24/10/10 18:11:00.97 rAGtZ0srH
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・22
『文字』 の歴史としては、3,000年以上前に、「甲骨文字」と言う「骨のひび割れ」
を読み取る占いの儀式から、漢字の祖先が誕生した。とされる。これは中国漢字の話で
アルファベットにも又、別の物語があり、人類は言葉を創って来た。文明の違い、考え
方の違いは、正にこの言語の衝突とも言える。歴史の中で様々な変化を遂げてきた文字
だが、中国では、最古の王朝・殷代で生まれ、次の西周で作字が理論化されて整理され
た。以来「文字」の運命は、技術や社会の発展、激動の政治に左右される。社会の変化
によって、文字の形も変化し、小さな単語的少種から、最終的には造語や当て字の漢字
まで産まれて、現代の若者言葉やSNS記号まで含めれば無限であろう。紀元前8世紀
起ったのが、内乱によって王朝本家である西周が滅亡し、代わって分家の、東周王朝が
東方で再興した事が大きなエポックである。東周の時代は春秋戦国時代とも呼ばれる。
前半の春秋時代(紀元前8~前5世紀)に、王朝の権力が衰退し、各地の諸侯の(地方
領主)つまり地方豪族が力をつけ、各々に独自に外交を展開するようになったのであっ
た。すると中小諸侯を束ね支配する、大小の「覇者」が出現してくる。この時代の特徴
でもある。後半の戦国時代(紀元前5~前3世紀)に、こうした覇者の権力も、一巡し
崩壊していった。そして、大規模な諸侯は専制君主(独裁君主)へと変貌して止まない
。なにせ、各王朝は王権を持って従えていたか?と言えば実情は、王権が逆に兵力やら
戦闘力で支えられていたのであって、国力とは武力そのものを意味したのである。この
武力は、中小諸侯を併呑していった。その為、さらに、徴兵制を導入し、大諸侯同士で
激しい戦争を繰り返すことになって言ったのであった。しかし、こうした大量動員での
混乱を避ける為に、戦国時代に、法律が整備され、官僚制が発達した。このことも特徴
である。その法を順守させる為にも、以前の時代よりも識字率が上昇させ、漢字の使用
者数が増加させ、読み書きそろばんは、国の力であった。それでも全人口の1%未満と
推定されている。
23:名も無き被検体774号+
24/10/11 01:25:57.01 ljdE7ARGK
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・23
こうした事で、頻繁に伝達させる情報網の構築は、更に行政文書として、「文字」す
なわち漢字の使用頻度も増加させて、書きやすさや間違えない見やすさが重視されて、
象形性が減少し、当時では簡素化させる、簡易文字の発展につながっていく。とは言え
当時においての簡易とは、現代の様な簡易でなく、やはり複雑で字画(じかく)が多い
もので、もし、この漢字の簡素化の究極形があるとすれば、それこそが日本のふりかな
カタカナであろう。当時の分裂した社会状況を反映し、文字の形も国や諸侯ごとに異な
る様に、大陸内で一定の法則での簡素化では無かった。その為、幾つもの簡素文字が現
れている。文字はその派生によっては、構造そのものが違う場合もあれば、同一の文字
も見られる。が、一番問題なのが、逆の意味を表わす漢字の登場であり、観念や情操の
様子を表した漢字であろう。戦国時代において、各地で使われた「起」の例を挙げれば
、気や記、或いは 着や来を載せた「しんにょう」の文字がある。「走」ではなく「是
」を使ったものや「己」ではなく「巳」を使ったものなどもある。これらは、同じ意味
だろうと推測されるが、中には違った意味に取れる解説もある。大まかに周の王朝が納
めていても、各部族や税や言葉、習慣や貨幣や伝統文化が、部族ごとに違っているから
だ。これは、細部では、纏まりを欠いていた事を示す。また、戦国時代に、各種の思想
も発達していた。孔子を開祖とする儒教家、儒家から派生した厳罰主義の、法家、無為
の自然を是とする道教家などの輩出である。こうした、百花繚乱の 思想哲学の発達に
伴い、抽象的な概念も、数多く出現した。そして、それを表す文字も作られたのだが、
抽象的な概念を象形性によって表すことは難しく、これも造字における象形性の弱まり
を進めたようだ。こうして計量や数量の尺度の単位の統一や 文字や文書の統一は国民
の国意識の始まりの一つに過ぎない。大きく言えば、言葉も尺度も違えば、他国民とも
いえるもので、行動はおろか、表現が伝わらないので、習慣上の齟齬が産まれてしまう
24:名も無き被検体774号+
24/10/16 05:20:31.32 l2ikIAU91
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・24
『宋書』に於いては、「弁辰」が消えて、438年条 に「任那」が見えた頃の文献で、
たった12年後の、451年条 には、何故か「任那・加羅」と2国併記が なされるので
ある。そしてその後の、『南斉書』も併記を踏襲し記述されるに至っている。広開土王
碑文(414年建立)の文中には、永楽10年(400年)条の「任那・加羅」と連名表記され
ている。『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立)でも、大師俗姓については、
「任那の王族に連なる、新金氏」としている。これは、朝鮮の 金一族の源流であり、
本貫である姓を安東氏の流れにある。新羅の王族の金叔承を始祖とする家系であって、
旧の安東金氏である。ここで、先安東金氏と言う別系統が居る。高麗建国の功臣である
金宣平を始祖とする家系の方だ。新安東金氏または後安東金氏という。つまり、同じに
金一族の様に、現代では見えるが、本来は安東氏族の分流であって2系統も3系統もあ
った。安東の姓がよっぽど欲しかった事になる。後年、李氏朝鮮期に、勢威を振るった
