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「燃え上がぁれ」の連呼で始まる主題歌を聴くとつい奮い立ってしまう「第一世代」は、もう50代だろう。アニメ史にその名を刻む『機動戦士ガンダム』の放映から、今年で40年。
略
続編やスピンオフ作品でいまなお新たなファンを獲得し続けている『ガンダム』だが、放映当時は視聴率が低迷し、予定話数を大幅に削る打ち切りの憂き目に遭った作品だった。スポンサーの玩具メーカーは放映中、従来の巨大ロボットアニメのような「やられメカ」や「必殺技」が登場しないことにたびたび不満を漏らしたという。
企画の原案はそもそも、宇宙ステーションに閉じ込められた少年少女が知恵を絞って生き抜く「宇宙版 十五少年漂流記」のようなストーリーだったが、やはりスポンサーの意向でロボットものに変わった経緯がある。
富野 それともうひとつ。戦いや戦争を語るのであれば、リアリズムでなければならないという強い思いもありました。
ロボットが登場するのはいいけど、全長80メートルとか100メートルなんてあり得ない。戦闘機と同じ20メートル程度ならいいだろう。でも地球の重力で人型兵器を扱うのは難しいから、宇宙を舞台にしよう、と。でも個人で製造し使えるものではあり得ない。それなら国家が兵器としてつくるしかない。そうすると宇宙移民vs.地球の対立構造だ―といった設定が必然的に生まれてくるわけです。
そこに、肉親を敵と味方に分けて並置したり(注:シャアとセイラの兄妹)、復讐劇を挟み込んだり(シャアとザビ家の因縁)といったドラマツルギーを埋め込んで物語性を高めていけば、宇宙人だのやられロボだのが出てくる幕なんてないんですよ。
―富野さんは自虐的に「くだらない巨大ロボットものの作家」と自称していますが、一方で、リアルロボットものの作品を作ってきたことへの強烈な自負も感じます。
富野 僕には、恋愛ものとか青春もの、私小説的なものを作る能力がなかったという敗北感があるんです(笑)。同時に、巨大ロボットものであっても、それなりの質量を抱えた映画を作れることを示したいという思いもありました。
『機動戦士ガンダム』はテレビシリーズで始まりましたが、当初から映画化を意識していました。映画というものは、恋愛劇や私小説的な狭い世界だけに収めてしまうにはもったいない、もっと大きな広がりと力をもった器です。
そういう性能をもった映画という様式を使うなら当然、単なる玩具の宣伝で終わらせるべきではないし、不特定多数の人に発信する以上は、それが必然的に公共性を抱えてしまうことに自覚的でなければならない。それが作り手の倫理だと思うんですよ。
『ガンダム』を作るときに、そういうことをはっきり意識していたことは確かです。
―ただのヒーローロボットものにせず、戦争のリアルを描こうと努めたということですか?
富野 もちろん本当の戦争はこんなに生やさしいものではありません。しょせんアニメですから、演出に限界もある。そもそも、若い世代に向けて物語を贈るのに、絶望を与える話をしてはいけないという思いもあります。
『ガンダム』にも、いわゆる「戦記物」の要素が色濃くあります。戦記物は、史実に材を取りながらも架空の設定や創作を織り交ぜた、血湧き肉躍る物語です。それは、日常のフラストレーションを解消し読者にカタルシスを与えるために存在するものです。
でも一方で、それだけでいいのかという思いもあった。『ヤマト』のように「滅びの美学」で終わらせるのはちょっと違うんじゃないか、と。
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