21/05/13 10:14:00.32 5fBuDzOM0.net
>>1
基地外なの?
日本の文化は中国からだし、チョンはずっと中国の支配下
845:
21/05/13 10:17:12.52 t4XRf7ea0.net
>>1
これ、日鮮同祖論の焼き直しだろ? 昔からあるヤツの。
日本人と朝鮮人は祖先が同じ、だから一緒になるべきだ。
この論法で日韓併合を正当化したのだよ、その昔のことだが。
チョンは小中華の国。チョンの価値観は、中国>チョン>日本。
日本は目下格下とチョンは勝手にみなしている。
そして、中国は親、チョン自身は兄、日本は弟とチョンは親子兄弟の
関係でこの3国を序列づけしている。
だから、チョンは中国にはなにも言えない。その一方日本には“弟”なのだから
“兄”を敬え、“兄”に従えとチョンは考えている。
残念だったな、テメエらクソ食いチョンを“兄”と思う日本人はいない。
“兄”と敬う日本人はいない。
国力経済力技術力、どれもチョンは日本とは比較にならない。
さらにチョンが気にするノーベル賞。受賞者(自然科学系だよ)の
数は言うまでもない。チョンはゼロ、誰もいない。
わかっただろ、クソチョン。兄貴風吹かせるのやめろ。恥をしれ。
846:
21/05/13 10:42:27.48 SdHJ8saR0.net
魏志倭人伝にはすごいあれこれ書かれてるけど魏志韓伝はすごく短くて概要程度しか書いてないんだよね
半島には大して書くことがなかったというのが理由w
847:
21/05/13 10:53:33.45 aLcYJgHk0.net
仮にそうだとしても
だから何?なんだよなあ
848:
21/05/13 12:30:42.15 glA74cIF0.net
空国
849:
21/05/13 12:37:08.29 ZfPg+zk60.net
なんで敗走なんだよ 任那日本府があったんだから不思議なことじゃないだろうが
850:
21/05/13 12:45:38.61 idTdqoGr0.net
卑弥呼についても単純なロマンからではなく、
中国との関係において卑弥呼が古代の日本を統治していたことにしたい人達というのがいるらしいとかなんとか
自国の歴史書をどうにかして否定したいんだろうね
851:
21/05/13 12:55:17.48 DBHoKdxA0.net
進化した日本と時が止まってる朝鮮という話?
852:
21/05/13 13:08:13.96 uNxBLR2d0.net
サッカーのワールドカップを共同開催してたから兄弟なんだろ
853:
21/05/13 13:59:45.99 Lc70EexL0.net
>>837
共同開催なんて他人とやるものですよ
854:
21/05/13 15:41:15.45 xlsnTXPM0.net
>>5
日本人と朝鮮人の先祖が同じ
言語も日本語と朝鮮語の祖語が同じ
855:
21/05/13 15:41:46.14 uFSVXS7a0.net
朝鮮半島はただのストローだからな
支那と日本のあいだにたまたま地理的にあっただけ
文化も言語も文字も通過しただけの存在
文化に影響がゼロとは言わないし
言語的な共通性が無いとも言わないけど
基本的に支那か日本の影響下にずっとある場所
というだけ
856:
21/05/13 15:45:35.68 bWrLnxhs0.net
>>839
ハルウララはディープインパクトの遠い親戚だから優秀な馬だよね!ってならないだろ
始祖が同じでも分かたれて何十代も経てば別物
857:
21/05/13 16:25:55.18 11KJLIRs0.net
>>840
司馬遼太郎
「平安時代までの日本文化は外国のもの。王朝文化は百済と同じ。日本が日本らしくなったのは鎌倉時代以降であろう。」
韓鍛冶部(からかぬちべ)
朝鮮半島から4~5世紀に渡来し,鉄製の武器・馬具・農工具を製造した金属技術者の集団。
畿内地方に住み,その技術をもって伴造 (とものみやつこ) に率いられ大和政権に仕えた。
《古事記》応神段に百済より韓鍛の卓素が貢上されたとあり,百済系技術者を組織したもので,宮廷工房に上番した。
陶作部(すえつくりべ)
『日本書紀』の垂仁天皇3年(紀元前27年)条には、近江国鏡村に新羅の王子天日槍の従者であった陶人がいたこと、
雄略天皇7年(463年)条には百済より陶部高貴ら工人が貢がれたことが記されている。
弥生文化の名残であった土器である土師器が、5世紀頃になると須恵器に取って代わられるようになる。
鞍作部(くらつくりべ)
大和朝廷の馬具製作にあたった職業部。
《日本書紀》雄略7年条に百済貢上の今来才伎(いまきのてひと)の中に鞍部堅貴の名がある。
《坂上系図》には仁徳朝に鞍作村主(すぐり)らが阿智使主に従って来たと記すが,
これは東漢氏の管掌下にあったことから造作されたもので,5世紀後半に百済渡来の工人を組織したものであろう。
錦織部(にし�
858:アりべ) 錦部とも書く。大陸系の技術により錦,綾の織成に従事した大和朝廷の職業部。 《日本書紀》雄略7年条に百済より貢上された今来才伎の内に錦部定安那錦がいる。 5世紀中葉以降に百済より順次渡来した技術者を組織したものであろう。 日本音楽の歴史 継体・欽明の政権あたりから、朝鮮の音楽ついで中国の音楽が伝来した。新羅楽・高麗楽・百済楽・唐楽と呼ばれた。 名高いのは、推古天皇の時代(7世紀)に百済から帰化した味麻之によって伝えられた伎楽である。 百済の瓦博士 飛鳥時代に百済によって仏教の教えと共に寺院建築が伝えられ、飛鳥寺造営で初めて瓦葺の屋根が作られました。 瓦製作は、百済の「瓦博士」が直接指導したことは有名で、軒瓦の文様には百済風の蓮花のデザインが採用されています。 要するに現代日本の匠、職人さんたちってのは、朝鮮半島からの職能集団(品部)の子孫
859:
21/05/13 16:42:06.78 9er7U6vI0.net
>>842
陶器も養蚕も雅楽も中国発祥だよ
半島にも伝わったってだけ
で、職人や技術者を卑賤として迫害したから日本に逃げて帰らなかった
ついでに韓国に音楽を伝えたのはベトナム人だ
860:
21/05/13 16:54:53.40 11KJLIRs0.net
史部(ふひとべ)
古代日本において文書や記録の作成など文筆をもって奉仕した氏族。
史部は知られている限りにおいて70氏ほど存在が確認されているが、全て朝鮮半島からの渡来人系であり、
そのうち70氏余りいた史部全体を統率した東漢氏は直、西文氏は首の姓を与えられた他は「史」の姓を 与えられていた(「東西史部」)。
衣縫部(きぬぬいべ)
大化の改新以前に、衣服の裁縫を仕事として大和政権に仕えた職業部(品部)。
百済系、呉系、伽耶・加羅系渡来人を中心に衣縫部が編成され、大和国・伊勢国に居住していたことが判明している。
門部(かどべ)
日本古代、宮城諸門の守衛にあたった武人の集団。
古来のカドモリとよばれる人々が、7世紀ころ百済の部司制の影響を受け、門部に編成されたと考えられる。
861:
21/05/13 17:21:07.37 9er7U6vI0.net
>>844
麻による製紙技術を確立させたのは中国(エジプトはもっと古いが別の素材を使っていた)
魏志倭人伝には既に布でつくった服をまとっている描写があり、飛鳥時代には漢服を取り入れた
ついでに守衛も魏志倭人伝の頃には既に存在してた(役職名が違うだけ)
862:
21/05/13 17:35:15.69 11KJLIRs0.net
>>845
トランス・ユーラシア祖語の繊維語彙は、テュルク語やモンゴル語ではしばしば失われているが、日本・韓国語ではよく保存されている。日流祖語・朝鮮祖語に共通の繊維語彙が3例ある。pJK *par?-「縫う」、pJK *pu-「紡ぐ、撚る(糸)」、pJK *pata-「織機で(布を)織る」、pJK *asa「麻」。
Table 1.
URLリンク(static.cambridge.org)
トランス・ユーラシア言語圏における紡錘車の最古の証拠は、興隆華文化 (Xinglongwa) と招巴溝文化 (Zhaobagou) に遡る。Table 1は遺跡の概要を示したもので、雑穀の栽培、農具、麻の栽培、紡錘車、骨の針や錐の証拠があるかどうかを示している。0は「ない」 1は「ある」 ‘?’は不確定。
韓国のPibong-liでは、草で編まれた袋が、木製の船の破片の近くで発見された。4670 ± 60
863:BCEで、この遺跡は、新石器時代初期に植物を使った織物が行われていたことを示している。日本に近いこの遺跡は、織物が伝播した場所なのかもしれない。 日本で織布の証拠が最初に現れたのは、弥生時代 (900 BC-AD 300) の初期で、韓国から米や雑穀などの農業パッケージとともに、紡績や織布の技術がもたらされたと考えられている。 紡錘車の証拠がある新石器・青銅器時代の文化は、農業の証拠を持つ傾向がある。Table 1にある遺跡の大部分は、雑穀の栽培や農耕具の証拠として肯定的なスコアを示している。 繊維生産の証拠がある日本の遺跡の多くが、農業の証拠や、水田、環濠集落や柵列、木製や石製の農具、初期の青銅や鉄、鯉の養殖などの大陸的な文化的特徴を持つ弥生時代の重要な集落としてよく知られている。例えば、吉野ヶ里遺跡 (Saga) では、少なくとも6つの紡錘車と、麻と絹の両方で作られた11枚の布が見つかっている。 沿海州のBoisman (4825-2470 BCE) 、朝鮮半島の初期Chulmun (8000-6000 BCE) 、日本の縄文時代 (10000-900 BCE) のような農業以前の社会では、織物の証拠はなかった。 中国東北部の遼河西岸地域が、新石器時代に雑穀農業だけでなく、紡績や織物のための言葉や道具の普及の中心地であったことがわかった。
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