安東金氏は、後者に当るとされ。新羅の敬順王の第4王子・大安君の、金殷説の子・金
叔承が始祖としてる家系だ。後金・安東氏の金叔承が、高麗に仕えた人とされている。
この家系からは、高麗の将軍・金方慶が出て後を継いだ。戦後の独立運動家の、金九は
、この家系に属した。つまりこの頃は金の姓が大流行していた。と言う事になる。昔の
『宋書』の倭国伝の中で 451年、南朝宋の、文帝が、倭王済(允恭天皇に比定)に「使
持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた記述がある 478年
南朝宋の順帝が、倭王武(雄略天皇に比定)にも「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・
秦韓・慕韓六国 の 諸軍事 安東大将軍倭王」の号を授けた。と記述している。実は、
ここに物真似上手な、朝鮮族の思惑がある。つまり、安東大大将軍が授けられたので、
その部下や平らげられた諸侯は安東将軍と縁戚や支系として、敵にならない様に、関係
なくとも安東氏系を名乗っていた。まあ、桓武平家と清和源氏の様な天下を二分したよ
うな言い方だったのだろう。
25:名も無き被検体774号+
24/10/16 05:25:22.07 l2ikIAU91
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・25
実は日本のこの倭の大将軍の前には、高句麗に征夷大将軍を任命してるし、百済の国
に鎮西大将軍を置いたとしている。高句麗は、百済や韓国と、朝鮮半島の三国のうちの
二国であるが、両者とも、北方民族の扶餘の後裔を自称していた。百済の創始者、温祚
王(おんそおう)は、北扶餘(きたふよ)の古記によると、天帝が訖升骨城(きっしょ
うこつじょう)を造って降臨。都を定めて、北夫餘を建国し、自ら解慕漱(かいぼそ=
伝説の天子名)を名乗って解を姓とした。とされる。解慕漱は弓の名手で優れた戦士で
あり、自らの王国である「北夫余」の多くの敵を征服した。王権起源神話であって実在
した人間ではない。とみられ、解慕漱は、高句麗の建国の中国の古記録や『好太王碑』
にも、現れない。それは、高句麗が夫余を征服した後に、その伝説を取り込んだ為と、
される。ところが高句麗征服は、創始者の東明聖王の次男と言われる。高句麗と百済は
対立していて、4世紀中、近肖古王が、領土を高句麗から取って、百済を北に広げた。
とされる。つまり百済の方が、この頃は強かったのである。369年に高句麗の 故国原王
(ここくばらおう)が、百済を2万で攻めたが、百済の太子の、近仇首王(ちかしゅお
う)に敗けた。371年、近仇首王が3万で 楽浪郡の故地である平壌を攻め、故国原王を
戦死させている。韓国の学者には、百済に強力な海軍を持ち、その影響は、当時、衰退
していた中国の前秦の遼東半島の向こうの、遼西や山東や、九州にまで、百済王国の力
が及んでいたとする意見がある。しかしながら、史料解釈に問題があり、中国・日本の
学者などから批判されている。とは言え、こうして扶余国の王が消滅すると、直ぐに、
女真族の渤海と、中国からの高句麗の国が立ち上がって2分したのである。ここで中国
は北夷の守りの要として、高句麗の君主に中国の南朝より「征東将軍」(413年、東晋)
、「征東大将軍」(417年、南朝の宋)、北朝より「征東将軍・領護東夷中郎将」(492
年、北魏)などの称号を与えている。
26:名も無き被検体774号+
24/10/16 12:07:40.18 0i8f14IiT
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・26、
この中国の南朝より「征東将軍」東晋から(413年)宋から(417年)、魏国からも、
「征東将軍・領護東夷中郎将」(492年)の称号を与えている事は、かなりに、北夷の、
夷狄に鬱陶しさがあったからであろう。此の時出来た渤海(ぼっかい)国や契丹(契丹
の民族は、正真正銘の流浪の騎馬民族で、放牧民である。馬に乗り、羊や牛を飼って、
自由気ままに、水や草を求めて生きていた民でありながら、鉄器を最初に使った肉食族
で、勇猛果敢な民であったのだ。或る時、松漠都督府(遼寧省地方府)が、支配地域に
強制移住させられて、定住化をさせようとした周は、契丹族の暴動を起こされた。この
混乱に乗じて、粟末靺鞨(ぞくまっかつ)人達は、指導者の乞乞仲象(きつきちゅうし
ょう)の指揮の下で、高句麗の残党と共に、松漠都督府(まつばくととくふ=ちほうせ
いふ)の支配下から、離脱し、その後、彼の息子大祚栄の指導の下で、高句麗の故地へ
進出した。つまり故郷に帰ったって事だが、実はいまの、黒竜江省の河伝いには、靺鞨
(まっかつ)とか、勿吉(もっきつ)とか言われた民族が、黒龍人として定住していた
のがそこで解る。中国の、隋唐時代には、中国東北部・沿海州に存在したとされている
ツングース系の農耕漁労民族である。南北朝時代におけるの表記が、色々変化したが、
いわゆる黒水靺鞨(こくすいまっから)族である。粛慎(みしはせ)・粛慎(しゅくし
ん)の末裔である。16部あったとされ、後に高句麗遺民と共に、渤海国を建国した南の
粟末部と、後に女真族との祖らしく、金朝・清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な
部族であった。とされる。こうした部族名は、むしろ中国政権側からの呼び方で、記録
に残す名称が移り変わっただけで、当の粛慎の民たちは大して気にしていなかったのか
も知れない。そして日本は日本で、粛慎という古称(昔からの呼び方)をそのまま使い
続けていた様だ。これらがアイヌ族なのかツングース族なのかオホーツク族なのは、今
となっては判らない。
27:名も無き被検体774号+
