三国に近い後世に似た例があるぞ
王奔なんぞに準えるより、隋の文帝の方が遥かに近い実績

北周の高官(上柱国・大司馬)から帝位の禅譲を受けて隋を建国
南朝を併呑して天下統一を果たした創始者
司馬氏の三代の行いを1~2代(父親から国公を受け継いでるから)で成し遂げた感じか
文の諡号を贈られてはいるがまごうことなき征服者

西魏(北周)の宇文一族、東魏(北斉)の高一族でもいいけど
こっちは天下統一しとらんけどね

武将じゃなければ乱世の統一者ではないって考えも可笑しいけどな
最初に乱世の天下統一を果たした秦の始皇帝は、戦場に立たずに統一を果たしたのだから

424:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 22:23:36.53 DLCa1t8G0
>>423
多分、戦争の勝利者というより政治的勝利者というイメージが強いんだろう
始皇帝に例えるとすれば、その正当性という点で違和感がある感じ
魏建国最大の功労者は曹氏であり、それと比較した司馬氏が小さく見えるのは事実

更に言えば、天下を競う呉蜀との勢力差が司馬懿の時代で末期的状態だった
これが、魏のワンサイドゲーム=司馬氏のいいトコ獲りという印象を強くしたはず
実際の呉蜀滅亡時期は曹氏全盛なので、全ては結果論から来る偏見だろうけどね

425:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 23:14:56.34 LOz+dmqG0
>>424
>実際の呉蜀滅亡時期は曹氏全盛
意味が分からん

426:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/25 00:14:40.26 //TYkfoj0
>魏建国最大の功労者は曹氏であり、それと比較した司馬氏が小さく見えるのは事実
これもわからん。
皇帝家自身を建国の功労者とか言うかあ?
司馬氏はそもそも魏の建国当時には直接の功労は無い(司馬氏は諸卿の高官だが)
立場だったし。


427:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/25 01:26:41.36 hrRPbXmH0
>実際の呉蜀滅亡時期は曹氏全盛
ってどういう意味?

428:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/25 01:36:07.56 YQ5BqGIy0
版図が最大規模だからといって、ワンサイドゲームなるとは限らない
寧ろ、国家として安定した勢力を倒すのは難しい
版図が大きいだけで天下統一が成るのなら曹操時代に天下は治まっていただろう

当時最弱と謳われる南宋は、当時最強と謳われた金の侵攻を防ぎきる
そして、当時最強と謳われた元ですら滅ぼすのに長い年月を要した
南宋側に内憂がなければ滅ぼすこと適わなかった可能性すらある

三国統一も、魏(晋)が強国だからではなく、呉や蜀の方に問題を抱えてたからと云う点が大きい
そして、魏に発生した問題を最小限に抑えたのは司馬氏の力なのは間違いない

まぁ、なんにせよ、覇王でなければ統一者に非ず的な考え方が可笑しい

429:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/25 01:54:06.58 XUibT8/w0
>>428
○国家として安定した勢力を倒すのは難しい

つまり「スレタイ的に」言うなら魏呉が安定してたから天下はムリってことだな

ま、言い得て妙だな。安定していない国は滅び行く運命だ罠。崩れていけば壊される。
(ヽ'ω`)いまの日本も。。。

430:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/25 02:29:18.86 YQ5BqGIy0
>>429
内憂外患により国は滅ぶけど、今の時代、外部からの征服は滅多にないだろう
そして、内憂も、そもそも民衆蜂起が起こりにくい日本はしぶとく存続する気がするぞ
政治家の腐敗程度では国が滅ぶほどの内憂とはいえないしな、独裁専横に発展するなら話は別だが
それでも食べるに困る自体にならんかぎり安泰だよ


431:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/25 11:16:18.73 UsZlpXib0
という事はもし蜀が安定していて魏と語が不安定だった場合、蜀が天下を取れる可能性も在るの?

>>421簒奪者の孫その上暴君(天下を統一しても60年で乱世に戻した)しかもその天下は祖父や父親が下地を引いていて殆ど雑魚しか居ない状態
司馬炎の状況立場ならば、野望を持った劉禅や他の無能な武将でも同じ事は出来る

司馬一族は曹操一族が纏めかけていた天下を政治的に簒奪し天下を取った謀反人というイメージしかない

432:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/25 11:38:05.80 m4VEAuwY0
>>78
そこまでしてもらって裏切る劉備ってかなり人間的に腐ってるよなw


433:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/25 19:53:09.03 //TYkfoj0
>>431
イメージするのは君の自由だ。

434:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/25 22:43:49.42 mQ5akuYYO
>>431
もし孔明の北伐時に高貴郷公殺害のような事件があれば
北伐成功の可能性はグンと広がったと思う。

ただ外患があると中が固まってしまうので、そんな事件はまず起きない。
というジレンマ


435:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/25 22:58:30.95 YQ5BqGIy0
>>431
> 簒奪者の孫
この一言で、知識がたかがしれてる事がわかる
偏った情報で勝手にイメージするよりもまずは広く見識を深める方が先ですよ

436:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/26 00:04:19.05 H65QYN730
>司馬一族は曹操一族が纏めかけていた天下を政治的に簒奪し天下を取った謀反人というイメージしかない
非常に微妙なところだね。
司馬懿があっさり隠棲して、曹爽が専横を続けた場合、「曹氏の天下統一」は成立したのだろうか。
曹爽があしざまに言われるほどの馬鹿殿様とも思わないが、
司馬三氏の対呉蜀防御や国力増強と同等以上の貢献が出来た「イメージ」は俺には無いなあ。

437:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/26 01:07:17.22 vpSvDUUq0
>>436恐らくその場合だと時間がかかっても普通に、「曹氏の天下統一」となったと思う

>>435偏った情報も何も司馬一族は簒奪者であることは事実だし、見解を広めたとしても功績を見て個人的には糞一族としかイメージしかない

438:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/26 02:59:20.67 H65QYN730
司馬炎の祖父の司馬懿は簒奪してないから>>431二行目は嘘

司馬氏が存在しない場合、魏呉蜀のどれが先に自壊を始めるかなんて予測不可能だぞ
曹叡時代までは、魏はとても蜀や呉に攻め込んで勝てるかもしれないと言えるような国力は無かった。
蜀呉の同時侵攻に数的に対抗できず、あの満寵がびびって後退を進言する程度の力でしかない。

439:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/26 05:48:53.35 mOefcvsF0
っていうか司馬氏の簒奪ってのは「曹氏の寒門や皇族、元勲重視の政治がいやだ!」っていう風潮の中で起こったものだから
司馬氏が居なければ曹氏の天下が安定ってことはないんだよ。単に司馬氏以外の名門が担ぎ出されるだけ
曹氏は初期の初期の時点で、陳群の七品官法を受け入れなきゃならないほどに名門士大夫に対して妥協の姿勢をみせてるから
司馬氏がいなければ法治主義と曹氏閥の人間で朝廷を運営できるような体力は元々ないの
けっきょく司馬氏も曹氏を打倒してその座についても、曹氏と同じように名門士大夫との政治バランスをとり続けなければならなかったし
その意味で司馬炎までのは曹氏の徹を踏まずに政治的なバランサーとしては優秀な人間だった。

440:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/26 10:02:23.52 +0ati/QCO
劉備が天下を取れなかったのは明らかに自立が遅過ぎたからだと思うんだけど、それ以前に劉備が最初から天下を望んでたように見えない。
少なくとも孔明と出会い荊州から追い出されるまでは、一武将として生涯を終えるつもりだったように見える。


441:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/26 12:57:23.65 H65QYN730
九品な。
それに、陳羣の時点では漢の地方行政と中央官僚推薦が癒着する察挙制よりずっとマシな
中央集権よりの制度だった。
それがやがて時間をかけて骨抜きにされるわけだが。

そもそも分裂時代から統一した王朝が、皇帝中心の専制体制として完成するには建国からも長い時間が掛かるもので、
形は違うが、漢も統一とは名ばかりの郡国制から武帝の即位まで60年かけている。
魏は抵抗勢力を排除して帝権を安定させる前に曹丕・曹叡が早死にして、「名士」勢に乗っ取られただけ。

442:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/26 13:07:05.68 H65QYN730
あっと。
とはいえ、>>439に基本的には反対しているわけではないが。

機関としての「皇帝」の権力が安定しない古代中国国家では、
有能でなくてもいいからある程度まともな成人皇帝が即位し続けるってことが
王朝安定の重要な要素になる。
幼帝が即位したり、先帝に嫡男がいないと、それだけで国家の危機が到来する。
古代には皇帝権力(皇太后なども含む)以外に重石になる安定的な制度というものが無いから、
皇帝が不安定だと、王朝の帰趨は制度ではなく臣下同士の政争如何に左右されてしまう。
漢はその賽を振るような闘争を幾つか乗り越えた。魏は一発目で駄目だった。それだけといえばそれだけ。

443:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/26 19:14:14.07 BEm63dtw0
>>442
魏は皇太后に権力を持たせなかったから、幼帝が即位するとほぼ即座に「臣下同士の政争」が勃発する危機が発生するシステムだからな
皇太后や外戚に権力が権力を持ちえた漢の制度は、皇帝の系統を生き延びさせるためには有益だった

444:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/26 22:09:19.22 hpqLg88h0
>>443
悪名高い宦官も皇帝家存続という観点から見れば非常に優秀なんだよなあ
悪辣なのも居るから手放しで褒められるものじゃないけど

>>438
>>431が偏ってるのは俺も同意するが
曹真の蜀遠征を無視するのはどうかと思うの

445:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/27 03:48:06.96 MCAxr/3n0
>>441
いやでも九品官制度の採用試験管である中正って、その土地の出身者が派遣されるシステムだからなぁ…
それまでの孝廉は群太守によって任命されてて、群太守はその土地の出身者を当てないというのが基本システムだった
九品が中央集権よりの制度かは疑問符がつくな
採用時点で郷品が定められるシステムだし、九品官は十頃(以下階級事に五頃ずつ増える)耕作地が与えられるコトを考えるとな

