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関東人は半島人の子孫
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飛鳥時代から平安時代にかけては、朝廷の政策により、朝鮮半島から多数の渡来人・難民が東国方面に移住・入植した経緯がある。
六国史を始めとする記録からは、これら半島出身者の東国への移住が、朝廷により逐一把握されていたことが分かる。
大陸に目を向けると、7世紀の東アジアでは唐と新羅が権勢を揮い、663年には
百済・倭国(日本)連合軍を白村江の戦いにて破り、高句麗も668年に同様に
滅された。また、10世紀にはその新羅も、後高句麗により滅ぼされた。こうした
大陸と朝鮮半島の騒乱期に前後して、朝鮮半島方面から多くの人間が渡来人として
日本各地に流れてきており、ヤマト王権は彼らに関東の未開発地を与えて住まわせ、
関連する地域の名が今でも残る(例:武蔵国高麗郡・新羅郡→新座郡)。
武蔵・相模の地は、高麗・高句麗・百済・新羅など朝鮮半鳥系の帰化人によって開拓され、
武蔵の区域は二分裂し、互に本系を表示する「宗国」「主国」の意を古朝鮮語の訓で称え
「ムネサシ」と云い、 一は「胸刺」の字をあて、一は「ネ」が略された「牟邪志」の字を
あてて表わしたもので、 これに対して相模の地域の方は、本系を表わすのに「真」を
用いて「真城(マネサシ)」(真倉)といい、 これが後に相模の枕言葉になったものである。