24/10/16 12:08:07.09 0i8f14IiT
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・27、
日本書紀に登場する北方の異民族「粛慎(みしはせ)」は荒海こえて行来したようだ
。原文は「越國言。於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人。乘一船舶而淹留。春夏捕魚充食
。彼嶋之人言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。」(『日本書紀』欽明天皇五年十二月条)
とある。つまり、『日本書紀』によると、日本人と粛慎の初見は、欽明天皇時代 544年
である。越国(こしのくに:北陸)の住民が言うには、粛慎の人々が船でやって来ては
、御名部(みなべ。佐渡島北部)の見える海岸に停泊した。春や夏には、魚を獲って暮
らしていたそうで、住民たちは「あいつらは人間じゃない。鬼かも知れない。」などと
噂し、彼らに近づくことを怖れていた。そして原文は、「嶋東禹武邑人採拾椎子、爲欲
熟喫。着灰裏炮。其皮甲化成二人、飛騰火上一尺餘許。經時相鬪。邑人深以爲異、取置
於庭。亦如前飛相鬪不已。有人占云『是邑人必爲魃鬼所迷惑。』不久如言被其抄掠。」
(『日本書紀』欽明天皇五年十二月条)とあるので、で、粛慎の人々が滞在中のある時
、佐渡島の、東部にある 禹武(うむ)村の住民がドングリ(椎の実)を集め、煮て食
べようと、灰の中で炒っていたところ、ドングリが二粒、それぞれ 小人の形になって
一尺(約30センチ)ほども飛び上がり、互いに喧嘩をし始める、という怪現象が起った
という。「これは何かの異変に違いない!」と占ってもらったところ、「この村の者は
やがて鬼に惑わされるであろう。」という結果が出て、間もなく禹武村は、略奪に遭っ
た。ということを書いている。この禹武村での略奪が、御名部海岸にいた 粛慎による
犯行なのか、その因果関係は判らない。しかし、想像すれば、まだまだ 鉄器が存在し
ない時代に、鉄を持ち込み金を取って分け前を一部に分配して、金の灰吹法(はいふき
ほう)に近い抽出をやっていたのでは無いだろうか。と思う。金・銀に鉱石から、一旦
鉛や土器に溶け込ませ、さらにそこから金銀を抽出する技術は後世の事だが、栗の皮や
魚の皮か鱗か何かで、金の抽出技術を持ち込んだのだろう。と想像する。
28:名も無き被検体774号+
24/10/17 12:27:53.14 12NNKXVw1
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・28、
ここで、「春と夏は魚を獲って暮らしていた」ことが記されている。秋から冬にかけ
、魚があまり獲れなくなり、飢えた粛慎の人々が禹武村まで遠征・略奪した可能性も、
両地の位置関係次第ではあり得なくも無い。ところがひょっとしたら、この金で皆んな
が食糧と交換出来ると思ってたが、思いの外言葉と文化の壁が厚かった。やがて、粛慎
の人々は舟で、瀬波河浦(せなみかわのうら)という場所に移住する。恐らく村人達は
「あいつら(粛慎)の仕業に違いない!」と追い立てた結果とも考えられる。ところが
この瀬波河浦は奇しくも聖域だった様で、住民は、普段から神々を畏れていた処だった
。だから、それ以上追って来なかったものの、孤立した粛慎の人々は食糧や水の確保も
ままならず、渇きのあまり海水(浦の水)を飲んで次々と死亡した。やがて死者が半分
にも達し、その骨(亡骸)は、岩穴に溜まった(捨てられていった)ため、そこをして
「粛慎隈(みしはせのくま)」と呼ぶようになったそうです。原文では「於是 肅愼人
移就瀨波河浦。浦神嚴忌。人敢近。?飮其水。死者且半。骨積於巖岫。俗呼肅愼隈也。」
(『日本書紀』欽明天皇五年十二月条)と記述はここまでとなっている。恐らく粛慎の
移住の人々は「もうこれ以上ダメだ!定住or拠点化は諦めよう!」と撤退していったの
降参して住民に溶け込んだのかはわからない。こうして日本人と粛慎人との、ファース
トコンタクトは終わった様だ。考えるに、恐らくこの記述は真実とは違うだろう。この
頃衣食住の水は湧き水に支えられて生活していた。で、思うにここらは、石油も取れる
日本で唯一の場所である。そこそこの狩猟や漁場であるので、そんなに食糧には事欠く
状態では無かったろう。ところが恐らく水がなく 油の取れた場所で、それを知らずに
飲み水として使っていたのでは無いだろうか。そこで皆んな病気になった。で幾人かは
死ぬのを恐れて民家を訪ねた。それが「なまはげ」文化の元になったのでは無いだろう
か。と想像するのである。
29:名も無き被検体774号+
24/10/17 12:28:21.83 12NNKXVw1
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・29、
実は『日本書紀』から粛慎に関する記述は、ここだけではない。その後に、しばらく
はなくなりますが、次に粛慎の人々が登場するのは、これから一世紀以上が経過した、
斉明天皇四条 658年である。つまり百年後である。ここでは、猛将・阿倍比羅夫(あべ
のひらふ)が登場する。三年間にまたがる粛慎討伐の始まりです。斉明天皇四 658年、
越国の国守である阿倍引田臣比羅夫が粛慎を征伐、戦利品としてヒグマ2頭、ヒグマの
毛皮70枚を献上している。原文は「是歳、越國守阿倍引田臣比羅夫討肅愼、獻生羆二・
羆皮七十枚。」(斉明天皇五 659年3月)、或本云、阿倍引田臣比羅夫與肅愼戰而歸。獻
虜卅九人(『日本書紀』斉明天皇四年条、同五年三月条)と記述。阿倍引田臣比羅夫が
粛慎を征伐、捕虜39人を献上した。と書かれる。随分と簡素な記録だが、翌斉明天皇六
660年3月には、詳細な粛慎征伐の記録も残されている。斉明天皇は阿倍臣(比羅夫と思