陳寔の孫という名士中の名士であり、同時に唐の律令制の雛形である魏律令を作った陳羣らしい法律といえばそうなんだが>九品官法
まあ、州大中正を設置して完全に名士利権を確保した司馬懿よりは魏皇帝よりの人間だったとはいえるんだけど
肉刑論の下りみても明帝は陳羣・鍾ヨウを援護できてないし、どれだけ曹氏が長生きすれば名士を潰して帝権を安定させられるのかちょっと見えてこないな

446:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 01:17:16.30 ktLfC5p10
>>440
徐州の自立は遅いと云うほどでもない
天下を望んでいた訳ではないとは、陳寿の記述からも読み取れるが
一武将として生涯を終えようとしていたとするには、若い頃から野心が強過ぎるように思う

447:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 02:39:55.39 L2zTmang0
結果的に漢が滅びているからと言って、野心家の誰しもが漢氏に取って代わることを狙っていたわけでもないだろうからね。
漢を再生させてその中で最大の栄達を図るのだって十分大それた野心だ。
朝廷を牛耳る宰相とまで行かずとも、第二位、三位の驃騎・車騎将軍とか。
官渡前に袁紹に与した頃の劉備は、勝てばそのくらいは狙える距離にいた。

448:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 23:13:26.28 HushaORbO
能力や野心や仁徳がホントはどんだけあるのか、ホントは何がしたかったのか、調べれば調べるほど解らなくなる。
劉備って三国志でもダントツに面白い人物だと思うわ。

449:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 23:26:51.87 HdhetQPI0
歴史人が三国志特集だったけど
中途半端に演技批判してたな
劉備が劉表の食客レベルから蜀の皇帝まで這い上がったのはたしかに凄いと思う
でも世の大勢は曹操についてる訳で劉備の行為は中国王朝の弱体化を招いただけでは?
結果として戦乱が長引いて人口減少から異民族引き入れて五胡十六国時代招いた遠因になってるわけだし


450:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 23:57:50.79 4aVTlYR10
>>449確かにそういう見解もある、でも自分が思うには曹操が天下を取っても司馬一族が簒奪すると思う

その場合恐らく曹叡時代に司馬一族は裏切り曹一族の天下を簒奪すると思う

>>438曹丕・曹叡までは忠臣だったがそれ以降は自分司馬慰とその一族はクーデターを起こして簒奪している

異民族引き入れて五胡十六国時代招いた原因は司馬一族が原因だと思う

451:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 00:04:45.80 7+nunvjP0
三国時代がどうなったところで中国史の大きな流れは変えられんと思うが。

452:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 00:11:06.97 T3lrD+l60
>>450
異民族引き入れたのは後漢時代の匈奴とか、曹操の時代の烏丸・テイとか、司馬氏の時代以前の方がずっと多いくらいでしょ
抑えきれなかったという意味では司馬氏の責任も大きいが、引き入れたという点は司馬氏ばかりを責められない

453:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 00:46:46.82 Lnou1zUP0
後漢末は戦乱で中国の人口が減りすぎ
異民族の受け入れを推奨する←曹操
受け入れたものの、差別は当然あった
(蛮族などというように人ではなく中国中央から見れば虫などに近い存在で人ではない。すなわち蛮)

中国を統一に成功した司馬氏。
周公旦と太公望の話にもあるように
曹氏は「外部の人間を重用し、権力を与えたため簒奪された」
ならば「内部の(要は親族の)人間を重用し、権力を親族で握ればいい」

親族に権力を与えすぎて争いが激化(親族みんな王)→兵士が必要だけど人口足りない→卑賤の異民族が傭兵として使われるようになる
→親族間の争いが単なる神輿になり、それを担いだそれぞれの異民族の争いに
→神輿が変化→五胡十六国時代へ

移民を受け入れなければどうなっていたか
人口が減りすぎて外敵に対抗できない。生産性も悪化したまま。結局はそのうち混乱と戦乱に突入したと思われる。

。・゚・(ノ∀`)・゚・。 自国の国力の低下と移民受け入れ問題・・・まるでどこぞの国のようじゃないか。どっちに転がっても死ねる。

454:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 00:59:56.47 zeb9IVec0
>>450
陳寿の編纂を信じるならば、クーデターを計画していたのは曹爽
司馬仲達は先んじて鎮圧しただけ

曹芳・曹髦は、司馬師・昭を除こうと画策して失敗
事の経緯を知れば、司馬兄弟にのみ非を唱えられない
司馬兄弟の行いは、主君が主君として義務を果たしていなかったからこその反撃
主君が主君足れば、司馬兄弟が天下を望んでいなかった可能性すらある

455:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 01:17:44.06 21KPZn7Z0
>>449
歴史を俯瞰的に見てよいのなら、
三国鼎立こそが華南に中華文明が300年近く疎開する自力を育てたことになる。
魏が早期に統一を成し遂げていたら、疲弊した中原の回復のために
華南の力が長期間吸い取られることになるわけで(後漢後期はそうして経済不安が全国に拡散した)、
統一王朝が磐石なら良いが、もしそれでも異民族に負けた場合、
中華文明はそこで途絶えてしまった可能性が高い。
当然、周辺諸国への影響、日本の古墳時代以降の文化も存在しないことになる。

ま、だから「歴史にifはタブー」なんだけどね。

456:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 01:25:23.77 21KPZn7Z0
>>454
そりゃないだろう。
陳寿は晋臣として「公式発表された事実」を書き留めただけ。
曹爽との抗争は、よく言っても互角の勢力争い。

二帝への対処は魏臣としては大逆不道の行いだ。
幼帝として即位して、まだ二十歳前後だった皇帝二人に、どんな悪行や義務不履行があったというのか。
不品行程度で天子かつ皇帝を除く権限など臣下にはなく、
曹髦の決起に至っては公式のやりとりなど当時誰も信じていなかったことが
裴松之注から見て取れる。

457:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 02:17:49.34 PX/OC75a0
>>452なるほど、異民族を引き入れたのは曹操時代からですか、
それでも統一しても異民族の台頭を抑えきれず戦乱に引き戻した司馬一族の責任が一番重い



458:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 06:20:12.21 Aykz9D/G0
「王、アンタ天下取っちゃいなよ!」って司馬氏の王族そそのかして中原大混乱を作った連中の中には陸遜の子孫とかいるんだが

459:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 01:57:36.63 oyK0ORme0
つか前漢末に6000万いた人口が三国時代だと1000万いくかどうかってレベルだし、
色々末期だったんだろう。


460:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 02:07:24.75 vn+i4k6J0
>>459
その辺の数字、晋代に入ると跳ね上がるから
単に各勢力、把握できていない人口層が多かった可能性があるよ

461:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 03:26:48.33 oyK0ORme0
>>460
戸籍調査のできない民がウヨウヨしてる方がむしろ問題だと思うが。
本当の人口が3000万として、豪族の私有民が皇帝達の私有民の倍以上いるわけだし。
まぁその後、春秋戦国のクローンかってくらい似た変遷を歩むからそうなんだろうけど。

462:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 03:37:44.41 vn+i4k6J0
乱世の混乱期だぜ?
問題がないはずがないし、流民だって沢山いただろう
人口把握をしっかりやってろって言う方がムチャブリだと思う


463:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 07:01:05.63 5HXXDCXx0
曹操って基本内政に関してこれといって業績が書かれてないもんだからな
目先の軍事優先で、長期的な人口回復策とか考えてないと思うわ。異民族を内地に入れたのもその一貫だろう
だからこそ後漢末の戦いで勝者になれたんだと思うが

464:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 07:24:53.89 cMCrH6hz0
>>463
むしろ数少ない内政の業績が書かれている人物に入る

465:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 09:50:20.76 5HXXDCXx0
例えば何よ?屯田とかいわないよな?

466:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 14:10:04.01 cMCrH6hz0
>>465
調べもせずになにを熱くなってるんだ。おちつけよ。
wikiあたりで曹操の項目から 政治家として の部分でも読んでくれ
君主として何を採用してこういうことを改革したって残ってるのは少ないだろ
敵を討って強かっただの人望があったとか存命のうちは民はよく尽くしたとか
漠然としたものしかあまり聞かないからな。三国時代は。

屯田制の採用は当時の状態を考えると画期的というより必然ではあるが
まあ三国時代で政治的に見るところは九品官人法(曹丕・陳羣)ぐらいだと個人的には思う。

467:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 15:16:36.87 5HXXDCXx0
ああ言い方が悪かったね。というか二行目の軍事優先で、って部分から察して欲しかった部分はあるけど
俺が言ってる内政って、民政に関してだから
曹操がやった政治は基本兵制改革と法整備であって、戦乱で荒れた農村を回復させる為の何かをした記述がない
軍屯や強制移住、州の再編成なんかは前者だろう?若いときの実績も淫祠邪教を取り締まる等、刑法に寄ってるし
曹操は抜本的な国力回復の為に免税や開墾、灌漑などを指示した形跡がない


冀州が袁紹の統治を懐かしんだ~みたいなのはとりわけ袁紹の統治が優れていたというよりは
曹操の税収が厳しかったんじゃないかと俺は思ってる。淮南だっていつ荒れたものやら

468:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 20:51:46.48 vn+i4k6J0
民屯

469:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 23:19:38.13 nLA+HuD70
曹操が酷吏・法家寄りの為政者だったことは確かだな。
曹操の寛治というと、冀州支配直後の租税免除くらいしか思いつかない。
これも政略的度合いが強いものだろう。

