20/12/19 14:42:39.89 CAP_USER9.net
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エレファントカシマシ
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宮本がボーカルとギター、そして作詞・作曲を担うバンド、エレファントカシマシは1994年のアルバムを最後に、いったんレコード会社との契約が切れた。
眉間にしわを寄せて言う。
「やっぱり、その頃から意識し始めた。売れなきゃ話にならないって」
結成は81年。中学の同級生である石森敏行、冨永義之、そして冨永の高校の同級生、高緑成治が加わり、86年には現在の4人になった。
力強いロックサウンドに、熱いボーカル。
レコード会社のオーディションで入賞するなどし、88年、バンドはメジャーデビューした。
「鳴り物入りだった」との言葉通り、同年秋には、注目の若手バンドとして読売新聞の紙面にもその名が登場する。
だが、人気は定着しなかった。客席を暗くせず、明るいまま公演を行うなどの、奇をてらった面が目立ったのかもしれない。
「レコード会社の人も事務所の人も、私たちの音楽が好きだったし、こいつらを売りたいと思ってくれた。熱いファンもいて……」。
しかし、そんな彼らの思いに「私が応えきれなかった」。
契約終了。絶望も覚えた。
結婚し、家庭を持ったメンバーもいる。
「まだ修業だ。全然力を出していないから」と自分に言い聞かせた。
けれど、屈託なく楽しそうにしている若者を町で見かけると、夢破れた自身と対比してしまう。
「冗談じゃないよ」と涙があふれた。
「あんたも、もうちょっと分かりやすい曲作れば良かったのにね」。
年末、テレビを見ながら親類が明るく言った。
「両親もおばちゃんもみんな、売れ線のものを歌えってさ。でも僕らまだ若かった。次の音楽的な道筋も見えて来てたんだ」
考え方を変えた。斜に構えるかっこよさは横に置き、ヒットを飛ばす歌手らの曲を聴きあさった。
小沢健二やスピッツ、Mr.Children……時代の主流の音を吸収し、力を蓄えていった。
新たなレコード会社との契約にこぎ着け、96年に「悲しみの果て」をシングル曲として発表。
「涙のあとには 笑いがあるはずさ 誰かが言ってた」と、苦しみの中でこそ見える希望を素直に歌い、多くの人の心をつかんだ。
リリース前、東京・下北沢のライブハウスで披露した。
客は約50人。皆が真剣に聴き入るのを実感した。
バンドは、ライブハウスでたたき上げたのではなく、オーディションからパッと世に出た。
だから、「肌身で触れ合う感覚。すごく新鮮な、でも当たり前で健康なロックバンドの姿を、我々はやっとそこで獲得できたんだと思う」。
ここが「再デビュー」地点になった。
そして翌97年には「今宵(こよい)の月のように」が初めてシングルチャートでトップ10入り。
ファン層は拡大し、人気は確固たるものになっていく。(池内亜希)