16/01/03 23:40:33.66 CAP_USER*.net
野球界の12月、1月はなにかと会合が多い。
優勝したチームの祝勝会もあれば、長く指導者として活躍したのち勇退する“大御所”の送別会もあり、
やはりシーズンオフだけに、プロ・アマチュアを問わず選手の結婚式もあちらこちらで行なわれる。
先日、あるお祝いの会に出席した時のこと。
型どおり主賓、来賓の祝辞が終わり、おめでたく「カンパーイ!」のコールも盛大に、
「それでは、しばし、ご歓談を……」となったところで、会場に詰め掛けていた選手たちが、
いっせいにテーブルに並べられたパーティ料理に群がった。
たくましい体格の学生服姿が、料理を覆い隠すようにテーブルの周りを埋め尽くしている。
祝福に訪れたお客さんたちは、その様子を遠くから眺めて苦笑するばかりだ。
「おいおい、それは違うだろ……」
私のうしろのほうからそんな声が聞こえた。もっともだと思った。それは“逆”だろうと思ったのだ。
祝勝会は彼らが勝ち取ったものなのだから、頑張った彼らに食べさせてあげようよ。そんな寛大なお考えもあろう。
それも確かに一理ある。
しかしこの日のお祝いは、祝福をしに足を運んでくださった方たちが“ゲスト”であって、
それを迎える選手たちは“ホスト”。つまり、おもてなしを行なう立場と考えるのが、世の「社会通念」というものであろう。
そのことを若者たちに知らしめるチャンスにしたほうが、この会をさらに意義深いものにできたような気がしている。
マナーを教える“大人”の存在。
以前、同様の趣旨のお祝いの会に伺ったことがあった。
その時は、当事者の選手たちがまず祝福に駆けつけたゲストたちの中に知った顔の先輩、知人を見つけ、
「今日はお忙しい中を、わざわざありがとうございました」と謝辞を伝えて懇談し、パーティがなかばになり、
ゲストたちの飲食がほぼ落ちついたところで、チームの指導者の一人がさりげなく指示を出し、それを合図に、
選手たちがあまり目立たないように残った料理の“おすそ分け”をいただいていた。
もちろん、選手たちが自らの立場を察して、自発的にそのようにしたわけではない。そのような立場の区別を、
当然のマナーとして選手に教えた“大人”がいて、それに選手たちがならったものである。
優勝も立派だったが、今日の彼らの態度のほうが、むしろ数倍立派だな……。
彼らの勝利を心からお祝いする気持ちが湧き、その日は本物の「祝勝会」になった。
「野球部」という閉鎖的な社会で生きている。
ひるがえって、今回。
誰も教えていないんだな……。
せっかくのお祝いの席に立ち会いながら、ガサガサッとした心持ちに陥ることを禁じえなかった。
まだ二十歳(はたち)前後の彼らに、そこまでわきまえよ! と責めることは酷であろう。自分の学生時代を
振り返っても、おそらく、先頭に立ってテーブルに飛びついたほうであったろう。
むしろ、そうした世の当然のつつしみを、せめて主将の耳にさりげなく伝え、そこから部員全体にサワサワと
広がっていくような、その程度の対応を示唆できる大人がいなかったことが悲しい。
日ごろ、「野球部」という極めて狭く閉鎖的な社会でしか生活していない選手たちが、広く、そして末永く
世の中で通用するモノの考え方を獲得するべきせっかくの機会を逸したことに、“ひとごと”ながら痛恨の思いがしたものだった。