われる)者に、二百艘の船団を率いさせて粛慎討伐に派遣した。遠征の道中で、蝦夷の
軍勢を組み込みながら、阿倍臣らは大河(アムール河か?)のほとりに到着しました。
「遣阿倍臣『闕名』、率船師二百艘伐肅愼國。阿倍臣以 陸奥蝦夷令乘己船到大河側」
(『日本書紀』斉明天皇六年三月条)すると、渡島(現:北海道)から来ていた蝦夷が
、千人ばかり海岸にいて、その中から 二人ばかりが阿倍臣の前に進み出て、「粛慎の
大軍が私達を殺そうとしています。お仕えしますので、どうか助けて頂けますようお願
いします。」と、申し出た。と言う。「於是渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔、向河而營。々中
二人進而急叫曰『肅愼船師多來將殺我等之故、願欲濟河而仕官矣』。」(『日本書紀』
斉明天皇六年三月条)、ここで話を聞いた阿倍臣は、二人の蝦夷に粛慎軍の布陣や軍船
の数を訊ねると、蝦夷らは、粛慎軍の居場所を指して『軍船は二十艘あまりである』と
答えました。
30:名も無き被検体774号+
24/10/17 12:33:43.91 12NNKXVw1
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・30、
そこで阿倍臣は使者を出してアプローチを試みるも、粛慎からの、リアクションは、
ありませんでした。もしかしたら、自分達より十倍ほども多勢な阿倍臣の軍勢に、恐れ
をなしたのかも知れない。と記述。「 阿倍臣遣船喚至兩箇蝦夷、問賊隱所與其船數。
兩箇蝦夷便指隱所曰『船廿餘艘』。即遣使喚而不肯來。」「阿倍臣乃積綵帛・兵・鐵等
於海畔而令貪嗜。肅愼乃陳船師、繋羽於木、擧而爲旗。齊棹近來停於淺處。從一船裏出
二老翁。廻行熟視所積綵帛等物。便換著單衫、各提布一端。 乘船還去。俄而老翁更來
脱置換衫、并置提布。乘船而退。」(『日本書紀』斉明天皇六年三月条) 阿倍臣は、
次なるアプローチとして、色鮮やかな絹や武器、鉄などを海岸に並べて置き、自分達は
少し離れ、粛慎に持って行かせようとした。暫く待っていると、粛慎の方から船で2人
の老人が上陸し、並べ置かれた絹などを観察すると、その一部を船に乗せ持って帰る。
「これで成功か?」と思われました。が、再び老人がやって来て、持ち去った物品を元
に戻して船に引き上げていった。」一体これは、何を意味するのか。「便換著單衫(と
っかえひっかえみてまわり)、各提布一端 乘船還去(布1端をかかげ持ち去った)」
とかいて、。俄而老翁更來(にわかに 老人が再来し)脱置換衫(杉板の上に脱いで置
き、并置提布。置いて行ったものはその布だった。乘船而退。そして船に戻って行った
。」つまり、これは当時の物々交換の方法だったのだろう。つまりは今の無人販売所の
様なシステムで、昔も今も、盗んで行くか交換するか、が殺してもいい悪人か、握手し
商売できる人間かを定める、世界共通の行動だったのだろう。まあ読者の方も、言葉も
習慣も判らない異国の地に、兵団をつれてやって来た隊長のつもりで考えてみてみると
、例えば食の準備や敵を探るに 原住民を味方につけるのは肝要である。ともなると、
そうそう簡単に仕掛けて殺す訳にいかない。更にもし向こうが強兵で負けた時は帰還も
叶わないのである。で慎重に期して、こうした行為になったのだろう。
31:名も無き被検体774号+
24/10/17 12:36:04.74 12NNKXVw1
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・31、
かくして、模様眺めの調査は終わり、その後も阿倍臣は何度かアプローチを試みるも
応じず、粛慎たちは、渡島の一部といわれる弊賂弁嶋(へろべのしま。北海道の一部と
言われ渡島といるが、利尻島or奥尻島などと推定)まで退却し、砦(柵)に立て籠もっ
た。事ここに至って阿倍臣は粛慎に対して宣戦布告するしかなく、その立て籠もる砦を
攻め立てたところ、やがて、粛慎が和睦を求めて来ましたが、阿倍臣はこれまでのアプ
ローチに対する非礼に怒っていたのか、これを拒絶したのである。激戦の中で阿倍臣の
部将である、能登臣馬身龍(のとのおみ まみたつ)が戦死したものの、ついに 粛慎の
砦は陥落させて。粛慎たちは「最早これまで」と妻子を殺して、記述にないものの、自
分たちも自決した模様だ。曰く「阿倍臣遣數船使喚、不肯來。復於弊賂弁嶋。食頃乞和
、遂不肯聽。<弊賂弁、度嶋之別也。>據己柵戰。于時能登臣馬身龍爲敵被殺。猶戰未
倦之間。賊破殺己妻子。」(『日本書紀』斉明天皇六年三月条)当初の日本書紀の中の
544年の記録は、省略し簡単に記すと『 越国(北陸)からの 報告では、佐渡島の 北の
御名部(みなべ)という海岸に粛慎(みしはせ)という、民族が船に乗ってきて 留まって
おり、佐渡の人は異国人や鬼と言って、近づかない様にしており、その後、誰かの占い
で出た結果の通りに 粛慎が村を襲撃、以降、粛慎は 瀬波河浦(せなみかわのうら)と
呼ばれる地域に移ったが、そこの水を飲んだ粛慎の多くが、死亡し、多くの骨が岩穴に
溜まりそこは今では粛慎隈と呼ばれる。』みたいな事を書いている。この粛慎の漢字は
ツングース系諸民族を指し、中国使用の粛慎(シュクシン)の漢字と全く同じだが、粛慎
は前11~前3世紀頃までの言葉であり、その後は記録が途絶え、1~4世紀にはゆう
婁とされ、5~6世紀の勿吉、6~10世紀には靺鞨、10~16世紀まで女真、16
世紀から現在にかけては満州族と呼ばれている。佐渡島にやってきた当時、すでに粛慎
という名前が無くなって九百年後で、中国には勿吉(もっきち)や靺鞨(まっかつ)と
呼ばれていた。、関連性は難しく、全くそれとは関係ない民族がやってきた事も考える
べきかもしれない。
32:名も無き被検体774号+
24/10/17 12:40:30.03 12NNKXVw1