まあ袁術の南陽や淮南の統治ぶりまで曹操に肩代わりさせて
なかったことにするのはやりすぎだろうが。
二者の搾取は別個に存在するとするべきだろう。



470:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 23:24:52.69 nLA+HuD70
ただ、寛治というものは統一がなってから、それでなくとも新王朝が立って安定してからの課題であって、
曹操の時代に曹操が民衆を労わる政治をすべきだった、というのも違うだろう。

中原が統一されている、自衛のために郷里単位で武装しなくとも良い、
という現実に救われた民衆は限りないだろうし、
屯田政策などは豪族の中間搾取を排除しての流民の帰化に大きく貢献しているわけだ。
まあ、屯田民への負荷はかなり厳しいものだったようだが。

471:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 01:49:38.40 82VAWglg0
劉備が天下を取れなかった原因スレなのに
いつの間にか曹操叩きスレに変わってるな

まぁ、劉備が天下を取れる可能性を語る自体、語れることが少ないから
別の話題に摩り替えないと書き込むこともないんだろうけど

472:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 03:24:05.61 uNEUcFmA0
この流れが曹操叩きに見えるなら自分の日本語能力か精神を疑ったほうがいい。

473:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 16:19:18.39 33drsfc30
個人的な極論なのだが
劉備も曹操も孫権も覇者としての器はあったが広大な中国を統一できる器ではなかったのだと思う。

474:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 16:34:18.31 PLEd7d+t0
そりゃ極論というより結果論だねえ。

475:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 17:03:23.94 33drsfc30
>>474
まあ結果でしか歴史は判断できないからな・・・
ちょっとした一文から想像力逞しく夢の世界に行くのもいるみたいだが

476:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 17:10:44.30 y+qt/LNq0
個人的には、どうしてその極論に到達したのかをもっと突っ込んで語って欲しい
まあ、突っかかってくる人が居るから難しいのかもしれんけど
>>473だけでは、>>474のコメント以上は何も言えない

477:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 18:12:07.38 33drsfc30
>>476
スマン。書こうとは思ったんだけどスレチな方向にどんどん流れてるからね。
それに確かに突っかかる人もいるだろう。
説明するといろいろ長くなるからあんまり言えないけど少しだけ
不満はいつの時代もつきものだけど、それら不満を何らかの方法で抑え(軍力や慈悲、思想でも何でもいいから不満を上回ればいい)、
同じ国民としての「ある程度の」中華全体の意識統一が果たせなければ
広大な中国で天下統一はムリだと考えてるんだ

孫子の言ったとされる「国家は民あってこそであり、民の減少は国家の存亡に関わる事。そして死んだ命は生き返らない。」なんてのがあるけどね

さて、
○黄巾の乱という国家が傾くほどの騒動をおこした民の大多数が後漢に良い君主を今更求めたろうか。 劉備
○才能あるものに報いるのは良いが、才能のない民にはなにがあったのか 曹操
○昔ながらの豪族制を続けて民にはなにがあったのか 孫権
黄巾という乱があった以上、民の心が分裂した状態で、これらを強烈な武力なりで押さえるだけの器量が必要ではなかったのか
ある程度押えられただけの器量ゆえに覇者。そして完全に押さえつけるような者が現れなかったゆえに五胡十六国時代に続くのではないのだろうか



478:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 18:50:11.65 uNEUcFmA0
ちょっと微妙だな。
当時の「世論」「民意」を握っていたのは、中間層である豪族および知識人だよ。
本当の無力な一般庶民は、戦乱の時代であればこそ、良く世話してくれる豪族らに靡く。
だから覇者はまず豪族や知識人達の支持を得ることに腐心する。
それと平行して、自らが直轄統治する戸籍民を増やそうとするし、
天下平定後には豪族や軍閥の力をそぎ落として強力に中央集権を進めようとする。
光武帝の治世がその典型だ。

さて、信望高い劉氏としては、当時劉虞・劉表があり、
曹操の唯才は一般庶民階級まで敷衍できるほど大げさな話ではなく、
孫権が豪族を厚遇したとするなら、最も天下に近い信望を得たのは彼だったことになる。

これでは少々、史実と異なるよね。

479:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 18:55:04.94 uNEUcFmA0
劉曄が自分の立場を危惧したように、
当時、豪族大姓にとっても劉氏は利用価値があり、
ゆえに曹魏政権下で彼は処世に苦慮した。

一方劉備は、別に劉氏だからという理由で信望を得たのではなく、
「武勇と信望」で曹魏に対する一方の旗頭となるまで伸し上がった人物が、
劉姓の正統性を利用して皇帝を名乗ったもの。

陳王寵の例を加えてみても、「劉氏である」ということ、それ自体は
マイナスに働くようなものではなかった。

480:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 19:20:41.86 y+qt/LNq0
>>478-479
孫呉政権(というより江南)の後進性はよく指摘されることだから、
そのツッコミは少し意地が悪くはないかい?

ただ、劉備が劉氏というより反曹操の側面が強いことと
当時の世論が知識人・豪族層だったことには同意する

481:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 19:37:22.83 wEEtcwZQO
昔ながらの豪族政権はむしろ魏だが。
曹操が、いや曹操に限らず民屯的なことを行った全勢力が豪族と同じレベルの搾取をするようになったから、
後漢末みたいに豪族から税金すらとれない状況からは脱しただけ。
といっても公田内では漢でも従来から行われてきたレベルの税だから曹操が殊の外圧政を敷いた訳ではない。
曹操が勝ち残った理由はそれを大々的にやった事。
流民の植民と農具家畜の貸し付けは前漢代からあり、兵戸制は前漢の五営や後漢の黎陽営を祖型とする世襲兵士なので、
実はここ二十年くらい色んなフィクションで宣伝されているような程オリジナリティのあるものではないし、
発案が部下二人から出ていることからも分かるように、当時の状況に置かれれば、まともな指導者なら採用するレベルの話ではある。
まぁ、先例を組み合わせてのフル稼働といったところで、これをもっとも有効に機能させたことは褒められてよい。

人材は後漢中期の袁・楊二氏時代から続く豫州・三河地域による支配がそのまんま人脈として続いて祖型を為してる。
陳平のことを挙げて才能優先をうたうのは、梁冀や宦官と癒着していた節のある後漢後期の三公胡廣が既にやっている。
正直無邪気に曹操の求賢令を額面通り受けとるのは難しい。
実際には九品官人法までは公正性などは後回しだったとみる方が恐らくは正しいだろう。

呉は豪族制から六朝貴族制に片足突っ込んでて諸将の独立性がヤバい。
史実の劉備が漢室のことまで考えて行動していたとは思えん。

482:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 19:59:30.23 33drsfc30
実際どうだったかなんて判らんが、そうなのかもね。
でも知識人や有力者の戦争の流れよりも農民の反乱→民族の戦争という長い長い流れと混乱のほうが重要だと思うのよ
あくまで中国史の流れ的になるけどね。
てかスレチにどんどん流れるから書きこむべきではなかった・・・

483:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 20:17:40.97 uNEUcFmA0
いいんでないの。当時の社会情勢や反乱動向を知ることは、
劉備に限らず後漢末の群雄が「統一できなかった」大きな手がかりになる。

んでも、黄巾のような「農民の反乱」が、
小作人を持たない「中農」や半ば以上小作人である「小農」といった
一般農民に率いられたものだとは考えがたいんだよな。
豪族らの主な収入はまさに農業であるわけで。
黄巾は官吏や王国を攻撃したが、
反乱の景気付けに悪徳無法な大地主が血祭りに上げられた、
なんて話は確か殆ど無かったはずだから。

484:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 20:29:29.46 y+qt/LNq0
>>482
ああ、そういう視点で言っていたのね
それに気がつかなかったのは俺の不明だ。ごめん
その視点なら>>477の劉備・孫権の評は多少納得できる

>>483
黄巾の乱って後期はともかく当初はかなり政治的な反乱なんだよなあ

485:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/02 01:18:11.62 mfQCVUeX0
>>483
権謀や才覚で曹操に敵わなかったから治めた国は小さかったって
陳寿も編纂してることだし、社会情勢のせいにする必要はないと思うよ

486:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/02 01:26:21.09 K4Vt0KBZ0
「劉備に限らず」って言ってるのに。

487:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/02 01:28:03.32 K4Vt0KBZ0
切れた。

曹操が天下を統一したのなら、社会情勢のせいには一切できないけどね。
誰にも出来ないのだから「原因」の一端、あるいは「最大」のものになりえるわけだ。


488:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/05 16:24:22.30 GUC4lXp90
裏切りばっか繰り返してたから罰が当たったんだろ

489:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/05 16:41:06.26 qWh6XN6x0
最後の方は旗揚げ時からの家臣である関羽がもう言うこと聞かなくなってるしね
実際のところ劉備に人望があって人が集まったんじゃなくて駆け込み寺だっただけじゃね?


490:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/05 18:52:17.54 DjiHsP/j0
>>489
kwsk
言うこと聞かなくなってるなんて事を伺わせる記述あったっけか?

491:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/05 21:26:29.01 A068HUjkO
関羽に対して魏に深く攻め込むな、くらいは言ってたような。

492:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/05 23:38:45.67 PjZWTdtn0
>>491
そんな話し正史にあったっけ?

まぁ、関羽にとって荊州内なら魏の深くじゃなかったんじゃね?w

493:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/06 01:13:55.31 C/KpF3oB0
原因は性格だな
大人の風ありとはいうが、肝心なところで我を通すのが失敗の要因
あと追い込まれるとこらえ性がない

あくまで曹操との比較でそう思うだけで、まぁ陳寿の評のとおりじゃなかろうか

494:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/06 02:16:39.97 CbbVPgpj0
天はなぜ、劉備のほかに猛徳を世にだしたのかッ!

495:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/07 01:50:10.89 BwtohlV00
劉備がいなければ多くの人々が無駄に死なずに済んだというのが正しいと思うw

496:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/07 20:30:37.01 oK2/6nci0
いや,孫権が諦めてくれればそれでよかったのではないかと。

497:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/07 22:11:37.15 cOA+5Lai0
官渡の戦いで大勢は決してたんだよね
帝も確保してるんだから諸侯が曹操に敵対する=朝敵なわけで
劉備のいう正義って何?

498:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/07 23:27:23.66 Tyj/mCzwO
>>497
ということは董卓に敵対した曹操は朝敵だな。

499:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/07 23:40:58.50 pZXdJbKw0
劉備の正義っていうか、曹操に組したくない奴らに大義名分与えたのが劉備じゃないのか
諸葛孔明が仕掛け人とされることも多いが

500:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/08 02:28:42.18 ZfPgaaPX0
>>498
董卓軍の元から献帝が逃げ出していなければ、
闘争中の献帝を曹操が救出して奉じていなければ、そうだったかもな

>>497
朝廷から戴いた官位を送り返して、無断で漢中王を僭称できるくらい正義の人

501:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/08 07:25:49.43 V8F2GbAr0
ただの結果論じゃないか。
反董卓連合軍時点の曹操が朝敵だったことに変わりないし、
劉備は魏を正統とする史観からみた場合の朝敵ということでしかない。
現実の魏晋以降の史家が持ってきた史観はそこまで単純でも一方的でもないけど。
だから「三国」志が正史の一つに数えられる。

502:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/08 08:06:26.97 a8xSiKuuO
そもそも正義なんて自分の主張を個人的に正当化したものであって絶対的なものじゃない。
朝敵という見方でさえ放伐や君側のカン(漢字出ねー)という正義が主張出来るんだから。
後はその主張にどれだけの賛同者がいてくれるかだ。そういう意味では後年劉備は正義として多くの人に認められているな。

503:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/08 13:11:06.55 JrIYVd9D0
劉備末期の呉侵攻に反対した武将や文官は少なくとも劉備の大義名分をよく理解していた
劉備をそそのかしたり積極的に付き従った武将や文官は利を求めて劉備についただけの奸臣

ここまで言うと言い過ぎかもしれないが概ねの色分けはできそう

504:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/08 22:09:00.53 V8F2GbAr0
劉備の大義名分=漢による天下奪回 のためには荊州奪還こそが必須だったという方が、よく言われる話だけど。

505:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/09 01:23:07.40 CQ4Z8QxA0
>>504
劉備の大義名分=漢朝の再興、かもしれないが
劉備≠漢、だ
献帝健在の内に漢から独立しておいて、漢を名乗るはおこがましい

506:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/09 01:40:17.75 DhhfwUHl0
>>505
残念ながらそれは当たらんな。
後漢は成立の過程の問題から、有力な皇族が独立して漢を名乗ることを正統性論争だけでは抑止できない。
実力と前漢皇族であること以外に前漢を継いだことの正統性がない系統だから。

507:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/09 09:41:59.95 9QE+VPtPO
>>506
あー成る程、劉備は(自称?)劉勝の子孫なんだもんな。引き継ぐなら当然前漢か。


508:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/09 10:27:19.78 DhhfwUHl0
>>507
違う違う。
後漢が前漢を継いだ論理と、蜀が前漢を継いだ論理は全く同じだから、
後漢は蜀を責めることは出来ないし、後漢を継いだ魏も蜀を越える正統性がある訳ではない。

何しろ光武帝は前漢最後の皇帝である孺子嬰も、旧主である更始帝も健在のうちに即位し、
王族クラスで自分より遥かに大きな勢力を持つ劉永も敗死させて、自勢力のパトロンの劉楊を暗殺している。

後漢や後漢を継いだ魏は、血統の正統性によって劉備を責めることは出来ないし、
勢力の趨勢によっても劉備の不当を訴える事は出来ない(劉永の件が即位後なので抵触する)。
訴えたら後漢やそれを継いだ魏の正統性が揺らいでしまう。
光武帝がやったように、実力で敵をねじ伏せる以外にない。
もちろん逆に、蜀も「簒奪」疑惑以外で魏を責めることは出来ない。

むしろこういった理由で、三国が正統性論争から自由だからこそ、三国で文通が行われたりしたんだろう。
正統性論争があれば、名士や人材評論の盛んだった後漢末の空気を知ってる各国知識人は、
交流を絶たざるを得なかっただろうね。

509:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/09 10:33:04.00 DhhfwUHl0
肝腎な所を誤記してしまった。
× 蜀が前漢を継いだ論理
○ 蜀が後漢を継いだ論理

後漢の正統性がごらんの通り皇族内での血統の皇帝への近さによるものではない為、
劉備は大手を振って後漢を継ぐと主張出来る訳よ。

510:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/09 15:12:15.70 EZZXr9lQO
皇帝位云々はおいといて劉一族として見ればいい

本流の家が力を失ったから力を持ってる庶流の家が
本流に変わって劉氏の棟梁となっただけ

袁昭は嫡出ではないが袁家の棟梁となり
陸遜も庶流だが陸氏の棟梁となった
当時は一族の誰かが栄達すれば一門皆栄える時代だから
優れていれば血縁の近さなんてのはあまり関係ない
劉備がむしろ織りするほど貧しいのに学問することが出来たのは
本家の棟梁が目を掛けて学費を出したからだしね


話がずれたけど、そういう事は当時は普通に行われていることで
劉氏に限っては400年も皇帝として君臨していたので庶流の数が馬鹿みたいに多いだけ

511:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/09 19:37:09.98 ud33TKn20
一般の豪族に、一族全体の棟梁だの宗家だのを世襲する概念は無いよ。
せいぜい、ある家が持つ爵位や大きな土地を嫡子が継ぐかどうかってだけだが、
それとは本質的には関わり無く、その時々の高官や名望家が一族全体の有力者として振舞うだけ。

前漢-後漢-蜀漢の「王朝交替」はこれとは違い、乱世でなければ名分が立たないもの。

512:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/09 20:17:32.21 DhhfwUHl0
>>510
悪いけど皇帝位についてはそんな宗族内の出来事と同列視できない事情がある。
秦漢の皇帝位の扱いの違いとして、秦では皇帝を「天そのもの」としていたものを
前漢では「天から与えられた爵位の一つ」として祭祀上取り扱っている。
皇帝位の継承は当然爵位継承の手順に準ずることになり、本来であれば嫡男など
正統性の順番で継承され、自分より正統な後継者が全て死没している場合のみ継承が許される。
皇帝や皇后の意見が「太子」選定に影響することはあり得るが、臣下たる皇族が自発でそれを正すのは無理。
子がなければ本来は断絶することになる。
もちろんそうなると臣下が宙ぶらりんになるので、皇后など内朝の意見を参考に継承者を捜すことになるが。

あとあなたが挙げている例も誤謬が多い。
陸遜が陸氏の宗族を率いたのは本筋の陸績があまりにも年少だったため。
若年時は陸績の方が名声を博している。
袁昭が袁紹の事なら、一族の根拠地で割拠した袁術の方を宗族の長と見る場合が多い。
劉備の例はそもそも宗族の長の「就任の」話とは全く関係がない。
タク郡劉氏は魏内で劉備とは別個に存続している。

513:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/09 20:49:05.00 ud33TKn20
皇帝が崩御した時に嫡子がなく、遠縁から招く場合は、養子の体裁となるね。
だから新帝は血筋上はゆかりも無い皇太后
(つまり先帝の正妻。本来の嫡子を産んだかどうかも問題ではない)を
母として仰ぐ。

514:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/22 15:51:08.55 hnKsDKYW0
age

515:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/23 00:25:13.56 4jvl4GcHO
曹操、孫権、劉璋に囲まれてる荊州じゃ最初から詰みだろ

516:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/23 23:56:55.47 6wbMS0PmO
ゲームだと兵站の概念がほぼないから厳しいけど
歴史上だと旧劉表の幕僚や兵卒物資を半分でも組み込めたら
南下してきた曹操と充分対抗出来たはずなんだよ
持久戦に持ち込めば守る側が有利だし魏は結構小中規模の反乱が曹操の代は起きてるから

517:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/24 17:29:34.92 1c88QpGg0
>>516
ゲームじゃないと言うのなら,当事者の意識も考慮しないといけないのでは。

劉表の死後,政権幹部は一致して劉琮を擁立し,即座に降伏を決定させた。
そして劉備は,この流れに全く関与させてもらえなかった。
少なくとも彼等に,劉備に荊州を譲ってまで曹操と戦う気があったとは思えない。
しかも曹操が来る最中なのに,どうやって劉備が半分も取り込めるの?

518:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/25 05:22:21.73 uZG5bCsR0
>>515
曹操が南下する以前に劉表を謀殺して荊州を上手いこと奪い取れたのならやりようはあるさ
荊州を奪えず仕舞いでも何とかなったのだから

519:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/27 06:48:52.50 bxPi1s9X0
>>518
まあ荊州を奪うことだけ考えればそれでもいいけど,
本当に乗っ取ってしまったら,その後劉璋には警戒されるから,
益州奪取は逆に難しくなるのでは。

それに,乗っ取りの最中に孫権に攻め込まれそうな気がするけど。

520:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/28 11:50:33.89 tWHUx4xE0
>>30
劉璋を病死に見える毒物で毒殺すればよかったね。
出迎えたときに食事会があったのかは分からないが。
まあ、そんなこといったら歴史上のこういう場面はみんな毒殺で片付くことになるけどw

521:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/28 15:01:08.40 xjcLqGwCO
うまく毒殺しても劉ジュンが後を継ぐだけ
陶謙の徐州とは違って益州は完全に王国化していて、「はい劉備様どうぞ」とはならない

うまく譲ってもらった徐州ですら曹豹のような輩がいるのだから、
やはり戦って完全に屈服させない事には戦後の安定した統治は無理だろ

522:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/29 01:14:56.79 Fas3Oh0M0
「劉備が天下統一できなかった最大の原因」は同時代に曹操がいたことだな。

523:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/29 18:19:11.62 r7ZC7K/JO
曹操いなかったら袁紹で決まりじゃないか

524:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/29 23:44:33.98 Fas3Oh0M0
まあそうか。
じゃ、張飛がいなくて義弟は関羽だけだった場合、色々と有利だったかも。
いや、そんな事言ったら呂布さえいなければって話にもなるし。

まあ真面目に考えると、学問が嫌いだからあまり故事とか兵法とかを知っていなかったのが原因とも言えるかな。
まあ劉邦も似たようなもんだけど。

525:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/30 02:28:09.26 pEq/x7jD0
劉邦と劉備の違う点
劉邦は自分の考えずに配下の進言を受け入れる
劉備は自分の考えと配下の進言が食い違うと自分の考えを押し通す
この点の違いが結果を変えた

526:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/30 08:25:04.34 6denScdH0
>>524,>>525
そこは本当に無学なためにちゃんと自覚していた劉邦と,
一応は学問を修めたために中途半端に自信があった劉備の違いではないか。

527:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/30 08:39:35.52 JfHJVzM80
劉備が流転した原因は劉備の能力不足としか
馬良とか法政とか得てからは一気に駆け上ったわけで

528:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/30 11:18:28.52 sDdqiEJCO
重臣でもない単なる一食客に過ぎない劉備が
劉表が死んだ直後に荊州乗っ取りなんて話にならんだろう。

529:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/30 11:39:33.84 aV52mhI90
>>522-524
袁紹は、あの病死が普通に寿命なら死後に息子が争うから十分勝ち目があるだろう
袁紹が生きていたとしても、派閥争いがひどく、足の引っ張り合いで隙はかなり多そう

曹操に対する漢中での勝利、荊州での関羽侵攻で首都移転を考えていたことを思うと、
当時は、国力は大きなファクターになりえないだろう

530:漢室宗親
11/12/30 22:43:01.49 LAIQJpqv0
天哉!漢室豈運數已盡乎?
昭烈帝早崩,諸葛武侯早薨,否則勝負亦未可知也!

531:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/31 17:11:30.63 cKWwet+v0
竹中半兵衛
スレリンク(sengoku板)


532:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/31 20:56:20.73 5Hhs8ToeO
耳がデカすぎたからだな

533:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/01 21:48:00.81 Lp3PpytE0
>>522
曹操が天下統一できなかった最大の原因もまた、同時代に劉備がいたためなんだよな。

534:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/01 21:52:18.67 Lp3PpytE0
>>529
袁紹が202年ごろに死んで跡目争いで分裂するなら袁氏は無理だが、
そうでないならほぼ決まりだろう。

200年代前半に大軍で南下されたら、劉表も孫権も勝ち目はない。
特に孫権は、赤壁時代に輪を掛けて求心力が足りない。
揚州を纏めて大戦をするのは無理。

535:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/02 02:29:37.14 qOeR3QUl0
>>533
劉備は遠因であって、本命は孫呉が降伏勧告に応じなかったから
孫呉が降伏勧告に応じないなら、劉備がいてもいなくても天下統一は厳しい
劉備がいなけりゃ100年早く南北朝時代に突入してただけじゃね?

536:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/02 07:41:35.35 cix86F630
劉備がいなければ孫権は荊州勢力と繋がることができないから、
赤壁まで到達すらできない。揚州に封じ込められて手詰まり。

益州を曹操から防いだのも劉備。

537:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/02 15:05:07.84 ljAvDW8o0
>>536
魯粛が劉琦を取り込めば江夏郡を抑えられるから,迎撃することはできる。
劉琦を利用すれば,劉備と同様に荊州中南部を得ることも不可能じゃない。
ただ劉璋側が迎えに来てくれないから,そこから益州を奪うのは困難だろうけど。

538:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/02 17:02:08.04 fwwqvbIQ0
たられば、なんてするものじゃないよなーとか思いながら保守

539:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/02 21:50:13.48 cix86F630
>>537
取り込めれば、ね。
劉表と孫権は長年の仇敵同士。
だから魯粛は因縁の薄い客将の劉備と交渉した。

なにより劉琦に劉備と同等の武勇と信望は無い。
史実で荊州人士を取り込みながら並行して行われた
一年以上の荊州・汝南戦役を、劉琦をパートナーとして完遂できるか?
という課題はまずクリアできない。

勿論、荊州人が曹操の下から南へ逃れてきた現象には、
劉琦の存在は大きな影響があっただろうが、
あくまで副であって主にはなれない。

540:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/03 02:12:10.58 rNVSFYqT0
今更間違いに気づいたw

×荊州・汝南戦役
○荊州・淮南戦役

541:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/03 09:11:45.81 7eyMbqh00
>>539
劉表側にとっての孫権は東方の敵勢力であって仇ではないから,
孫権側から劉琦、劉琮と連絡を取ることに支障はない。
実際に魯粛は劉表の弔問目的で荊州に向かっている。

劉備がいないとして,劉琮が降伏して劉琦が浮いた状態なら,
魯粛は劉琦と交渉するだろうし,劉琦にも他に頼る相手はいない。

もちろん,劉備抜きではその後が厳しいのは貴説のとおりだけど。

542:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/03 14:50:30.99 rNVSFYqT0
劉琦にとっては降伏するのが最有力選択肢。
劉備無し、江夏戦力のみでは、孫権支配下に完全に組み込まれることになる。
戦歴や野心の有無、孫堅の死の事情から見て、
屈従の危険を踏んでまで曹操に抵抗する理由は無い。

543:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/03 18:47:48.89 D1trlroY0
>>542
当時の劉琦にとって最大の敵は劉琮とその一派であって,孫権ではない。
事実上劉備の傀儡に甘んじた劉琦が,孫権には従えないとも考えにくい。
(年長の劉備はともかく若造の孫権には…という可能性はあるけど。)
孫権側だって,黄祖ならともかく劉琦を仇扱いすることはないだろう。

というより,劉琦が貴説のとおりに判断するのなら,
劉備が長坂で蹴散らされた時点で曹操に降伏するのではないか。
揚州6郡を支配していた孫権側でさえ降伏論が主流だったのだから。

544:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/03 21:17:37.76 rNVSFYqT0
地盤の無い劉備は劉琦を必要とする。彼と組めば、荊州での一定の権力・権威の分与が期待できる。
地盤と人材のある孫権が劉琦を必要とするのは江夏の通過時だけ。あとは邪魔な存在でしかない。
将としての価値も無い劉琦は、荊州での地位を貰えず、揚州に引っ込まされる可能性が高い。
しかも、曹操と対立する孫権政権が長続きする保証は無い。

劉琮一派が曹操陣営で大きな地位を占めるなら、そちらへの降伏は劉琦にとって危険だが、
現実にはそうではない。
劉琮に及ばないにしてもそれなりに厚遇されて、離れたところで後漢の臣として安楽な人生を送れる。
仮になんらかの事故で曹操が滅んでも、権力争いに首を突っ込まなければ安定度は高い。

>劉備が長坂で蹴散らされた時点で
しかし、その時には関羽が夏口に到着しており、劉備もすぐに続いて到着したわけだ。
孫権との同盟の見込み大という土産を持って。
降伏に傾く時間は無かった。

545:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/04 00:14:43.85 zXErRuVm0
荊州支配に荊州勢とのつながりが必ず必要なモノか?
孫呉は、赤壁の戦いのあと、荊州の東部を支配下に治めているぞ?
赤壁で曹魏軍を追い返せば、反抗するだけの勢力を持たない荊州なんて
支配できないわけがないと思うが?

546:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/04 03:31:21.16 AtsXxmoT0
曹操の脅威が無ければ、必要というほどではないね。
しかし、荊州が北と東の両面から圧迫を受ける状況では、
荊州の人心をいかに速やかに掴むかが重要な鍵になる。
でないと曹操がまた侵攻して来たときに総崩れになりかねない。
当時の荊州には、揚州の盾となって強大な敵と戦う理由が無いから。

孫呉は209年、215年、219年と段階的に支配を広げ、222-223年の危機を
武力で排除することでようやく荊州支配を定着させた。

547:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/04 07:28:27.73 WsLTZFVn0
>>544
孫堅が元長沙太守だったとはいえ,ずっと劉表と争っていた孫権側にとって,
劉琦は荊州の人心を集めるための神輿として必要だろう。
その意味では,劉備と孫権にとっての劉琦の価値に違いはない。

劉琮一派は曹操から刺史、九卿以下の大官を与えられている。
丞相府の官属でないから実権はなかったとしても,扱いは決して悪くない。


548:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/04 21:06:25.68 AtsXxmoT0
「悪くない」地位を捨てる危険を冒してまで、劉琦に害を及ぼす意味があるのかという話。
劉表の嗣子という地位は曹操に降伏した時点で消滅しているのに。
遺臣達はなおさら、劉兄弟と離れたところで独立して自分の安楽なり出世のために行動していく。

>人心を集めるための神輿として必要だろう。
自分の旧臣と新たな蜀閥で体制を固めた劉備蜀漢政権下で、
劉璋・劉循親子はどうなったか。御輿といってもよくて飼い殺しでしかない。
蜀を取った劉備にも、揚州の孫権にも、自前の権威と兵力と人材が十分にあるからね。
戦力として役に立たないのに「御輿」に担がれて独立されかねない若者に対し、
孫権は、たとえば荊州刺史のような権威を与えるだろうか。否だろう。

貧弱な地盤で孫権と曹操に抗して荊州を維持しなければならない劉備にとって、
劉琦の価値はずっと大きい。だから当初の政軍分割統治的なものが成立する。

549:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/04 23:40:47.32 zXErRuVm0
>>547
>劉琦は荊州の人心を集めるための神輿として必要だろう。
この前提がおかしいって
そんなものなくても孫呉は赤壁直後に荊州東部を支配下に置いている
劉備がいなければ、南部も支配下に治めていただろう事は疑う余地もない
なにしろ荊州に孫呉の侵攻を食い止めるだけのまとまった勢力がないのだから

