24/11/18 18:41:48.04 Wu+x8OgI0.net
「性被害を訴える女性に対して疑惑の目を向けられるのは人でなしだけだろ! 文春記者が女性達の訴えを信じたのは当然の事だ!」
と言う人がいるかもしれない。心情としては間違っていないと思う。
しかしながら、この社会のルールとしては、
「ああいう記事を書きたいならば文春には女性達の訴えを十分に疑い検証する必要があった」という大前提がある。
そうじゃなければそもそも松本人志の訴えを裁判所は受理しないし、
文春だって「抜き打ちでホテルのレイアウトを描かせてテストしたよ」なんてアピールはしない。
でもこの文春のアピールしてる検証って、「A子と松本人志が他人である可能性」の検証なんだよな…
「A子が嘘をついている可能性を疑いなさい」と言われたらフツーは10人が10人、
「A子と松本人志の間に何らかのトラブルがあり、
しかしA子は自分が松本人志を恨む理由を正直に申告しても松本人志に大したダメージを与えられないと考え、
実際よりも話を盛った、全く違う架空の話を創作した、またはこれら2つのどっちとも言えるようなこと等…」
という可能性をより重視する筈なのに、文春がこの可能性について検証したという話は寡聞にして聞かない。
そりゃあ、巧みな嘘を見抜くのが難しいのは分かりますよ?
「嘘を嘘と見抜ける人しか雑誌を作るな」とは言いませんよ?
だからって、
「嘘である可能性のうちの、本命扱いすべきですらないほんの一要素を検証した」=「真実相当性の検証が済んだ」
って事になるの?
書かれる人たちからしたら、怖過ぎない、そんな社会?