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・32、
しかし、ここでは普通の蝦夷の可能性もあるものの、わざわざ蝦夷や狄、戎、夷では
なく粛慎(みしはせ)という、よくわからない名称を使った理由が、説明できないでい
る。みしはせとは、通常「未知」「馳せる」の遠くからやって来た者、異邦人と言う、
扱いである。オホーツク文化の人々である。という説を採れば実はその頃は言語は通じ
ていたので、恐らく日本海交流地域外からの人々と言う事になる。遠い昔に粛慎という
名前で呼ばれた人々は、6世紀当時は既に靺鞨と呼ばれた。それをなぜか古い名前で読
んだ可能性には、それらとは別の北方民族の可能性が考えられ、この記録の粛慎は確実
にオホーツク文化圏外人であろう。この文化圏外の北は、エベンキ族、西はウルチ族や
オロチ族である。東に千島アイヌ、蝦夷アイヌ、樺太アイヌが居た。その中に 時々は
森の旅人とされるトナカイ住民のニヴフや、中国内陸との橇の交易人ナーナイがいた。
これが、どれだけ日本の大和朝廷が知っていたかは不明だが、少なくともエゾアイヌ人
とは交流しているので、粛慎(みしはせ)が古くからの名で使われてしまったのかも、
知れない。その後に、粛慎は大和朝廷と和睦し、粛慎征伐の動きは沈静化していって、
『日本書紀』には、阿倍臣が粛慎の人々をもてなすエピソードが(斉明天皇六 660年五
月条)にある。新羅国(しらぎ:朝鮮半島東部)からの使者に、粛慎人が随行していた
記録(天武天皇五 676年十一月条)、持統天皇が、粛慎人二人に務広肆(むこうし)の
後の従七位下に相当等の、官位を与えたエピソード(持統天皇八694年 一月二十三日条
)等が残されている。そして、持統天皇が粛慎人の志良守叡草(しらすえそう)という
者に、錦の袍(ほう。上着)と袴、絹や斧などを下賜した。(持統天皇十696年3月12日
)これ最後に、『日本書紀』からその姿を消した。しかし、代わりに勃興使なる使者が
嵯峨天皇時代にやって来ては 珍品を隠れて売って帰っていくのであった。
33:名も無き被検体774号+
24/10/23 04:49:38.03 G9E+MMbWK
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・33、
次に古い記録は640年、「流鬼国」という国が唐の李世民の時代の皇帝に一度だけ
朝貢を行なったという中国の記録である、李世民(りせいみん:598~649)中国、唐の
第2代皇帝である。在位は626年から649年である。廟号は太宗。高祖李淵の次男である
。隋末、李淵の建国を助け、626年、李淵が帝位につくと 玄武門の変によって兄弟を殺
してのし上がり、父の譲位を受けて即位した。彼は官制を整えて、均田制・租庸調制・
府兵制・科挙制など、近代国家の制度を確立している。房玄齢・杜如晦(とじょかいら
)などの名臣を用いて、「貞観(じょうがん)の治」と、よばれる治世をもたらした。
また、東突厥(ひがしとっぱん)を始め、四囲の諸民族を制圧したが、高句麗遠征には
失敗続きだった。だがその「貞観の治政」は名高く、著書に「帝範」、臣下との問答に
「貞観政要」がある。「流鬼国」については、唐代の史料に、流鬼国の唐への朝貢やら
流鬼国の文化風俗の記述があるが、最も詳細な記述を残している『通典』が杜佑によっ
て編纂された記述がある。流鬼の国は北海の北にあった。北は夜叉国に至り、他の三面
は、皆、大海に当たり、南は、莫設靺鞨を去ること船行15日のところにある。その国に
は城郭がなく、流鬼は、海の中の島に依って散居している。……中略……靺鞨の中には
海に乗り出してその流鬼の国へと、交易に行く者がいて、唐の国家の繁栄ぶりを流鬼に
話したところ、その国の君長の「孟蜂(もうほう)」は、息子の「可也余志(かなよし)」
を唐に使節として派遣した。その使節は、貞観14年に、途中で 何度も通訳を替えて
長安に朝貢にやって来たのであった。使節の話によれば、使節は初めて靺鞨の国に到達
したが、そこで馬の乗り方が判らなかったので、馬に乗ったらすぐに落ちてしまった。
34:名も無き被検体774号+
24/10/23 04:50:29.10 G9E+MMbWK
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・34、
「……(後略)。 流鬼在北海之北、北至夜叉国、餘三面皆抵大海、南去莫設靺鞨 船
行十五日。無城郭、依海島散居、掘地深数尺、両辺斜豎木、構為屋。人皆皮服、又狗毛
雜麻為布而衣之、婦人冬衣豕鹿皮、夏衣魚皮、制与獏同。……中略……靺鞨有乗海至其
国貨易、陳国家之盛業、於是其君長孟蚌遣其子可也余志、以唐貞観十四年、三訳而来
朝貢。初至靺鞨、不解乗馬、上即顛墜……(後略)。」(杜佑、『通典』の巻 200、辺
防16、北秋伝、流鬼の条)ここで無城郭(城や城郭もなく)、依海島散居(よって海や
島に散在して生活し)、掘地深数尺(深さ数尺=人の背丈以上をその地を掘り)、両辺
斜豎木、構為屋。(2つの硬い木の構造の家=そりに乗った家に住み)人皆皮服、(人
は皆が毛皮を着て)又狗毛雜麻為布而衣之(狗毛雜麻麻地=栗色の厚手の麻布で覆い住
み)、婦人冬衣豕鹿皮、夏衣魚皮、(婦人達は冬は鹿皮を着て、夏は魚皮を着て)制与
獏同。季節を過ごしている。と書いている。これはエキスモー族の生活である。つまり
掘ると書いているのは恐らく氷や雪の事で、きっと掘った中にそのままソリの家屋を入
れて渡り住んでいたのであろう。これは時折拭いて来る強風の寒さに耐える工夫である
。エスキモーでは氷の家、日本ではカマクラの事になる。『唐会要』ではやや異なり、
「流鬼の国は、京師を去ること 15000里の彼方にある。『黒水靺鞨』の東北で、少海の
北に当たり、三面は海によって隔てられていると記される。ここでいう「少海」とは、
『唐会要』巻96靺鞨の條に「北は小海に至り、東は大海に至る(北至小海。東至大海。
