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17: 用心棒
2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN 0 AAS
■浜松抗争(昭和23年)
服部組vs朝鮮人グループ
服部組は別動隊も組織していて、マーケットの抗争とは別に朝鮮人側の総指揮官を狙うべく、そのアジトを片っぱしから襲撃した。
だが朝鮮人側の総指揮官は、とっくに逃げていたので、別動隊もマーケットへ合流し攻撃に加わった。
普段から朝鮮人グループの横暴に反感を持っていた日本人商店主達(カタギ衆)も、遠巻きから服部組を応援した。
当初は、両者とも五分五分の戦いであったが、朝鮮人側が総指揮官が逃走して統制が取れてなかった。
逆に日本人側の怒りに燃えた決死の勢いは止まらず、朝鮮人側を追いつめていき、夜11時過ぎに抗争は終息した。
この戦闘で、日本人側は死者1名、朝鮮人側の死者数人、両者とも数百人の重軽傷が出たとされる。
翌日、両者ともに新しい応援部隊が到着しており、2回目の抗争が始まろうとしていた。
管轄の浜松市警は鎮圧を試みるも、当時は警察官が200人しか居ないので手に追えず、
米軍の岐阜軍政部に非常事態を報告、MP(ミリタリーポリス)の出動を要請した。
米軍から400人のMPが出動して殺気立つ両者を抑え込んだので、第二の市街戦は回避された。
この事件後、逮捕や怪我をした服部組の組員達の為に「浜松市民」が50万円のカンパを集め、服部組へ贈った。
※当時の大卒初任給が3000円の時代なので、今で言うと数千万規模のカンパが集まった。
その金額の大きさから見ても、カタギの日本人商店主や浜松市民は、服部組にかなりの感謝していたと思われる。
その後の服部組は、襲撃を受けた小野晴義組長が引退して、政界へ進出した。
服部組の四代目は、マーケットで突撃隊を率いた板垣菊次郎が襲名した。
事件から18年たった昭和41年、浜松市民は服部組に解散を求める住民運動を起こした。
初代服部組・服部冶助組長や歴代の組長達もその要求に応じ、服部組は正式に解散した。