13/12/03 09:52:48.33 7jPgdX/X0 BE:276042825-PLT(12001) ポイント特典
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兵庫県伊丹市立博物館は2日、戦国武将、荒木村重(道薫)に幽閉された黒田官兵衛が、後に村重に
送った書簡の写しが見つかったと発表した。織田信長に謀反を起こした村重の説得に訪れた官兵衛は
1年間幽閉された。それから4年後の手紙だが、文面からは親しげな関係がうかがえ、研究者は
「幽閉は過酷なものではなく、2人は変わらずに親しい関係だったのでは」と分析している。
同館によると、今年10月、伊丹市の郷土史家が1936年発行の「茶道全集」に書簡の内容が掲載されて
いるのに気付き、同館が京都市上京区の相国寺光源院で書簡を確認した。
村重は伊丹にあった有岡城の元城主で、官兵衛とともに織田信長に仕えた。1578(天正6)年、村重は
信長に謀反を起こし、説得に訪れた旧知の官兵衛を有岡城に幽閉。1年後に城を捨てて逃れ、官兵衛は
解放された。書簡は本能寺の変で信長が討たれた翌年の1583(同11)年に書かれた。
当時、官兵衛は秀吉の配下で、茶人となっていた村重は茶道を通じて秀吉との関係を深めていた。
書簡は、村重から光源院の領地問題の相談を受けた官兵衛が返書を出し、これを村重が書き写し、
交渉が順調だと伝えるために光源院に送ったものとみられる。
「秀吉様のお考えどおりに間違いのあるわけがありません」と秀吉をたたえる言葉や「姫路へのお供を
されるのであれば、この地へお出(い)でになるだろうと存じていたところ、お出でになられず、とても残念」
と再会できなかったことを惜しむ文がつづられていた。
神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)は「文面からは遺恨は感じられない。茶人となった村重が
政治に関与し、秀吉の下で力を合わせて政策を実現しようとする2人の関係を示す貴重な資料だ」と
評価している。【幾島健太郎】
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