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今年のナビスコ杯決勝(10月30日)でG大阪を下した鹿島。強いアントラーズを思い出させてくれる一戦だった。
ジーコが来日した時、鹿島アントラーズはまだ存在せず、住友金属工業蹴球団だった。
「オレは口で百のことを彼らに言うより、行動でプロとは何かを示す。そう判断した」と言い、こう続けた。
「日本サッカーがプロリーグになる。そこで現役復帰することがこれからの自分の人生にも役立つと考えたから、
日本に来た」
1990年2月6日、現役引退試合となったフラメンゴ対世界選抜で花道を飾ったジーコは当時、
メロ大統領の要請で大統領府体育局長の任に付いていた。今の日本でいうスポーツ庁長官の役職である。
91年4月、住金のオファーを受けると同職を辞任。5月20日にサンドラ夫人とともに来日した。38歳の時だ。
まだアマチュアのクラブに、まず「基本は楽しく」と植え付けた。日本サッカーリーグ(JSL)2部が始まる前の
3カ月間は一切ボールに触らせず、フィジカルトレーニングのみ。約10メートルのパスでも「30センチずれている」
と指導するなどして、今のアントラーズの基礎をつくった。
鹿島については、先月来日したOBのレオナルドもよく話題にする。「勝負事は負けることもある。
でもアントラーズらしい負け方というのがある。伝統的な魂がまったく感じられない試合など1試合も
見たいと思わない」
レオナルドはイタリア、セリエAのACミラン副会長当時、「今の(不振の)アントラーズは見ていられない。
だから真剣に短期間の現役復帰を考えようかと思っている。ミランのフィジカル・コーチに個人的に
頼めばなんとかなるかもしれない」と本気で鹿島での現役復帰を考えたことがあった。
さすがに実現しなかったが、鹿島の若手たちにアントラーズ・スピリットを注入したいと本気で思った
レオナルドの情熱には頭の下がる思いだった。
今回のナビスコ杯優勝で小笠原主将は「ジーコも40歳までやっていた。まだまだ若い選手には負けない」
とコメントしたという。ジーコの思いがレオナルドを経由して小笠原に受け継がれていることを確信した。
(元日本代表通訳・鈴木國弘)
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「PENSAMENTO POSITIVO」(ペンサメント ポジティーボ)はポルトガル語で「ポジティブシンキング」
「頑張れ」の意。ジーコがよく色紙に書く言葉の1つ
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