15/01/29 18:13:09.12 *
爆笑問題が「NHKで政治ネタをボツにされた」と告発した問題は、結局、太田光が「政治ネタをやらないというのは、
打ち合わせの段階で僕らは了承している」「言論統制なんてない」と釈明したことで一件落着となった。
しかし彼らは1月7日放送のラジオで「今回、NHKで政治家さんのネタがあったんだけど、全部ダメっちゅうんだな。
あれは腹立ったな」(田中裕二)「テレビ局の自粛というのはあります」(太田光)とはっきり発言していたはずだ。
それが一転して、「言論統制なんてない」「ルール違反は俺ら」とNHKをかばう発言。
しかも、籾井勝人会長とも「イベントで会って握手した」などと仲の良さをアピールしたのである。
この“大人の対応”にはガッカリしたファンも多かったのではないだろうか。あの過激な太田がなぜ、と。
だが、考えてみれば、彼がこんなふうに日和るのも無理はないのかもしれない。
太田光が過激だったのは昔の話。この毒舌芸人は10年近く前、ある事件を境にして、決定的な「転向」をとげているのだ。
それは、2006年のことだった。当時、太田は今とは比べ物にならないような過激な政治的発言を連発していた。
雑誌連載や単行本、さらにはラジオで、憲法や教科書問題、靖国神社などに踏み込み、右傾化の風潮を徹底批判していたのだ。
それまでも、ビートたけしや松本人志など、カリスマ的人気を得たお笑い芸人が活字で社会問題を語るということはあったが、
彼らはイデオロギーがからむ問題には触れなかったし、社会批評ではむしろ空気におもねって
戦後民主主義的価値観をちゃかすことで、「過激」という称号を得ていた。
ところが、太田は逆。たけしや松本が否定した、愚鈍で格好悪いはずの平和や人権、平等といった戦後民主主義の擁護役を買って出て、
時代の空気に真っ向から対決しようとしていた。
とくにすごかったのが、「TV Bros.」(東京ニュース通信社)の「天下御免の向こう見ず」という連載だった。
この連載の中で太田は、たとえば、9.11以降、繰り返される「テロに屈しない」という言葉に対し、こう反旗を翻している。
「テロに屈しないとは、言い換えれば“殺されても良い”そして“死んでも良い”ということだ」
「私にはそんな覚悟はない。アメリカの始めた戦争に付き合って殺されるのはまっぴらである」
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2015.01.20.
2:砂漠のマスカレード ★@転載は禁止
15/01/29 18:14:20.06 *
「我々は、歴史を誇れるものも、恥ずべきことも全てを、学びうる全てを学ぶべきだ。
こんな教育をしているのは日本だけであるという意見がある。(略)
私はその点において“特別な国”であると思う。そしてその日本の“特別さ”において他の国より誇りを感じるのだ」
「張作霖事件、満州事変、盧溝橋事件と、目を背けたい事件はたくさんある。しかしこれを知ることで私達は人間の恐ろしさの可能性を知ることが出来る」
歴史認識についての中国や韓国の抗議を「内政干渉」とする国内の意見についても、正面きって批判していた。
「かつて日本人として戦場に行かされた人々がいる。皇民として生きることを無理矢理強要され、自分の国の言葉を奪われ、名
前を奪われて戦場に行かされた人々がいる。
その人々にとって日本の歴史は自分達の歴史であることに間違いはない。
(略)自分の都合の良い時だけ、お前達は日本人であるとして、都合が悪くなると、外国人が干渉するなというのは、あまりに身勝手ではないか」
そして、日本国憲法については、「人類が行った一つの奇跡」と敢然と擁護したうえで、こう言い切ったのだ。
「私に愛国心があるとすれば、それはこの国の“この国は戦争をしない国であると、世界に宣言している部分”に注がれる」
こうした政治、社会問題へのアプローチを一部のマスコミも高く評価し、中沢新一との対談『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)出版も決定。
朝日新聞のインタビューシリーズ「私と愛国」の第1回に起用され、06年5月からは『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』(日本テレビ)という政治バラエティも始まった。
ところが、そんな矢先に事件が起きる。太田の事務所に、長崎市長銃撃事件(1990年)を起こした右翼団体の幹部が抗議に訪れたのだ。
太田がTBSラジオで「アジアへの謝罪のため靖国神社は破壊すべき」という発言をしていたとし、
「真摯なる回答を求める」という抗議文を手渡したという。事務所は警察にも相談。
警視庁が事務所に警備員を常駐させるように要請し、太田にも護衛をつける事態となった。
この問題については、太田側が抗議にあったような発言をしていないということで沈静化したが、
その後、複数の右翼・民族派団体が太田の事務所に対して、その政治的発言に対する抗議文を送付する事態にもなっていたという。