)」と一致するものと考えられ「大海(日本海)」に対し「小/少海(間宮海峡)」を
指すと考えられている。『通典』の「流鬼在北海之北」という記述も「流鬼在小海之北
」の誤りであると見られている。つまりはロシアのハバロフスクやウラジオストク当た
りに思わわれる。
35:名も無き被検体774号+
24/10/23 04:50:47.89 G9E+MMbWK
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・35、
……また流鬼の長老の人たちの間に 昔から伝わっている話として言う事には、その国
の北、一ヶ月行程のところに「夜叉」という人たちがいて、その人たちは皆、豕の牙が
突き出たような、人を吼え喰らわんばかりの容貌である。という。「夜叉国」の人達は
、その国から外に出ることがないので、いまだかつてその国から使節が、中国にやって
来たことがない。「……其長老人伝、言其国北一月行有夜叉人、皆豕牙翹出、堯人。莫
有吼其界、未嘗通聘。」(杜佑、『通典』の巻200、辺防16、北秋伝、流鬼の条)以来、
朝貢の記録は一歳ないため詳細は全く不明でカムチャッカ半島の説もあったが、そこは
「夜叉国」と呼ばれ、また、豚の飼育や大陸との交流など、歴史的記述と考古学的証拠
が一致していることオホーツク文化の人々と思って良いだろう。流鬼国カムチャッカ説
を採用しているが、流浪の民の位置を決めるのは、移動しているので歴史上は無理だ。
とも言える。また、当時の中国では『唐会要』などの記録から、西の果てをペルシャ、
東の果てを流鬼国と考えていたようで、『資治通鑑』および『新唐書』の記述では流鬼
の王子である可也余志に対し、わざわざ、最果ての人々が乗馬を覚えて 朝貢したのが
評価されたのか「騎都尉」の位を授けている。この夜叉や鬼夜叉と言う夜叉国などの、
言い方であるが、どうも白夜の国、白夜から来た人の意味合いの様だ。更に、セイウチ
の猟に明け暮れ、セイウチの角を頭に置いていたので、北欧バイキングの一族の、生活
模様もあったと思える。今は北極海航路として大きく人気が出た北方であるが、実は、
早くからこの氷の雪原は、こういった民の天下として 庭の様に交通していたのだろう
。とも思う。
36:名も無き被検体774号+
24/10/23 04:51:47.44 G9E+MMbWK
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・36、
日本の記録で『日本書紀』の中にある、658年の記録で、蝦夷を服従させて回って
いた阿倍比羅夫が粛慎と戦闘し勝利、ヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上したという
記録である。ヒグマは、その頃北海道やそれより北にしか生息していない。このため、
粛慎という存在は北海道以北だったという事がわかる。阿倍は翌年の659年にも粛慎
に勝利し、捕虜を39名を献上し、すぐ後の660年には阿倍比羅夫が200隻の船を
引き連れて粛慎征伐に出発している。北海道に到着してすぐに、前の蝦夷への遠征の中
で、友好関係を築いた渡島(ワタリシマ)の人々は、要するに北海道の蝦夷、つまり擦文
時代のアイヌからの、粛慎をどうにかして欲しいという、懇願を受けて、蝦夷と粛慎は
対立していた事がわかり、そして安倍はそのまま粛慎の退却を追いかけて、本拠地の「
弊賂弁島」も陥落させ、その中で軍の能登馬身龍は死亡、粛慎は勝敗が判らない内から
妻子を殺したと記録が残る。この弊賂弁島の場所に関しては当時、オホーツク文化の、
分布域の最も南の端となっていた奥尻島である。という説や、樺太である説などがある
が不明である。夜叉国の出自についても、諸説あって、中国の何秋濤(かとうしゅ)に
よるチュクチ民族説、白鳥庫吉のユカギール民族説、佐藤達夫のエスキモー民族説など
が主にあるが、菊池俊彦は考古学研究成果から、夜叉国をオホーツク海北岸に住まった
、コリャーク民族の先祖、古コリャーク文化人を当ててる。このコリャーク人の伝承に
よると、彼らは、元々西はオホーツク市一帯にまで居住していた。しかし、エヴェンキ
民族の、東進によってカムチャッカ半島北部一帯に、居住地域を狭め異動した。これを
裏付けるように、古コリャーク文化はカムチャッカ半島北部からマガダン湾一帯にまで
広く分布している。
37:名も無き被検体774号+
24/11/02 03:00:29.72 KeB0xV3ms
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・37、
ここで興味深いのは、流鬼国と交流を持っていた靺鞨、また後に靺鞨を支配下に置い
た契丹の間には、「骨咄角(こっとうかく:骨咄犀こっとうま)」という品が、流行し
流通しており、特に、契丹人の間に、骨咄犀は皇帝の身につける品とされるほどに珍重
されて、金の代わりになっていたという。骨咄角は「象牙とよく似ている」とされる。
このことから、セイウチの牙であると考えられる。がしかし、セイウチの棲息南限は、
アリューシャン列島であって、靺鞨人・契丹人達には、直接入手することができない。
それでも、同じくセイウチの回遊しないはずの、オホーツク海沿岸に住まう人々、つま
りオホーツク文化の遺跡では、しばしばセイウチ牙を加工した、遺物が出土しており、
オホーツク文化人は交易によってセイウチ牙を手に入れていたことが確認されている。
古コリャーク文化の遺跡でも、セイウチ牙製品は出土しており、また近代もコリャーク
人は、カムチャッカ半島北部でセイウチ猟を行った記録がある。このことからセイウチ
の牙は、コリャーク民族が産出していた。と考えられている。そうなると菊池俊彦の、
オホーツク文化人(=流鬼国人)と古コリャーク文化人(=夜叉国人)は古くから交易
