18/07/18 18:55:15.37 AtE41mA50.net
私は昨日書いたものを見て、自分が書いたとは思えない、
誰か他人が書いたもののように思う。
なんらかの答えを持った昨日の人は、毎日死んでいるのだ。
日々を生きているものとは、問かけや発見ではないだろうか?
実際に、死ぬものとは、知識なのである。
生命が求める究極のもの、あるいは不死とは、知識いっさいの不在なのだ。
私というイメージが死に、肉体が死に、脳が終わり、知識が不在になると、
そこに知識によって隠されてきたものが現れる。
それを発見した瞬間、このような恐怖のなかで生きる生存はゲームオーバーだ。
「何もいっさい知らない」これが生命の究極なのであり、
そもそも宇宙や世界がはじまるまえから、それだったので未知に帰ることが不死なのだ。
グーグル先生やら答えを教えてくれる人は無数にいる、
誰でもなんでも教えてくれて、みな知らないことなどないようだ。いまや答えは誰でも即座に手に入るのだ。
だが、この生存で、もし懐疑がでないのなら、
それは生きているものではなく、外界の刺激で動く有機的な機械人形にすぎないのではないか?
懐疑を持ち問いかけることは、不死として生きている未知のものに出会うことに他ならない。