14/12/25 18:33:51.59 0
(前略)
その舞台となったのは、ほかでもない、新年合併号からセンセイの連載が始まるという『週刊文春』だ。
事情を知る文藝春秋関係者が語る。
「実はたかじんが亡くなった直後から、さくらの素性に疑いを持ち、いち早く報じてきたのが、いまや百田さんの
“広報誌”と化してしまった『週刊(文春)』(文藝春秋社内では月刊『文藝春秋』と区別するためにこう呼ばれる)でした」
『週刊文春』は、たかじんがガンで再休養していた13年末段階から「長期療養中やしきたかじん 再々婚した
32歳下一般女性の正体」(12月19日号)、たかじんの死後も「やしきたかじん『参列者5人』葬儀の謎」(14年1月23日号)、
「親族から噴出 やしきたかじん32歳下未亡人への怒り 遺骨を『マカロンみたい』」(同年2月6日号)と、
さくらの正体や、彼女と遺族との確執について詳報し、まさに独走状態だった。前出の関係者が続ける。
「そして『週刊』は、さくらに対するトドメの一撃として、昨夏のお盆休みの合併号に、たかじんの長女の手記を
掲載する予定でしたが、校了直前になって掲載が見送られたのです」
関係者によると、『文春』では、長女の手記を記事にまとめた後、最終的な事実確認のため、さくらが、たかじんの
生前から同居していた大阪のマンションを訪問。取材を申し込んだという。関係者がさらに続ける。
「ところがその直後に、編集部からストップがかかり、取材班は大阪から撤退。記事掲載も見送られたのです。
表向きの理由は『さくらと長女は現在、遺産をめぐって係争中で、法務(部門)が係争中の案件を記事にするのは
まずい、と難色を示した』というものでした。が、さくらと長女が遺産をめぐる係争中であることは企画段階から
分かっていた話ですし、そもそも『係争中』を理由に記事掲載を見送っていたら週刊誌など作れない。
編集部内でそんな“理由”を信じる者は誰一人、いませんでした。
これは後になって社内で分かったことですが、取材班がさくらに取材を申し込んだ直後、百田さんから新谷
(学『週刊文春』)編集長の携帯に直接、電話があったそうです。おそらく、さくらから依頼を受けてのことでしょう」
それ以降、『文春』編集部では「さくら」がタブーとなり、今や百田センセイの“広報誌”と化したことは前述の通り。
この記事潰し疑惑について取材班は『殉愛』版元の幻冬舎を通じ、百田センセイに確認したが、センセイは自らが
新谷編集長に電話を入れた事実も、さくらから記事潰しを依頼されたという事実も否定した。
冒頭に登場した大手出版社幹部が最後にこう語る。
「今回の騒動では、作家タブーを抱える週刊誌がネット民に完全に敗北したことが明らかになりました。
これも『殉愛』の数少ない功績なのかもしれません」
これら様々な出版社の“お家の事情”を白日の下に晒したという意味では、悪
評紛々の『殉愛』も少しは世の中の役に立ったのかもしれない(文中一部敬称略)。
全文はこちら
URLリンク(zasshi.news.yahoo.co.jp)
★1:2014/12/24(水) 18:57:40.71
スレリンク(mnewsplus板)