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天正元年(1573)に朝倉氏は滅亡したが、その際には家臣の裏切りも敗因となった。前波吉継も裏切った一人だが、
のちに悲惨な最期を遂げたので取り上げることにしよう。
吉継は景定の子として誕生したが、生年は不詳である。景定は朝倉氏に仕え、一乗谷(福井市)の奉行人を務めていた。
吉継は当主だった兄が戦死したので家督を継ぎ、奉行を務めることになった。もちろん、朝倉氏の命に従い、出陣することもあった。
元亀3年(1572)8月、吉継は近江国に出陣していたが、にわかに2人の子とともに信長の陣営を訪れ降伏した。
『朝倉記』によると、前年に吉継は義景の勘気を蒙っており、その難を避けるため、朝倉家中から出奔したという。
天正元年(1573)、信長が一乗谷の朝倉氏を攻撃した際、吉継は先導役を務め、勝利に貢献した。戦後、
吉継はその軍功が評価され、越前国守護代に任じられた(『信長公記』)。しかも、信長から偏諱を授けられ、桂田長俊と姓名を改めたのである。
とはいえ、北庄(福井市)には、木下祐久、津田元嘉、三沢秀次という3人の奉行がおり、長俊の目付を担当すると同時に、
越前国内の政務を任されていた。したがって、越前国守護代という役割は、やや中途半端な印象が残る。
『朝倉記』には、吉継が両眼を失明したと書かれており、その原因は「神明ノ御罰也」という。『朝倉記』は、あくまで朝倉氏よりの
軍記物語なので、裏切った吉継の失明をそのように表現したのだろう。
越前国内には、吉継と同じく朝倉家中を出奔し、信長のもとに走った富田長繁がいた。長繁は府中(福井県越前市)に
本拠を置いていたが、吉継とは犬猿の仲であり、やがて2人の対立は深刻になった。
天正2年(1574)、長繁は約33,000という一揆勢を扇動し、一乗谷に攻め込んだ。
吉継は家族とともに逃亡したが、すぐに捕らえられると殺害されたのである。
『信長公記』には、吉継の死について「大国の守護代として栄耀栄華に誇り、恣に働き、後輩に対しても無礼であった報い」と
書かれている。なお、長繁も翌年に一揆勢に敗れ、討ち取られたのである。
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