【サッカー】“解任を14回も味わった”呂比須ワグナー52歳「精神的に立ち直るのに2年かかった」 ガンバでの挫折後も監督業を続けるワケ [愛の戦士★]at MNEWSPLUS
【サッカー】“解任を14回も味わった”呂比須ワグナー52歳「精神的に立ち直るのに2年かかった」 ガンバでの挫折後も監督業を続けるワケ [愛の戦士★] - 暇つぶし2ch1:愛の戦士 ★
22/01/14 12:12:40.65 CAP_USER9.net
NumberWeb 1/11(火) 11:01
ブラジルから帰化を選択し、日本サッカーに貢献した人物は多い。その代表格の1人が呂比須ワグナー。フランスW杯の日本代表に名を連ねたストライカーは指導者になって以降、紆余曲折のキャリアを歩んでいる。そんな彼に現状、そして岡田武史監督時代、中田英寿らとともにプレーした現役時代の秘話を聞いた(全2回/後編も)
 一見、柔和な紳士。しかし、実はかなり泥臭い。温室育ちのエリートなどでは全くない。ブラジル・サンパウロ州の内陸地で育まれた雑草だ。
 呂比須ワグナーは18歳で地球の反対側へ渡り、苦労の末、“ジャパニーズ・ドリーム”をつかんだ。しかし現役引退後、指導者としては浮き沈みの激しいキャリアを送ってきた。
父親が落雷で急死、母親も子供たちも働いた
 まずはあまり知られていないであろう、彼の人生を振り返っていく。サンパウロ州フランカで、8人兄弟の末っ子として生まれた。4歳になる10日前、父親が落雷で急死。一家は完全に打ちのめされた。しかし、生きなければならない。母親が学校の給食調理員として働き始め、子供たちも働いて家計を助けた。
 ワグナー少年も、小学校から帰ると、自宅で靴のソールを接着剤で貼り付ける内職を数時間。その日のノルマを達成すると外へ飛び出し、近所の子供たちと夢中でボールを蹴った。
 地元のアマチュアチームに入ったが、週日は練習に参加できず、週末の試合にだけ出場した。15歳で名門サンパウロのアカデミーの入団テストを受けて合格。スタジアムの内部にあった選手寮に住み、ホームシックで涙を流しながらもプロになる夢を追った。
 17歳でトップチームに昇格したが、ブラジル代表のカレッカ、ミューレルら錚々たるアタッカーがおり、試合に出場できるのは彼らが故障したときか、代表に招集されて不在のときくらい。
加茂周監督に言われた「成功したかったら日本語を」
 1987年、チームメイトの元ブラジル代表CBオスカールが日産へ移籍することになり、彼の推薦で一緒に日産へ。加茂周監督に「日本で成功したかったら、日本語を覚えろ」と言われ、それを実行した。柏レイソル、ベルマーレ平塚、名古屋グランパスなど計7クラブで16年間プレーし、リーグ戦(アマチュア時代を含む)で349試合に出場して239得点。往年の名ストライカー釜本邦茂の202得点を超えた。
 日本での生活に馴染み、1992年に長男が生まれると「家族全員で日本人になりたい」と考えて帰化を申請。5年越しで国籍を取得した。すぐに日本代表へ招集され、1998年ワールドカップ(W杯)のアジア予選、そしてW杯に出場。ジャマイカ戦で中山雅史の日本代表W杯初ゴールをアシストした。
 2002年末に現役を引退し、指導者の道へ。2005年、サンパウロ郊外の小クラブ、パウリスタのコーチとなった。2007年に胆石の手術をして入院生活を送った後、2010年、パウリスタのコーチに復帰して監督に昇格し、2011年、コパ・パウリスタ(サンパウロ州の中堅クラブを集めたカップ戦)で優勝した。
 そして2012年、ガンバ大阪の監督に招聘された。
 S級ライセンスを取得しておらず、ブラジル1部での指導経験もなかったため、日本サッカー協会(JFA)は彼の監督就任を認めなかった。そこで、若手時代の恩師ジョゼ・カルロス・セホーンを監督に据え、自らはコーチとして彼を補佐するという窮余の策を用いた。
 だが、前任の西野朗監督から戦術を大きく変えたことが裏目に出る。セホーン監督との二頭体制も混乱を招き、わずか5試合(Jリーグ3試合、アジアCL2試合)、2カ月足らずで監督ともども、解任された。
※続きはリンク先
URLリンク(news.yahoo.co.jp)
インタビューに応じてくれた呂比須ワグナー photograph by Hiroaki Sawada
URLリンク(i.imgur.com)


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