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10/5 Rolling Stone Japan
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音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。(※中略)
■「イムジン河」の誕生秘話
イムジン河 / ザ・フォーク・クルセダーズ
田家:もともとは1967年10月に発売になったザ・フォーク・クルセダーズの自主制作盤『ハレンチ』の中に入っておりました。松山さんには以前、この番組の前に1回お話を伺ったことがあって、朝鮮中高等学校へサッカーの試合を申し込みに行ったときにこの曲を聴いたと。
松山:そうです。京都だけじゃないと思いますけど、結構朝鮮学校の子と日本人の学生は喧嘩ばかりしていましたから、なんとかしたいなと思って。担任だった原田さんという先生となんかいい解決方法はないでしょうかねって話をしていて。彼らはサッカーが強いから親善試合みたいなのをしたらどうかなという話になり、僕が申し込みに行ってきますという感じで行ってきたんです。そのとき帰り際にコーラス部が練習しているのが聴こえてきた。
田家:その歌を九条大橋でトランペットを一緒に吹いていた朝鮮の中学の人に楽譜をもらったという話がありましたね。
松山:僕がトランペットでムンくんという朝鮮中学校の人はサキソフォンを吹いていた。お互いに家で練習をすると、近所にうるさいって言われるから橋の上に彼も来て、僕も行って。で、自然と付き合いが始まって、気になる歌を聴いたんだけどってメロディを歌ったら、それは「イムジン河」って今学校で歌ってますって。気になるんだったら彼の妹がコーラス部なので、譜面をもらってきてあげるって言って、楽譜と歌詞が書いてあるものをくれたんです。
田家:その楽譜がすべてだったわけですもんね。
松山:そうです。朝鮮語小辞典というのも彼がくれたから、訳してみたりしていたんです。(※中略)
■最初はトーキング・ブルース風のゆるいナンバーだった「帰って来たヨッパライ」
帰って来たヨッパライ / ザ・フォーク・クルセダーズ
田家:これがラジオ関西で流されて話題になって、聞きつけたニッポン放送の方、パシフィック音楽出版の方が行かれてプロデビューになっているわけですもんね。
松山:300枚出てたんだけど、北山くんが想像していたより誰も買ってくれなくて。彼は親父に借金したものだからラジオ局とか訪ねて歩いてお願いをして。その中のラジオ関西の女性のディレクターの方が。
田家:はい、高梨ディレクター。
松山:おもしろがってくれて、どんどんかけてくれるようになった。(※中略)
田家:この「帰って来たヨッパライ」はそもそもが松山さんのお宅のおこたでできたという話がありましたよね(笑)。
松山:京都の町家でね、僕ら台所っていうリビングルームですね。そこにこたつがあって、加藤と僕に自分たちの歌作ったら?って言ってくれたのは、加藤さんの最初の奥さんの福井ミカちゃんだったんですね。最初はトーキング・ブルース風のゆるいナンバーだったんです。最初作っていたときはね。それが彼らの練習場所で北山が入ってきて、やっているうちにどんどんおもしろいものになっていって僕は途中経過を知らないからレコードになって聴いてびっくりした(笑)。僕が一番最初にびっくりしたんじゃないですかね。
田家:トーキング・ブルースは2人で歌いながらお作りになったんですか?
松山:歌いながらというか。
田家:詞を書きながら。
松山:そうそう、書いて、加藤がメロディを作ってっていう感じで。
田家:加藤さんに福井ミカさんを紹介したのも松山さん?
松山:逆、逆(笑)。福井ミカが加藤を紹介してくれた。ミカちゃんは京都の郊外、東山の近所に引っ越してきて、ミカの家のすぐそばに僕の当時大親友だった田中くんというのがいて、おもしろい姉妹が引っ越してきたぞとか言って知らないうちに仲間みたいな感じになって。ボーイフレンドができたって言うから、見せろ見せろって福井家に行ったら、福井家のおこたのところに加藤くんが座っていて、横にマーチンのギターがあって、京都でマーチンのギターなんか持ってるやついなかったから、当時。すごいギター持ってるなと思って。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)