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司馬遼太郎が恐れた誤解と弊害 映像化を断り続けた「坂の上の雲」
100年をたどる旅~未来のための近現代史~
別宮潤一2024年12月31日 6時00分 朝日新聞デジタル
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■デモクラシーと戦争⑦ 物語が「劇薬」になるとき
明治期の日本を描いた司馬遼太郎(1923~96)の「坂の上の雲」は発行部数2千万部を超すベストセラーになった。
にもかかわらず、司馬は生前この小説の映像化を断っていたという。幕末を描いた「花神」「燃えよ剣」など、他の作品とは異なる対応だった。
作品のハイライトは日露戦争だ。司馬は、明治政府が創設した陸海軍を「人口5千ほどの村が一流のプロ野球団をもとうとするようなもの」と表現した。そんな日本海軍が、強大なバルチック艦隊に「完全以上の勝利」を収めて物語は終わる。
小説が書かれたのは、1970年前後の高度成長期。再び「坂の上」をめざす人々を元気づける英雄物語として、あるいは昭和の敗戦とは異なる明治の叙事詩として、あるいは会社組織の中でのふるまいを考えるビジネス読本として読まれた。
「小説の連載中から、テレビ局や映画会社から映像化の提案が続々あった。他作品は演出にもこだわらなかった司馬が、『坂の上の雲』は全部断っていた」。司馬の義弟で、司馬遼太郎記念財団理事長の上村洋行さんはそう振り返る。なぜだったのか。「司馬は『誤解』されることを懸念していた。単なる戦争ドラマにされると」
(※以上、無料部分から引用は引用。)