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>>135のつづき
また、和夫は近くに行き場のない孤児がいると、連れ帰って面倒を見ていたが、
その数は、一人、二人と増え、四、五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。
けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、自ら喜んで彼らの父、母を称した。
和夫の家族は、ふだん、このように朝鮮人を愛し、日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。
しかし、彼らは、日本の天皇が降伏宣言をした一九四五年八月十五日、
自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害されたのだ。
その日、まさに万歳の声とともに、太極旗が波のように風になびきつつ、
朝鮮人の世がやって来た。神は、自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと、和夫君に嫉妬したのか?
彼がわが子のように育て、東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に、彼の家で教育を受け、
育ち、成人した青年たちが、斧と鍬、スコップを手に、和夫のもとに押しかけた。
そのとき現場にいた金ソンス君は、次のように証言している。
和夫:(穏やかな目で)なんでこんなことを、子どもたちよ。
A:チョッパリ! 日本へ失せろ、失せちまえ。
和夫:(怒ったような声で)私が、お前たちにどんな間違いをしたというんだ。
お前たち、みなが私の息子だ。私はこの家の家長であり、お前たちの親だ。
お前たちの祖国が解放されたことは、私もふだんから待ち望んできたことだ。
踊りでも踊りたい気分の日に、なんだって凶器をもって私の所に詰めかけたりするんだ。
私は決してお前たちをそんなふうに教育したおぼえはない。(涙を流しながら)ほんとうに悲しいことだ。
朝鮮の息子たちよ。私が愛を傾け、育ててきた結果は、
つまるところ日本人と朝鮮人は融和できないということなのか。お前たちが望むなら、帰ってやるわ。