11/07/21 10:46:05.95 JP1l9iw+0
当日の午後はたまたま半給をとっていて、一人暮らしの高齢の母と一緒に居た。
昼食を外でおいしいものを食べ、買い物をしている時に揺れた。
少しボケ始めた母と一緒にいたのはラッキーだった。
休みを取らず職場にたら、電話が繋がらず安否が確認できずにかなり心配したと思う。
揺れが収まった後、実家に急いで帰り、夜までニュースを観ていた。
15時半くらいは「東北の方達は普段の訓練を活かしてほとんど逃げているだろう」と思っていた。
しかし、16時前の名取川付近の津波の映像を見て、これはアカンと思った。
自分の想像を超えた映像だった。被災現場の人達も同じだったろう。
津波の先に避難して渋滞している車列があり、少しずつ動いているので人が乗っているのがわかった。
21時過ぎに自宅に戻る時は主要道路は大渋滞だったが、裏道は空いていて、
普段と同じ時間で帰ることが出来た。夜通しニュースを観ていたのは911の時と同じ。
野蒜地区で200人~300人の遺体、という報道には、
たくさんの死の予想が現実となって、超防災型東北人に対する私の一縷の希望を打ち砕いた。
東京の帰宅難民の様子を見ていて、火災が起こったら危ないなと思った。
数年前まで日本橋に勤めていたので、今も同じ場所に通っていたら、どうやって歩いて帰ったかを考えていた。
翌日は土曜出勤日で、何かあったら直ぐに帰るつもりで出勤した。
ほとんどの人間が車通勤の会社は、欠勤者はいなかった。
3年前に三陸を旅行した時に宿泊した田野畑村の羅賀荘は7階建の4.5階まで津波が来たとの由。
宮古の浄土ヶ浜パークホテルは高台にあったが故、津波には襲われず避難所になっているとの由。
一度、通りすがっただけだが、皆さんの御無事を祈った。それしか出来なかった。
直接の被災者ではない私の周りの人々にも、心身の体調を崩す人が続発した。
原発は余計な事故だった。あれは今回の震災でも防がなければならなかった。
あれを防ぐということが、人間の英知というものだろうと思った。
が、起きてしまったことは受け入れるしかなかった。
外国人が帰国するのは助かった。あんな時に、外国人をおもてなしする余裕がないからだ。
日本人は日本を離れるわけには行かないから、そういう覚悟はあった。
旧約聖書の「静かなることを学べ」という言葉と
ルソーの言葉で開高健さんが好んだ「それでも私は樹を植える」という言葉が、私の支えになった。