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>>262
司馬遼太郎
「平安時代までの日本文化は外国のもの。日本が日本らしくなったのは鎌倉時代以降であろう。」
韓鍛冶部(からかぬちべ)
朝鮮半島から4~5世紀に渡来し,鉄製の武器・馬具・農工具を製造した金属技術者の集団。
畿内地方に住み,その技術をもって伴造 (とものみやつこ) に率いられ大和政権に仕えた。
《古事記》応神段に百済より韓鍛の卓素が貢上されたとあり,百済系技術者を組織したもので,宮廷工房に上番した。
陶作部(すえつくりべ)
『日本書紀』の垂仁天皇3年(紀元前27年)条には、近江国鏡村に新羅の王子天日槍の従者であった陶人がいたこと、
雄略天皇7年(463年)条には百済より陶部高貴ら工人が貢がれたことが記されている。
弥生文化の名残であった土器である土師器が、5世紀頃になると須恵器に取って代わられるようになる。
鞍作部(くらつくりべ)
大和朝廷の馬具製作にあたった職業部。
《日本書紀》雄略7年条に百済貢上の今来才伎(いまきのてひと)の中に鞍部堅貴の名がある。
《坂上系図》には仁徳朝に鞍作村主(すぐり)らが阿智使主に従って来たと記すが,
これは東漢氏の管掌下にあったことから造作されたもので,5世紀後半に百済渡来の工人を組織したものであろう。
錦織部(にしこりべ)
錦部とも書く。大陸系の技術により錦,綾の織成に従事した大和朝廷の職業部。
《日本書紀》雄略7年条に百済より貢上された今来才伎の内に錦部定安那錦がいる。
5世紀中葉以降に百済より順次渡来した技術者を組織したものであろう。
日本音楽の歴史
継体・欽明の政権あたりから、朝鮮の音楽ついで中国の音楽が伝来した。新羅楽・高麗楽・百済楽・唐楽と呼ばれた。
名高いのは、推古天皇の時代(7世紀)に百済から帰化した味麻之によって伝えられた伎楽である。
百済の瓦博士
飛鳥時代に百済によって仏教の教えと共に寺院建築が伝えられ、飛鳥寺造営で初めて瓦葺の屋根が作られました。
瓦製作は、百済の「瓦博士」が直接指導したことは有名で、軒瓦の文様には百済風の蓮花のデザインが採用されています。
要するに現代日本の匠、職人さんたちってのは、朝鮮半島からの職能集団(品部)の子孫