を行い、オホーツク文化人は、中国銭などの大陸製品によって古コリャーク文化人から
セイウチ牙を手に入れ、さらに靺鞨人・契丹人は、オホーツク文化人からセイウチ牙を
手に入れた。とする説は的を得た答えになる。又言語学からも、セイウチ生息圏のチュ
クチ・カムチャツカ語族での「セイウチ=牙」を意味する単語がトゥングース語に取り
入れられ、更にニヴフ語・樺太アイヌ語にも「牙=セイウチ」両方を意味する単語とし
て入ったと推測している。その上で、本来生のセイウチを見ることができないはずの、
トゥングース人・ニヴフ人・樺太アイヌ人の間でも「セイウチ」という単語が「牙」と
いう単語と強く結びついて知られている。流鬼国・夜叉国の時代から環オホーツク地域
で、セイウチ牙の交易が行われていた結果であろう。
38:名も無き被検体774号+
24/11/02 03:00:58.30 KeB0xV3ms
或本云、阿倍引田臣比羅夫與肅愼戰而歸。獻虜卅九人。(斉明天皇5年(659年)3月)
遣阿倍臣<闕名>、率船師二百艘伐肅愼國。阿倍臣以陸奥蝦夷令乘己船到大河側。於
是渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔、向河而營。々中二人進而急叫曰「肅愼船師多來將殺我等之
故、願欲濟河而仕官矣」。阿倍臣遣船喚至兩箇蝦夷、問賊隱所與其船數。兩箇蝦夷便指
隱所曰「船廿餘艘」。即遣使喚而不肯來。阿倍臣乃積綵帛・兵・鐵等於海畔而令貪嗜。
肅愼乃陳船師、繋羽於木、擧而爲旗。齊棹近來停於淺處。從一船裏出二老翁。廻行熟視
所積綵帛等物。便換著單衫、各提布一端。乘船還去。俄而老翁更來脱置換衫、并置提布
。乘船而退。阿倍臣遣數船使喚、不肯來。復於弊賂弁嶋。食頃乞和、遂不肯聽。<弊賂
弁、度嶋之別也。>據己柵戰。于時能登馬身龍爲敵被殺。猶戰未倦之間。賊破殺己妻子
。(斉明天皇6年(660年)3月 原文)
又阿倍引田臣<闕名>獻夷五十餘。・・・(中略)・・・以饗肅愼?七人。(斉明天皇6
年(660年)5月)
丁卯、新羅遣沙金清平請政。(中略)送清平等於筑紫。是月、肅愼七人從清平等至之。
(天武5年(676年)11月 原文)
以務廣肆等位授大唐七人與肅愼二人。(持統8年(694年)1月23日 原文)
賜越度嶋蝦夷伊奈理武志與肅愼志良守叡草、錦袍袴・緋紺?・斧等。(持統10年(696年
)3月12日 原文)
39:名も無き被検体774号+
24/11/02 03:01:43.96 KeB0xV3ms
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・38、
こうして、阿倍引田臣比羅夫(あべの ひきたおみ ひらぶ)の遠征で、、粛慎(みし
はせ)は成敗されたが、その後も660年の蝦夷が五十人献上されて、それが粛慎に渡
された記録が残る。676年の新羅の使者に、金清平に、粛慎7名が従っていた記録、
694年の務広肆(むこうし)の身分を 唐人7名と粛慎2名に授けたという記録、69
6年の渡島、つまり北海道の蝦夷、つまり擦文時代のアイヌの族長であった伊奈理武志
(いなりむし)と、粛慎の族長である志良守叡草(しらすえそう)に 綿で出来た衣服や赤
い太絹、斧などを下賜、つまり与えたとする記録などがある。遠い昔に粛慎と呼ばれて
いた大陸の、靺鞨人(まっかつじん)に関しても、720年の津軽の津司の諸鞍男ら6名
の使節を送っている。こうして交流や国交の接触があったようで、Wikipedia のページ
ではまとめて粛慎の記録として扱われている。、阿倍引田臣比羅夫には、あまり出自が
解って居ない。実は陰陽道や卜師の家系に、阿倍氏宗家(阿倍御主人の布勢氏)がいて
、提出した家記によると推定されている。阿倍家の「阿倍臣」と言う職や地位の名称で
大化5年(649年)の、左大臣・阿倍内麻呂が没し、阿倍氏の 宗家が絶えた。比羅夫は
傍系出身ながらも、阿倍氏一族の最有力者として、氏上的な地位に就いていたと想定さ
れている。斉明天皇4年(658年)4月から、斉明天皇6年(660年)5月にかけての、
越国守であったようで、比羅夫が蝦夷・粛慎征討を行ったことが『日本書紀』に記され
ている。これらは、重複を指摘する意見のほか、一部の事象のみを史実とする意見も、
かなりある。つまり、引田比羅夫が本名で、阿部家を継いで 越国の守(こしのくにの
たいしゅ)の下命を受けていたの 事件事象だったようだ。7世紀中期(飛鳥時代)の
日本の将軍で氏姓を阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。
斉明天皇4年(658年)の時代に、3年間もかけて、日本海側を北へ航海して 蝦夷を服
属させていき、東北以北のどこかで粛慎と交戦した。と言う事である。
40:名も無き被検体774号+
24/11/08 12:58:19.85 8JxB4ji6R
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・39、
こうした時代に朝鮮半島では、武周朝の 698年。当初は、震国(振国)と称する国が
建国する。713年に 大祚栄(だいそえい)が、唐から、渤海郡王という称号を与えられ
て、国名も渤海国と、称するようになった。第2代大武芸(だいぶげい:在位720‐737
)の時、渤海の北にいた黒水靺鞨と唐との通交を契機に,両者から挟撃されることを恐
れた渤海と唐との間で緊張が高まった。渤海国第2代目王の大祚栄の長男。この王の時
、中国風の国家体制を整備して行き領土を拡大させ、年号を仁安とした。仁安8 (726)
年、弟の大門芸(だいもんげい)に、黒水靺鞨 (まっかつ) を攻略させたようだ。しか
し、大門芸は、これを反問し諫めて、唐に亡命した。そこで大武芸は、その引渡しを、
要求した。ところが唐は応じなく、このため唐とも対立し,同14年に登州 (山東半島)
