14/10/13 13:09:19.89 PONuuLiA0
仮死状態で生まれた貞治がその後もずっと病弱だったのに比べ、広子は健康優良児のようにすくすく育っていった。
ところが、健康なはずの広子が、わずか1歳3ヶ月で急死するのである。
1945年に戦争が終わり、登美と4人の子供は皆日本国籍を離脱し、中国国籍となった(なお、まだ中華人民共和国は成立していない時期である)。
登美の弟が皆戦死または消息不明となり、天涯孤独となった登美としては、自分を日本国籍でしばっておく必要がなくなったからである。
王貞治の日本国籍の時代はわずか5年間で終わった。
仕福の「五十番」は戦後大繁盛し、一時期は都内数ヶ所に支店を持ち、従業員も15名近くにふくれあがった。
王は、成功した華僑の家の末っ子として伸び伸びと育ち、中学生の頃には地域の野球チームの看板選手として有名になっていった(中学校には野球部がなく、やむを得ず卓球部に所属していたらしい)。
その頃、大毎オリオンズの荒川博が、出身の早実高校野球部のために有望選手をスカウトしていて、王も荒川の指導を受けた。
荒川のアドバイスで右打ちを左打ちに変えたのは有名な話である。荒川は、仕福を訪ねて、王の早実入りを打診した。仕福は断った。
華僑がこの厳しい異郷の地で生きていくには、医者になるか電気技師になるのが一番と仕福は考えていた。
王は予定通り隅田川高校を受験した。隅田川高校には野球部はなかった。本来ならここで王の野球人生は終わったはずだったのだ・・・・しかし王は不合格となった。
結果として王の早実入りが実現したのだから、人生はわからないものである。
早実野球部の王は、東京ローカルのエースから全国区のエースに飛躍した。
1年生夏にはもう甲子園の土を踏み、翌春の選抜では見事優勝を果たす。その夏にはノーヒットノーランを達成。
3年の春には打撃が向上し、2試合連続本塁打を放っている。その栄光の歴史の間に、王自身初めて味わう屈辱の大事件が起きている。
昭和32年の国体の高校野球で、早実が選抜されたとき、王だけ出場を認められなかったのである。「
出場は日本国籍を有する者に限る」という国体のルールに抵触したからであるが、それまで日本人と同様の意識で生活していた王にとってはショックであった。