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神奈川県民用206 - 暇つぶし2ch632:M7.74
19/04/30 17:44:58.90 Nlg7iPRU0.net
【平成】日本会議、ことあるごとに天皇皇后両陛下の言動を否定し、両陛下はことごとくその批判を無視していた
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両陛下が確立した平成の皇室像に紆余曲折…乗り越えた右派の批判〈AERA〉
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)
天皇や皇后がひざまつき、被災者に話しかけるスタイルが確立された平成の皇室。全国各地で国民一人ひとりと直接つながることで、おのずと「国体」が強化されていった。
一方で、これまでとは違う天皇像に右派から批判があったのも事実だ。放送大学教授の原武史さんがリポートする。
*  *  *
 1962年5月の宮崎、鹿児島、熊本行啓からは、主に地元の青年男女を集めて懇談会が開かれるのが恒例となる。
懇談会というのは、皇太子夫妻が泊まった施設や公共施設で、5~10人程度の人々とテーブルを囲み、1~2時間かけて各地方で起こっているさまざまな問題につき、直接質問したり意見を聞いたりする会合のことだ。
 昭和天皇は、東宮御学問所で帝王は言葉を慎むべきだとする儒教式の教育を受けたため、人々との会話に慣れていなかった。この点は香淳皇后も同様であった。
一方、皇太子夫妻は長時間にわたり、人々と話し合える言葉の力をもっていた。一見、皇太子が司会の役割を演じながら、座が和んでくると美智子妃が主導したという。
 美智子妃は63年に第二子を流産するが、引きこもらず、皇太子とともに山口県を訪れ、懇談会に臨んだ。地元の保健婦や農村青年と話した時間は、合わせて2時間半に及んだ。言葉の力によって危機を乗り越えるのだ。
懇談会は、タウンミーティングとしての意味をもっていた。地元議会に女性がほぼいなかったことを考えれば、美智子妃が若い女性の声をすくい上げ、その声が地方紙などに大きく掲載されることの意味は小さくなかった。
 だが右派にとって、天皇と皇后は決して対等であってはならなかった。彼らは昭和天皇のような神格化した権威を、次代の天皇にも求めようとしていたからである。
「日本を守る国民会議」(現・日本会議)を中心とする右派が80年代から復活させたのが、提灯奉迎である。
提灯奉迎というのは、ただ提灯行列を行うだけでなく、天皇や皇后に向かって人々が提灯を振り上げ、万歳を叫ぶ奉迎のことだ。
しかし精神的な苦痛からか、誕生日に倒れ、失声症になっている。だがこのときも、皇居に引きこもることはなかった。11月6日には、天皇とともに松山市の愛媛県身体障害者福祉センターを訪れている。
「出迎えた県聴覚障害者協会長西原治見さん(中略)に、皇后さまが手話で『お会いできてとてもうれしいです』と話しかけられた。
西原さんが、皇后さまの体を気遣って『がんばって下さい』と答えると、にっこりほほ笑まれたという」(「愛媛新聞」93年11月7日)
 皇后は、声を失っても手話で人々と会話を続けることで、危機を乗り越えたのだ。またしても言葉の力が発揮されたのである。
 95年1月に起こった阪神・淡路大震災でも、天皇と皇后の現地での振る舞いが右派から批判を浴びた。
「日本を守る国民会議」の代表委員を務めていた江藤淳は、「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない。
現行憲法上も特別な地位に立っておられる方々であってみれば、立ったままで構わない」などと述べている(「皇室にあえて問う」、「文藝春秋」95年3月号所収)。
 しかし天皇と皇后は、昭和期に美智子妃が主導する形で確立され、平成になってあらわになったスタイルを変えようとはしなかった。
宿泊を伴う定例の行幸啓では右派による提灯奉迎にこたえつつも、天皇の隣には常に皇后がいた。二人は全国各地の福祉施設で、そして被災地で時としてひざまずき、「市井の人々」に同じ目線で語りかけたのである。
 その人数を累積すれば、おびただしい数にのぼる。行幸啓を重ねれば重ねるほど、政府や議会を介在せず、天皇や皇后と一人ひとりの国民が直接つながる関係が強まったのだ。
天皇と万単位の人々がひとつになる昭和の「君民一体」とはちがい、今度は一対一の関係で、天皇と「市井の人々」がひとつになる。
これをミクロ化した「国体」の強化と言い換えてもよいだろう。(文中敬称略)(放送大学教授・原武史)


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