20/02/23 09:34:18 2D89fFBD9.net
【名将・野村克也 ボヤキの内幕】最終回
初めて沙知代夫人と会ったのは1995年、神宮の室内練習場だった。彼女は港東ムースというリトルリーグのオーナーを務めていた。
野村監督は時間があれば顔を出す。連れだってリトルの練習を見ていたときのことだった。
沙知代さんが「ちょっと」と保護者のひとりを呼んで、こう言った。
「あのひとに言っといて。子どもをぶつな、って。でなきゃクビにする。子どもをぶっていいのはあたしだけなんだから」
選手を殴ったコーチが許せなかったのだ。
遅れてきた息子の野村克則氏が隣に座った。当時、明大の4年生。11月のドラフトでヤクルトから3巡目指名、プロ入りが決まっていた。その克則氏に、つい心構えなどを話した。
父親が偉大だから、などとアドバイスしたのだが、話の途中で黙って消えた。しばらくして両親も消えた。
■「あなた、息子に何言ったの?」
練習場の外へ呼び出されて沙知代さんに言われた。
「あなた、息子に何言ったの?」
克則氏は、私に苦言を呈されたと受け止めたらしい。監督は「あの子は優しい子やから」と言ったが、母親は動物的な感覚で息子に愛情を抱いている、と思った。
ヤクルトの監督を辞めた後、監督に電話した。お手伝いさんが伝言して、自宅へ電話が来たのは午前3時すぎだった。
「野村ですけど、林さん何のご用? ちょっと出かけてたのよ」
沙知代さんだった。用件は監督への本紙評論家要請で、後日、正式に書面を送る、と決めたのも沙知代さんだった。
■自分にない強さ
沙知代さんはすべてを仕切った。オーナーなんだから私の好きなようにやる、母親だから息子をかばう。亭主を動かすのは私の役目。女王のように振る舞って、監督とは対極にいる人だった。
テレビに出るようになって言動は過激さを増し、経歴詐称、脱税という勇み足まで踏む始末だった。
しかし監督は、それを「自分にはない強さ」と見ていたように思う。
野村監督はコンプレックスの強い人だった。自分にはないというコンプレックスが、強ければ強いほど成功へ近づくことを知っていた。
野球で成功するのに必要だったコンプレックスを野村監督、人生の伴侶にも求めたのではなかったか、と思う。
「野球はアタマでやる」という理論派の人が、その昔「女のために野球を捨てる」と覚悟したほど、沙知代さんは、野村克也にとって唯一無二の存在だったのだ。
「対照的でしたけど、いいコンビだったと思います」と克則氏も言った。
時計の振り子が等間隔で振れるように、ふたりは人生の時を刻んだ。
「死ぬのも悪くないよ。サッチーさんに会えるんだから」と、監督の言葉が聞こえるようだ。 =おわり
(林壮行/元 日刊ゲンダイ運動部長)
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)
2/23(日) 9:26配信