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太田を溺愛した父
太田の父を三郎氏という。その父が少年時代だから日本が大東亜戦争に突き進もうかという頃合いに、春風亭柳好の弟子になろうとしたり、東京農工大在学中には太宰治に自作の小説を読んでもらったこともあるという。
1969年に内装会社「三光社」を板橋に設立し、程なく南青山に移転。高級焼き肉店「叙々苑」の内装と共に、有名なあのロゴも書を嗜む三郎氏が担った。
三光社は三郎・光の会社ということになるのだろう。
元新劇女優だという三郎氏の妻がやきもちでも焼きそうなほどだが、実際、三郎氏は一人っ子の太田を溺愛していた。その集大成が「日芸裏口入学」である。
日大の芸術学部と言えば、「お坊ちゃんが遊びに行く大学」と揶揄する向きもあるが、医学部を除いてパッとしない他と違い、看板学部と言えよう。OB・OGの名を少し挙げただけでも、深作欣二、森田芳光、市川森一、宍戸錠、篠山紀信、林真理子、三谷幸喜、ホンマタカシ、宮藤官九郎、今をときめく中園ミホ……彼らを欠いては芸能・文化が停滞した、あるいは、するのではないかという才能が輩出している。
8つある学科のうち、最難関は映画学科。太田は映画監督に憧れ、長じてそれを実現するのだが、第1志望は日芸の映画学科だった。
太田の自伝には、
〈俺は中学から高校へ進む時点で、いずれ日芸に行きたいと思っていたんです。というのも、日本で演劇や映画を教えてくれる大学というのはココぐらいしか思いあたらなかったから〉(『爆笑問題 太田光自伝』)
とある。とはいえ、気合を入れて受験勉強に取り組んだとは言い難く、
〈高3の時には、日芸がダメなら専門学校の横浜映画学校に行ければいいやって思ってましたから〉(同)
実力ではとても受からないと考えた三郎氏は、知る人ぞ知る裏口入学ネットワークの門を叩いた。息子の受験を翌年に控えた83年後半のことである。その頃、大学の裏口入学案件というものは、各私立大から独立したこのネットワークに集約されていた。そしてそこから各大学に働きかけ、進学を斡旋する形だったのだ。
日本を代表する指定暴力団の、有力親分の愛人芸者が産んだ娘がいて、そんなちょっとややこしい事情を抱えた人物と三郎氏はひょんなところから知遇を得た。そのコネを通じこのネットワークの元締めに辿り着いている。組織の力は極めて強く、「最も確実に入学できる道」だったのだ。
とはいえ太田の場合、それが極めて難産だったことは、日大関係者が、当時の“謀議”などを回想する通りである。URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)