【話題】政権批判おじさん #ラサール石井の正体とは何者なのか? [牛丼★]at MNEWSPLUS
【話題】政権批判おじさん #ラサール石井の正体とは何者なのか? [牛丼★] - 暇つぶし2ch1:牛丼 ★
20/09/19 05:38:47.95 CAP_USER9.net
ラサール石井と言えば、近年ではツイッターで政権批判を繰り返していることで知られている。若い世代では、彼がもともと芸人であることを知らない人も多いのではないか。
鹿児島の名門であるラ・サール高校の出身であることからその芸名がつけられたインテリ芸人の先駆けとも言える存在であり、クイズ番組でもインテリ枠として長きにわたって活躍してきた。ビートたけし、明石家さんまらに並ぶ「お笑い第二世代」の数少ない生き残りの1人である。
そんなラサール石井とはそもそも何者だったのか? 彼のこれまでの歩みを簡単に振り返ってみることにしたい。
ラサール石井は1955年、大阪に生まれた。子供の頃からテレビや演芸が大好きだった。ただ、クラスで一番の人気者というわけではなく、その脇にいて茶々をいれたりするのが得意だった。
明るくて面白い人はほかにもたくさんいるので、自分は芸人ではなく放送作家を目指そうと決めていた。放送作家でタレントでもある青島幸男が当時の彼の憧れだった。
高校受験のとき、地元のナンバーワン進学校である灘高校に落ちてしまい、鹿児島のラ・サール高校に通うことになった。そこから東大を目指したが、親元を離れて勉強への集中力も薄れてしまい、結局は早稲田大学に進学した。
大学では、ミュージカル研究会に所属して脚本・演出・出演を務めながら、バイトで放送作家の仕事もやっていた。そんな日々の中で、劇団『テアトル・エコー』養成所の1期生募集の貼り紙を見かけた。「1期生」という響きに可能性を感じたラサールは、これに応募して養成所に入った。
そこに1年遅れて入ってきたのが渡辺正行と小宮孝泰である。彼らは芝居の練習のつもりで自主的にコンビを組んで、コントを演じたりしていた。ラサールは仲間に入れてくれと頼み、ここに「コント赤信号」が誕生した。
その後、渋谷の道頓堀劇場というストリップ劇場から声がかかり、プロとして正式にデビューすることになった。とはいえ、仕事はストリップの司会と、幕間でコントをやることだけ。あとは裏方の手伝い、師匠の世話などの地味な仕事ばかりだった。
カネはないけど自由はある気ままなストリップ暮らしを楽しんでいた3人の若者は、そこから大きな時代のうねりに巻き込まれていくことになる。1980年に始まった漫才ブームである。
フジテレビの漫才番組『THE MANZAI』がヒットしたのをきっかけに、新しい若手漫才師が次々に現れて、瞬く間にスターへの階段を駆け上がっていった。コント赤信号は漫才ではなくコントが専門だったが、このブームに乗って人気演芸番組『花王名人劇場』に出演。それから事務所にも所属して、テレビの仕事がどんどん増えていった。
ただ、2年足らずでブームが収束すると、そこからはコンビではなく個人の時代になっていた。ビートたけし、島田紳助など、漫才ブーム出身者も個の力を存分に見せつけ、コンビ単位ではなく個人でバラエティに出るようになっていた。
コント赤信号もネタ番組の減少と共にコントを披露する機会もなくなり、個々人での活動が増えていった。ラ・サール出身のインテリというキャラクターのあるラサールは、特にバラエティ出演の機会が多かった。昔も今もインテリキャラはテレビでは重宝される。「ラサール石井」という芸名が正式に決まったのもこの時期のことだ。
 ★続く
URLリンク(news.yahoo.co.jp)


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