また、関羽を討ち取った後も、特に荊州の大物と連携した様子もなく荊州をキッチリ支配している

550:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/05 19:42:21.07 nrNdDnNL0
>>548
荊州支配者としての劉琮の降伏を受け入れた曹操にとって,劉琮と敵対する劉琦は敵になる。
それで曹操側も劉琦を攻めたから,曹操側が江夏郡北部を支配した結果があるのだろう。
史書には奪った記録が見当たらないから,赤壁で敗れる前だった可能性が高い。

あと,神輿なんだから担がれるだけなのは当たり前。劉琦に文句を言う力なんてない。
あなたが何を根拠に「政軍分割統治的なもの」を想定するのかは分からないけど,
劉備だって劉琦には何もさせていない。というより,夏口から動かした形跡すらない。
劉琦の墓は夏口近辺にあったとされるのだから。

孫権だって長年荊州と戦ってきたのだから,荊州人には敵視されている。
人心掌握のために劉表の遺児を利用したいのは劉備と同じだろう。
なぜ必要以上に区別する必要があるのだろうか。

551:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/05 20:00:37.44 nrNdDnNL0
>>549
孫権側が劉備側に全く頼らずに奪ったのは長沙郡北部だけ。
これは長沙にいた黄忠が劉備に従った以上動かしようがない。
長沙郡南部、桂陽郡、零陵郡、武陵郡は劉備側が独自に奪って,
江夏郡南部、南郡、臨江(宜都)郡は劉備側と協力して奪ったということだろう。

劉備側抜きでは赤壁はともかく,江陵まで奪えるとは限らない。
江陵を抑えないと荊州南部は孤立しないから,奪うのにも苦労することになる。

>>550でも触れたとおり,孫権側は荊州人にとって久しく敵対勢力だった。
いないのならともかく,担げる神輿があるのに使わない手はない。
劉備ですら利用した孫権側が,劉琦を利用しないとは考えにくい。

552:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/05 21:53:36.35 7aMDHfr40
>劉琮と敵対する劉琦は敵になる。

そりゃ有り得ないわ。ナンセンスの極み

荊州が「劉表の後継者が受け継ぐべき土地」では有り得なくなった時点で、
劉兄弟の政治的利害は消滅している。
個人的な怨恨は残った可能性はあるが、
よりにもよって荊州の地図を塗り替え、
さらに劉氏の影響力を完全否定したい側の曹操が、
劉琮の立場と利害を慮って劉琦を攻撃してやる価値はゼロ。害しかない。

曹操が江夏を攻撃したのは、江夏が降伏していなかったからに過ぎない。

553:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/05 22:01:36.34 7aMDHfr40
>劉備ですら利用した孫権側が,劉琦を利用しないとは考えにくい。
利用はするかもね。本当に利用するだけ。劉循が奉車中郎将になった立場以下。

劉琦には劉備のような兵力も実績もないから。本当に、孫権の実力の上に載せられる御輿にしかならない。
荊州に留まったら曹操との争奪戦の最前線。揚州に引っ込まされれば因縁から窮屈な思いをする。
しかも、劉琦自身も孫権陣営も、どう考えても不利な側。
負ければ命も危ないうえに、自由も権限もないから自分で立場を切り開くこともままならない。

それなら、曹操に下った方がはるかにまし。
羅憲が呉に啖呵を切ったのと同じ理屈。

554:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/06 21:00:13.40 xLPaLUPu0
>>552
旧支配者の影響力を完全に排除するなんて,できるわけないだろう。
そんなの江東での孫策、孫権や益州での劉備を見るだけでも明白なのに,
更に強大な袁氏を相手にしていた曹操が分からないはずがない。
(統一に成功した西晋ですら,蜀漢や孫呉の旧支配地に配慮したのに。)

というより,劉琮は荊州を代表(する立場を称)して降伏した。
降伏した者の立場はある程度認められるものだから,
曹操が劉琮の降伏を認めたことは,降伏までの劉琮の荊州支配を認めたということだ。
だから,最初から曹操の味方でもない限り,劉琮の敵は曹操の敵になる。
ナンセンスでも何でもなく,それが降伏を受け入れた側の責務だ。
あなたの言う羅憲だって,そのおかげで曹魏に助けられたのではないか。

>>553
孫権側が劉琦を利用するだけだろうということはそのとおりなのだけど,
なぜ「劉備も劉琦を利用しただけ」という事実に目を背けるのか。

555:554
12/01/06 21:12:42.76 xLPaLUPu0
念のため補足。

>降伏した者の立場はある程度認められるものだから,
これはあくまでも後漢王朝を前提とした各群雄同士での話であって,
別王朝を称していた三国時代の話ではないから。
別王朝だと劉禅や孫皓がやった(やらされた)ように,
「勝手に皇帝を名乗っていた賊が身の程を弁えて降伏した」になる。

556:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/06 21:57:21.36 aMuNx3qY0
劉琮は青州刺史として飛ばされている。
荊州において、曹操は劉琮個人の影響力を必要としなかった。
劉琦など何をいわんや。
曹操陣営にとってはそれが単純な事実。

557:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/07 18:40:39.54 iwuRCDut0
>>556
そりゃあ降伏者を旧支配地には置かないだろう。劉備という先例もあるのだから。
それに,劉備や孫権が劉琦を利用する云々は荊州を得るために必要なことであって,
現に降伏して州を差し出した劉琮(や益州での劉璋)とは一緒にできない。

劉琮の影響力は荊州を挙げて降伏したことでそれなりに発揮されている。
そして,曹操も名目とはいえ州刺史を与えることでそれを認めている。
全く認めていなかったのなら,劉琮に官位を与える必要はないのだから。

558:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/07 19:09:18.70 mjvwrGNW0
で、その劉琮の「荊州での役割」は、降伏で終わった。
だから
>劉琮と敵対する劉琦は敵になる。
>それで曹操側も劉琦を攻めたから,
は有り得ない。
曹操の荊州支配は劉琮の個人的影響力などとは関係なく進展する。

降伏者を厚遇するというのは、拡大勢力の有効な常套手段であって、
勿論、帰趨に迷う人間を決断させる効果があっただろうが、
「御輿」の類とは関係ない。


559:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/07 19:10:55.75 mjvwrGNW0
>それに,劉備や孫権が劉琦を利用する云々は荊州を得るために必要なことであって,
>人心を集めるための神輿として必要だろう。

矛盾を整合してくれ

560:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/08 16:41:36.42 e41oavoM0
>>558
劉琮が荊州を支配していたことは,「州を挙げた降伏」を受け入れた曹操によって認められた。
(それが事実か否かはともかく,彼等はそう見なした。)
江夏に拠る劉琦は,劉琮と対立してその降伏に加わらなかった。
この時点での劉琦は,曹操から見れば降伏したはずの荊州内で勝手な行動をとる輩。
個別に降伏してくれば別だが,そうでなければ曹操にとっての敵だろう。
その後の荊州支配はまた別の話。

>>559
滞在していたとはいえ客将に過ぎない劉備や州外勢力の孫権にとって,
荊州で人心を得るためには劉琦を神輿として利用する必要があるということ。
書き方が悪かったかもしれないけど,少なくとも矛盾はしていないと思うが。

561:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/08 18:13:34.42 En3kvEYi0
>>560
つまり曹操は自分の荊州支配の権威と利害に基づいて、降伏しない劉琦を攻めた
(>曹操が江夏を攻撃したのは、江夏が降伏していなかったからに過ぎない)
だけで、
>劉琮と敵対する劉琦は敵になる。
>それで曹操側も劉琦を攻めたから,
は撤回するわけだね。

>荊州で人心を得るためには劉琦を神輿として利用する必要があるということ。
ならいいや。人心を得るための御輿説を放棄したのかと思ったもんだから。

少し前に戻って、
>あなたが何を根拠に「政軍分割統治的なもの」を想定するのかは分からないけど,
この時代、刺史/牧の職は重いよ。少なくとも劉備や孫権の規模の群雄にとっては。
軍閥の頭目自身がなるか、遠方に派遣した者に任じて半独立的な権限を与えるかだ。
でなければ、孫権や揚州刺史を長らく置かなかったりする。
地方軍閥に刺史に任じられて権限が無かった例は無い。
劉備は荊州刺史を劉琦に任せて、南方討伐に自ら出陣している。
これが「政軍分割統治的なもの」の根拠。
刺史たる者が劉備の傀儡御輿だったのなら、むしろそちらの方に根拠が必要だと思うな。

562:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/09 15:49:29.84 aAEqa9pa0
>>561
劉琮が降伏した時に劉琦が敵対していたということが,
降伏によって曹操に引き継がれたと言っているのだけど。
もとより仮説だから正しいとは限らないけど,撤回するつもりはない。

劉備が荊州刺史を劉琦に任せた?正気か?
どう見たって人心掌握のための傀儡として担いだ以外の何物でもないだろう。
>>550で書いたとおりだ。

私みたいな素人の主張は聞けないというのなら,
「彼は戦後ただちに名義上劉琦を荊州の刺史として奉じ」(植村清二『諸葛孔明』)
「名目的には劉琦を荊州の支配者に擁立することができました。」(渡邉義浩『諸葛亮孔明』)
少なくとも私は寡聞にして,劉琦が実権を有していたなんていう話を聞いたことがない。
あるのならぜひ御教授願いたい。

563:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/09 16:03:04.84 MSJnDBGP0
だから、この時代の刺史が名目だけのものだった例がないと言ってるんだが。
専門家の言葉って、後漢刺史の専論でもない部分の言葉尻を奉ってどうすんのよ。

>劉琮が降伏した時に劉琦が敵対していたということが,
>降伏によって曹操に引き継がれたと言っているのだけど。
これ、仮説云々の前に、どういう政治状況だか想像できないんだよね。

劉琦が曹操に降伏しなかったのは、かつて劉琮と敵対していたからか? 否。
曹操が夏口を攻めたのは、劉琦がかつて劉琮と敵対していたからか? 否。

曹操と劉琦は何を引き継いだわけ?

564:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/10 20:47:51.06 zSbc3XLl0
>>563
え?劉琮の青州刺史が名目だけじゃなかったとでも?
青州って徐州と同様,臧霸や孫観に委ねなければ統治すらできなかったのに。

>曹操と劉琦は何を引き継いだわけ?
そりゃあ散々言っているように,劉琮と劉琦の敵対関係だ。
劉琮が曹操に受け入れられた直後に,劉琦が顔を出せるはずがないだろう。
劉琮等が荊州を去ることが劉琦に伝わる頃には,孫劉連合は成立している。
(まあこれはループし続けるんだろうな。)

で,一番の問題なのだが,
>専門家の言葉って、後漢刺史の専論でもない部分の言葉尻を奉ってどうすんのよ。
ここまで言えるのだったら,普通はその専論なり自論なりを示すものなのだが,
まさか何も言えないのか?正直恥ずかしくないのか?

565:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/10 21:50:29.89 wSnjjt+s0
州規模以内の群雄にとっての州刺史の価値をしたはずなんだけどね。
青州統治に臧覇の力が必要だったから刺史がお飾りだったという理屈もないけど。

>孫劉連合は成立している。
ループだねえ。
劉琦に積極的意思があったかはしらないが、
劉琦が降伏しなかったのは連合が成立したためであり、曹操が夏口に攻め込んだのは劉琦が降伏しなかったためだから。
曹操・劉琦、どちらの動機にも劉琮の存在は二番以下に落ち込んでいる。

刺史についての論は多数出ているけど、特に後漢魏刺史の地方権力について知りたいなら、
「後漢時代における刺史の行政官化再考」「後漢・魏における地方鎮撫に関する一考察」などお勧め。
後漢の刺史が皇帝の使者としての性格をもって権威を強め、政治のみならず、緊急時には
反乱鎮圧権限を得て郡兵を統率した過程が
そこでは刺史は、謁者・御史中丞・中郎将と言った皇帝側近に類する者と看做されていることわかる。

州規模に勢力を広げた後漢末の群雄たちがこぞって刺史・牧を名乗り、勢力圏外に有力者を送る際に
刺史を名乗らせた理由はこれらを読むとよく判る。
一州未満の勢力にとって、刺史の地位がどれだけ重大で、貴重で、ゆるがせに出来ないものだったか。
傀儡なんぞに放り投げて済むものだったか。

566:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/11 21:32:54.59 66PtGFKI0
>>565
やればできるじゃないか。とは言え,せめて>>563で出していればよかったのにね。

何で著者名を伏せて論文名だけ書くなんてバカな真似ができるのだろうか。
引用の仕方すら知らないのか?とりあえず植松氏と竹園氏に謝れ。

植松氏については正直存じ上げなかったから,御教示いただき感謝する。
しかし,竹園氏のその論考はあなたの主張には何の役にも立たない。
だって竹園氏は劉琮や劉琦には全く触れていないから,
後漢後期、末期の一般論がどうであろうと,群雄割拠期の劉琮や劉琦個人にそのまま適用できるわけないだろう。

そもそも,曹操が劉琮を青州刺史にした理由なんて簡単に想像できる。
一州を挙げて降伏した者に対して地位的にそれなりの配慮はするけど,実権は与えないということだ。
劉備が劉琦を荊州刺史に「表」した理由なんてそれこそ露骨だ。
劉表の遺児が健在なのに,客将風情が前面に出て嫌悪されるのを防ぐためだ。

で,そろそろ,
>少なくとも私は寡聞にして,劉琦が実権を有していたなんていう話を聞いたことがない。
に対する具体的な反論をいただきたいのだが。

567:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/11 22:56:52.65 zOhDUnzD0
アホくさ。
こんな辺鄙な場所で、なんでそんな無礼な上から目線で引用の仕方をご教授いただかなきゃならんのか。

568:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/11 23:06:30.99 zOhDUnzD0
最後に言い捨てる。
無論、劉琦個人の権限を究明した「専論」など無いだろうね。

>理由なんて簡単に想像できる。

その豊かな想像力を駆使すればいいだけだよ。
劉備が江南を平定し終えるまで生きていたかどうかも不明で、
のちの蜀に影響力を残せなかった劉琦の荊州刺史としての実権の有無が記録されていないのは仕方の無いこと。
ならば刺史と群雄の一般傾向から演繹し推定するしかない。

夏口と兵一万を領有していた劉琦が、群雄にとって貴重な州刺史職に就いて、実権が無いという状態が自然かどうか。

俺は寡聞にして、劉琦が実権を有さない傀儡御輿だったという記述を見たことがない。
まず劉琦が無力柔弱な青年だったという先入観からはいるのを辞めるだけでいいと思うがね。

じゃあ、バイバイ。

569:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/11 23:10:02.25 zOhDUnzD0
あっと、劉琦の兵は劉備に奪われたに決まってるだろとか言うのは辞めてくれよと念のため。

じゃあ、劉備が江南平定し、周瑜が曹仁を攻める間、
荊揚の連絡点である夏口は誰がどんな兵力で守っていたのか。

570:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/12 00:35:19.47 QZrtZNEJ0
スレタイと関係のないたらればをウダウダと語ってる時点でアホくさいだろw

571:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/12 20:00:22.39 SSJt1JlD0
>>568
「専論」?私はあなた自身の主張の根拠を聞いているのですが。
答えられないのはともかく,自分で涙目逃走を暴露しちゃだめだろ。

>>570
劉琦の実力評価は,劉備が孫権抜きで荊州から飛躍できるかの鍵だとは思うけどね。
いや私がスレから逸れた話題を続けたのは確かだからお詫びする。

572:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/12 20:12:06.08 SSJt1JlD0
ではスレタイに戻って。

曹操や孫権が勝手にコケてくれるのを期待するわけにはいかないから,
劉備としては徐州を何とか維持していくしかないのだろうか。

573:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/18 23:36:55.13 GClLGaVG0
鳳統を田舎の県令かなんかにしたときはほんとバカなんだなとか思ったw

574:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/19 08:17:57.42 dh0H0LHw0
結構地方~中央を渡り歩き、各有力者の幕下に入ってるから在野人士との接し方や見る目は養われてたと思うんだが
諸葛亮あたりを除くと能力如何より地元の有力人士を重く用いがちなのが劉備。
言うまでもなく、地力がない根無し草の勢力しかなかったから
地元無視だとやっていけなかったからだろうが。

575:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/19 11:18:48.63 UKGZq2Lf0
劉備は徐州時代にも部下の扱いで失敗してるし言われてるほど人望あるとも思えんな
あくまで曹操から追い立てられてる奴らの駆け込み部屋でしかないんじゃないの?

576:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/19 19:41:33.42 rrDvrlmW0
>>573
周瑜の死後にようやく帰属したような奴の処遇としては変ではないと思う。

577:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/19 22:41:54.64 UKGZq2Lf0
諸葛亮の同門っていうのは演技だけ?

578:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/19 23:32:34.52 s9TS7jxR0
>>576
鳳統の顔見て判断してなかったw?

579:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/20 11:36:36.34 1bhu9XSp0
曹操 ?統の進言を素直に受け入れる
劉備 地方役人扱い

曹操の人材マニアっぷりw

580:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/20 23:32:45.75 51zbaDr70
孫権も顔でダメ出ししたよねw

581:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/21 15:21:07.41 k3g5I0N+0
>>580
顔よりも、周瑜と比べてどうだ?って問いに対する答えが
気に入らなかった方が強かったんじゃね?

582:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/21 22:03:26.72 SGJd7GYxO
それは演義なのか史実なのか

583:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/21 23:04:16.17 zP2kNG1m0
劉禅って劉備に似ちゃったの?

584:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/23 01:19:38.12 xouU0eBH0
劉備に似たらかなりの曲者になるから母親似なんじゃね?

585:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/26 08:56:39.59 0vK6vk7b0
原因は人材的に既得権にうるさい一群のさらに一部しか獲得できなかったことです。
曹操さんのやり方にはついて行けんわーという曹操基準で求められる成績よりやや下の人たち、
曹操さんに既得権を保証してもらえない人たちが中心なのです。曹操さんがあってはじめて劉備さんの勢力があるのです。

586:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/11 10:05:35.33 UNK8qIBPP
地方の役人wwとか言う奴多いが
彼が就いた職はイメージほど軽い職では無いよ

587:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/11 11:53:49.74 rlqewmXN0
>>586
能力に対して相対的に低いって意味じゃないの?
伏龍鳳雛と言われた一方を県令なんだし
首相レベルの能力があるのに鳥取県知事みたいな
鳥取県知事が軽い職ではないけど能力に見合ってないでしょ

588:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/13 12:27:14.38 CNK2utJi0 BE:1289456036-2BP(11)
首相よりは首長の方が権限の及ぶ範囲は大きかったりw

589:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/13 14:17:49.32 S2quYfXjO
結局、孫権とちゃんと共同しなかったからだろ、リュウビと孫権がたばになってようやくソウソウの
半分の国力だというだろ、結局どっちかが倒れれば終わりだろ

590:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/13 17:53:28.74 kz2a7YVSO
北伐に呉を無理矢理巻き込むってやり方は大雑把過ぎたな

591:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/13 21:19:24.27 n5WmamSYO
まぁねぇ、基本自分の領域確保出来たらそれでおkの呉からしたら
特に北伐にメリットは全く無いではないが、そもそも呉の実態の江南豪族集合体の目的は自らの保全だから、積極的になる謂れなんか無くてあわよくば領土が殖えたら嬉しいな程度。
北伐出来たらメリットだらけの蜀ばかり都合良く旨いシナリオに乗らなくてはならない理由が無い。
北からの圧力さえ無ければどうだっていいんだから。

592:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/14 00:44:27.43 oIkdV2vZ0
関羽の暴走が痛かったね
荊州さえ持ち続けてれば北伐で魏を荊州方面から牽制することが独力で可能だったのに

593:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/14 09:37:40.69 4aE0D6r/O
どうせなら関羽と劉備が同時に軍事行動起こせてたら、多少マシか?な所だがね。
でも例え史実通り関羽の最初だけ快進撃があっても、劉備の魏進攻の方が遅れ気味になったら余り同時軍事行動をしてたとしても史実での結末と大差無かったかもしれない。
無論劉備関羽が同時に北伐をしても、呉が同調したかは怪しい。
大体呉は北より荊州の方が欲しいんだしな。

関羽は軍事行動の事前に劉備に連絡や許可をそもそもしたり貰ったりしてた上だっけか?
許可得た上での突出なら、結果的ながら荊州失陥の責の一端は劉備にもあるといえるが。

やはり関羽自重(対魏呉)があの時点での最善策だろうねえ。

594:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/15 05:58:29.14 8uY6TUxe0
>>551
>孫権側が劉備側に全く頼らずに奪ったのは長沙郡北部だけ。
>これは長沙にいた黄忠が劉備に従った以上動かしようがない。
>長沙郡南部、桂陽郡、零陵郡、武陵郡は劉備側が独自に奪って,
>江夏郡南部、南郡、臨江(宜都)郡は劉備側と協力して奪ったということだろう。

これは違うな。長沙郡南部、桂陽郡、零陵郡、武陵郡は劉備側が呉に兵を借りて奪った。
呉も南郡方面は劉備から関羽張飛を借りたからお互い様だが。

しかし荊南があっさり落とせたのは周瑜が南郡で曹仁相手にがっぷり四つで戦ってた為
荊南の親魏派の太守達にとっては後詰めが全く期待できなかったから。
その点含めて赤壁の頃から劉備は呉に大きな借りを作っているから
劉備が完全に荊州を呉に返さない限りは、蜀は常に呉に負い目がある立場。

595:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/15 09:57:36.94 9lqPrRoWO
>>585
言いたいことはわかるがしかし個人的にこういう考え方はあまり好きじゃない

596:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/15 10:45:57.10 b2hjk1kl0
袁紹が負けた時点でもう曹操の勝利は目に見えてたのに
わざわざ呉を炊きつけて中国の争乱を長引かせた結果、周辺異民族の流入を招き
以後の五胡十六国時代を招いたという意味で劉備は国賊

597:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/15 20:53:06.68 3AtTL4Uk0
敵対勢力を実力で全て叩き潰してこそ真の覇者。
惰弱な言い訳など見苦しいだけだな。
劉備にも孫権にも敗北している曹操の勝利なんて見えてなかったよ。

598:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/15 22:08:32.02 WgoBh+3pO
既に異民族は十分に流入してただろ
晋の扱い方が純粋に無能なだけ
それまでの中国史上も異民族の流入と傭兵としての利用は珍しくない

599:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/22 18:24:24.27 1NqNY2hq0
蜀如きに?統を失うから

600:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/22 18:51:00.50 BnjmYBR00
荊州も?統か孔明か法正を関羽のお目付け役にしてれば失陥してなかっただろうね

601:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/23 02:36:39.41 qhnShYfD0
>>596
そんな紆余曲折な難癖をつけなくても
漢から賜った左将軍の印を送り返して漢中王を僭称
独立している時点で逆賊なのは間違いない

602:名無しさん@お腹いっぱい。
12/02/25 11:48:06.36 LHM3U4+30
結局、曹操に正統たる実力が足らなかったから
劉氏というだけの劉備にも正統権を許しちゃったんだよな。
三国時代って色々と完璧なものが欠けてる時代。

603:名無しさん@お腹いっぱい。
12/03/01 07:05:25.17 5uYrFbuG0
あげ

604:名無しさん@お腹いっぱい。
12/03/01 18:31:29.00 mFH2LxB60
人事の問題だろうな
織田信長ほどの実力登用制度を採用していたら
あらゆる人材が曹操陣営に集まったんだろうが
曹操も結局は身内ひいきで有能な人材を抱えきれなかった
彼らが他の陣営にうつる事によって三国県立が成り立ってたんだよ

605:名無しさん@お腹いっぱい。
12/03/01 21:11:51.83 /3uImeem0
三国時代は豪族時代でもあるから、やはり純粋な能力主義は厳しかったのかね
ただ、曹操側から流出した人材もあるが、その逆も少なくないはず

長江が無ければ・・・・・・

606:名無しさん@お腹いっぱい。
12/03/02 01:17:15.71 OFwKlMMQ0
ドコモ アウー 祖父版 まさに世は三国時代よ

607:名無しさん@お腹いっぱい。
12/03/02 04:41:43.66 gnwV7kLt0
初期のメンツと後から来た連中、さらに学者のコネでやってきた連中が
お互いに蹴落としあいを始めるからな
人間の間に優劣と上下関係があるってのは儒教の国家の欠点なんだよな
アメリカなんかだと神の下に人類平等ってルールだから
新人と古株が平等に競争するから

608:名無しさん@お腹いっぱい。
12/03/02 10:07:27.00 +ot1qoOcP
中華の範囲が曖昧だから

609:名無しさん@お腹いっぱい。
12/03/11 20:17:39.93 BC564y/z0
劉備はあらゆる面で曹操に劣っていたから


610:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/11 13:21:25.66 QueDUwpa0
死神が天下取ったらそっちのほうがおかしい罠

611:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/11 21:33:26.16 MijET9Hs0
劉備は孫権にも負けている

612:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/12 03:15:33.41 39UrhzpD0
恩人の呂布を殺したからだろう

613:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/14 17:18:58.14 h18DX17nO
長い間本拠地を持たずに遊牧民族さながらに転戦しすぎたからだろ

614:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/14 22:39:11.40 wUErlykX0
結局劉備が一番輝かしかった時って曹操と組んで徐州治めてた時だよね?

615:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/15 12:32:23.22 bjsRMvqm0
益州と荊州の一部を保持して漢中王を名乗った頃じゃね

616:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/15 21:35:06.99 eeS3nOb80
そもそも劉備に天下取りの野心なんてあったんかな。

617:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/16 03:09:51.69 iAxJ6W20i
劉備が天下をとりたいというよりは
劉備配下が劉備を掲げて天下を望む事で団結していたんじゃないかと感じる
劉備自身は漢への思いはあったとしてもそこに執着していたようにはあまり思えない

618:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/16 03:31:23.22 zShDKXR2O
一生義勇軍で居たいとも思ってないだろ
というか劉備は何がしたかったんだ?

619:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/16 12:03:33.17 dDxxAzhDO
安喜県尉を与えられるまでは多分純粋にいっちょ一旗揚げたい位なもんだったろう。
以後はあちらこちらと群雄の客分兼傭兵隊長な生活をする内にスレて、とにかく生き残ったもん勝ちな生き方に。よくいえばしぶとく悪くいえば義理は掻き捨て。
でもそうしていても生き残ってきたのは、決して劉備が無能な所か相当な力量を持っていたからこそ。また毎度嫌われず群雄に拾って貰ってるのもその証左でもあり魅力もあったと言える。
天下への志は荊州時代から漢中王を称した間位じゃないかなあ。

620:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/16 13:43:31.72 943fLiEl0
なんか加藤の乱みたいなもんだな・・・
持ち上げられて浮かれて決起したものの足元すくわれて失脚

621:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/17 21:27:06.35 9OC0LVjX0
>>618
乱世を思うがままに生き抜いたが、後世の史書家が無理矢理
天下への野心を持つ君主に押し上げた、とかじゃね。
英雄の名を弄ぶのは結局インテリ達だし。

622:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/17 22:27:45.90 5B3CvVok0
押し上げて君主になれるもんなの?

623:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/17 22:59:13.16 PNRqCSOv0
赤壁以降の急激な膨張がバブル期に多角経営してその後倒産していった会社にだぶるね
関羽が暴走して死んだのも古参、荊州閥、蜀閥の争いの結果に見えるし

624:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/17 23:45:23.17 D5TkcASc0
曹操暗殺計画だろうな
アレで曹操に狙われる立場になったし

625:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/18 19:04:12.08 f6GqTlQW0
>>623
(株)関帝 は年を増すごとに会社が巨大化していく中国屈指の化け物会社になったけどなw
(株)三国演義 も安定の売り上げで毎年の黒字更新。
(有)三国志は今厳しい経営状況になっている…。

626:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/19 11:56:16.29 APtCrplo0
陳羣のいうことを聞いとかなかったから。そのせいで名士たちは劉備を見限った

627:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/20 01:41:12.30 qXTxPiBb0
劉備に賭けた奴ってコンプガチャにはまって騙された奴ら的な・・・

628:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/21 21:38:36.16 5yv7pBgu0
晩年では劉備は凶悪だからね~

629:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/21 21:55:33.25 mxQAvNSx0
なんか晩年の劉備って尊大になってるよね
呉攻撃に孔明も趙雲も参加してないってのはそういう事なんでしょ?

630:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/21 22:11:21.19 hJQrZUbb0
曹操が刈り取った後の落穂ひろいって感じじゃないかな

631:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/21 22:12:01.10 rp2d/mit0
>>629
もう張飛もいないんだから丞相領司隷校尉の諸葛亮を蜀に置いて内乱や魏の攻撃に備えないといけないってことじゃないですかね

632:名無しさん@お腹いっぱい。
12/05/22 13:41:14.53 Hl1gUOSB0
荊州失った時点でもう蜀が中国統一の可能性はなくなったんだよな
あえて北伐する意味があったのかね?


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch