11/02/24 15:25:40.38 Q0stL1Ul0
うむ。後漢の統治はいわゆる「郡県制」であり、それより大きな範囲である「州」にはもともと独立性はないんだよね。
郡太守には行政権も警察権もあるけど、州刺史は各郡の巡察使のようなもので
禄も実は郡太守と同じ二千石程度だから両者に明確な上下はない。
例外的にもっと力の強い「州牧」が任命されることはあるけど、州の「太守」という立場からはほど遠い。
だから実は陶謙自身がきちんと徐州を掌握していたかどうかは疑わしい。
反董卓連合軍を結成したときに刺史として徐州軍の旗頭にはなったけど戦争終了後、盟主として
立てられたかはわかんないよね。徐州が一本にまとまってないからこそ曹操来襲で簡単に万歳しちゃったと。
荊州侵攻時の曹操軍と比べるとはるかに兵力、武威ともに劣るのに。