徳川・織田を攻めた武田軍、実際には信玄の死よりも金欠が原因で撤退か [902666507]at NEWS
徳川・織田を攻めた武田軍、実際には信玄の死よりも金欠が原因で撤退か [902666507] - 暇つぶし2ch2:名無しさん@涙目です。
24/04/18 09:54:45.03 TDKTS6ok0.net BE:902666507-2BP(1500)
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信玄軍は快進撃を続け、天方城、一宮城、飯田城、格和かくわ城、向笠城むかさじょうのような徳川方の諸城を一日で陥落させます。山県昌景軍も柿本城、井平城いひらじょうを難なく落とし秋山虎繁は東美濃の要衝岩村城を落として後、信玄本隊と合流しました。危機感を持った徳川家康は、遠江一言坂で信玄と交戦しますが多勢に無勢で敗北、浜松城に逃げ込んでしまいます。
ここまで物資不足の様子は微塵みじんもない武田軍ですが二俣城ふたまたじょう攻略に入ると、雲行きがおかしくなります。城兵1200名の二俣城攻略に二カ月もかかったのです。通常、城攻めには守備兵力の10倍の兵力が必要とされていますが、武田の西上軍は3万とも言われ、これらの小城なら余裕で落とせるはずです。ところが、10月16日から始まった二俣城攻略は、12月19日まで2カ月も掛かっています。
二俣城が落ちた事を知った家康は浜松城に籠城します。ところが信玄は浜松城を攻める素振りを見せながら、結局迂回して籠城戦を回避してしまうのです。これについても、信玄は西上作戦を急いだとか、家康の存在を歯牙しがにも掛けなかったとか、敢えて浜松城を無視して家康を挑発し野戦に持ち込んだ等の説があります。
しかし、直前の1200名が籠城する二俣城でさえ、二カ月も掛かった火力不足の武田軍です。最初から浜松城は落とせないと諦め、先を急いだと考える事も出来ます。ここにも軍資金不足、弾薬不足の武田軍の事情が窺えるのです。
三方ヶ原で勝利した後、武田信玄は遠江浜名湖とうとうみはまなこ北岸の刑部ぎょうぶ村に滞在して越年、半月後の元亀四年1月10日に同地を出発し宇利峠うりとうげから三河に侵入し、豊川を渡河して野田城を包囲します。この野田城は川岸段丘を利用した堅城でしたが、守備兵は僅かに500名で、30000人を擁する武田軍なら一瞬で落とせそうでした。
実際に三河物語にも「藪やぶの内に小城あり」と言われるような小さな城だったようです。ところが、この有利な状況にも関わらず武田信玄は力攻めをせず、わざわざ甲斐から金山衆かなやましゅうを呼び寄せて地下道を掘り、水を絶ち切る方法を取ります。野田城の戦いは、1月10日以降に始まり、2月16日に城主の菅沼定盈すがぬまさだみつが城兵の助命を条件に降伏しました。


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