を襲った。同9年に初めて日本と通交し、その後の両国の国交・通商のもとを開いた。
とされている。この、東牟山(現在の吉林省延辺:朝鮮族自治州敦化市)に都城を築い
た震国はかなり異様だった。「震」という国名は『易経』にある「帝は震より出ず。」
から付けたものであり「辰」に通じ「東方」(正確には東南東と南東の間)を意味する
。かなりの中国かぶれで、渤海の支配層が、中国的教養を持っていた事が窺える。この
地は、後に「旧国」と呼ばれ、大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながらも勢力を拡大し
、唐で、712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝することにより、崔忻が冊封
使として派遣されて、大祚栄が「渤海郡王」に冊封されたのである。渤海国の名称は、
漢代以来の河北省の海岸地方に置かれた渤海郡の名称をとって渤海郡王に冊封した事に
したようだ。当時の渤海郡にあたる地方は滄州(そしゅう)と呼ばれ、渤海郡の名は、
ない。その事はかつては、高句麗が遼東郡王に、新羅が楽浪郡王に、百済が帯方郡王に
冊封されていたように、旧名によって爵号としたものであり、それによってこれが中国
の国土であることを明らかにしようとしたものであった。と見られている。
41:名も無き被検体774号+
24/11/08 12:59:27.08 8JxB4ji6R
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・40、
ここで、国王と将軍の地位がある。安東将軍は 中国では三品将軍であり、四安将軍
(安東将軍・安南将軍・安西将軍・安北将軍)の一角を為す将軍位である。「使持節
都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と、なって
いる。が「征東、鎮東、安東」は、全て三品将軍であるのだ。、役職で言えば、高句麗
の征東大将軍、百済の鎮東大将軍、倭国の安東将軍となっており、倭国の安東将軍は、
高句麗や百済よりも、一つ官爵が低い。倭国が安東将軍なのに対し、高句麗には、征東
大将軍、百済には鎮東大将軍と、将軍位に更に「大」が付いており、倭国は、その分、
信任には後れを取っているのである。中国の春秋戦国時代に、高句麗の君主は、中国の
南朝よって「征東将軍」(413年、東晋)、「征東大将軍」(417年、南朝の宋)、北朝
より、「征東将軍・領護東夷中郎将」(492年、北魏)など、晋国や魏国や宋からと称号
を受けた。理由は、時の権力者の守護、つまり敵にしたく無かった為の、同盟用の爵位
だった。とされる。しかし、歴代の百済王は、古く 372年以来、中国南朝より、「鎮東
大将軍」に、任命されていた。天監元年(502年)の4月、百済王余大が「征東大将軍」
の号を受けている。東晋国の第8代皇帝の簡文帝(かんぶんてい)は、初代皇帝元帝の
末子だった。利発であったことから、父の元帝に愛された。永昌元年(322年)、元帝に
より琅邪王(ろうやおう)に封じられた。咸和2年(327年)、生母の鄭阿春(ていあし
ゅん)が没すると、服喪のために会稽王(かいけいおう)に改封し、散騎常侍を拝命さ
れた。これは、 1. 侍中(じちゅう) 2. 散騎常侍(さんきじょうじ) 3. 員外散騎常
侍(いんがいさんきじょうじ) 4. 中常侍(ちゅうじょうじ) 5. 給事中(きゅうじち
ゅう) 6. 黄門侍郎(こうもんじろう)・・・・と、列中で直接な日常の警備隊の侍中
に次いで、宮内護衛や指導では第一位である。言わば宮内庁を取り仕切る宮中の長であ
るのだが、そうした中で、「征東将軍」の名を高句麗が拝命したのであろう。
42:名も無き被検体774号+
24/11/08 13:01:46.41 8JxB4ji6R
不思議の時代と謎の国。・・・・・・・・・・41、
こうして東晋国の第8代皇帝の簡文帝(かんぶんてい)は、咸和9年(334年)右将軍
・侍中となり、咸康6年(340年)に撫軍将軍・秘書監を兼ねた。建元元年(343年)に、
宗廟を管轄する太常の官が加わり、永和元年(345年)に、撫軍大将軍・録尚書六条事に
就いた。と言う。永和2年(346年)、皇太后の緒蒜子(ちょさんし)の詔命により政務
を総括し始め、将軍職から、皇族の世話役として、東晋朝廷の実質的な最高決定権者の
となったようだ。以降、皇族の長老として数代に渡っての、若き皇帝を補佐する立場に
あった。永和8年(352年)、司徒の位を授かったが、固辞し、穆帝が元服を行った後、
庶政を返すと請じたが、許されなかった。中国では、三公(さんこう)とは、東アジア
諸国の官制において、最高位に位置する官職をいうもので。太師・太傅・太保の三公と
、司徒・司空・司馬(大司徒・大司空・大司馬)の三公がある。云わば天子を補佐する
最高の官職としたので、天皇の相談役で、多くは先代の縁戚が座る。その中に、実務の
最高決議機関として、司徒の職がある。三公の次に三孤と六官が位し、六卿に相当して
田土・財貨・教育などを司った。とされる。時代の変異や時の皇帝で違っていていたが
概ね体制の最高実力者と言った処だろう。それを固辞すると言うのは、相当恨まれる様
な危険があった。と考えられる。興寧3年(365年)、廃帝(海西公)の即位に伴い再び
琅邪王に改封し、会稽王の爵位は六男の司馬曜(後の孝武帝)が継いだが、司馬昱自身
は相変わらず会稽王と呼ばれた。太和元年(366年)丞相に任じられた。その後 この国
は、東夷・南蛮・北狄の敵国の護りとして重宝されて、独立国の斉の国に変化するので
ある。春秋時代の終わり・戦国時代の始まりについては諸説あるが、晋の家臣であった
韓・魏・趙の三国が正式に諸侯として認められた紀元前403年とする説が定説だ。紀元前
のそうした時代から中国は戦乱に明け暮れていたが、斉(せい)の国は比較的安定を保
っていた。