徳川・織田を攻めた武田軍、実際には信玄の死よりも金欠が原因で撤退か [902666507]at NEWS
徳川・織田を攻めた武田軍、実際には信玄の死よりも金欠が原因で撤退か [902666507] - 暇つぶし2ch1:名無しさん@涙目です。
24/04/18 09:53:01.60 TDKTS6ok0.net BE:902666507-2BP(1500)
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武田信玄の西上作戦はないない尽くしの超ボンビー遠征だった
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武田信玄がボンビー遠征の末に病気で死んだのが西上作戦の真実というとにわかに信じられませんが、それは、それなりの根拠に基づいています。
信玄の根拠地である甲斐は石高二十二万石で、土地は山がちで耕作地も少なく、暴れ川が二本も走り、しかも内陸である為に、必要な物資を得るのに一苦労する土地でした。
当時の東国は開発が全体的に遅れていて、必要な物資は西国、それも堺さかい、大津おおつ、草津あしずのような港から運ばれていましたが、その主要ポイントを押さえていたのが信長です。当時東国への海上輸送は、太平洋側が伊勢と堺、日本海側が琵琶湖びわこを北上して、大津、草津でしたが、信長は、そのいずれの地域も抑えていました。
西国からの物資は荷止めされてしまい、信玄は欲しくても買えないという状況に陥ってしまいます。そのまま経済封鎖が続けば、戦う前に自滅してしまうでしょう。信玄は座して死を待つより、死中に活を求めた可能性があります。
しかし、信玄の西上作戦はその段階でも、すでに遅かったようです。
武田信玄は、戦国最強と恐れられた武田軍団を維持する為に領国内で増税を繰り返しており、国内は非常に疲弊ひへいしていました。
甲陽軍鑑こうようぐんかんには、信玄が西上作戦の軍資金の為に、未亡人や妻帯さいたいする僧侶にまでダメ押しで税金を掛けて銭をかき集めたものの、全体では銭二万一千貫(七千両)の軍資金しか集まらなかった事を記録しています。この二万一千貫という金額、信長が堺の豪商に課した矢銭やせん(軍資金)二万貫とほぼ同額、さらに信長は同様の矢銭を畿内の各都市に要求しているので、軽く十万貫は集める事が出来たようです。これだけ見ても、織田と武田の経済力の差は歴然と開いていました。


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