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>>43
網野善彦『歴史を考えるヒント』新潮社(2001年)
もともと列島東部では狩猟が非常に盛んであり、それを背景として東国には広大な「牧」が設定されていました。
ですから人々は家の厩のような身近なところで飼育された牛馬ではなく、牧場を飛び跳ねる野獣に近い馬と接していました。
東の王権、鎌倉幕府はその馬に乗って戦闘する武士の集団によって支えられていたのです。
それ故、東日本の人々は獣を殺し、その肉を食べることについて、
西日本の人々のように敏感ではなかったということが出来ると思います。
ケガレの問題については列島東部の社会が鈍感であると前に述べましたが、
その背景としてこのような社会の実態があったことが考えられるでしょう。
海津一朗『蒙古襲来』吉川弘文館(1998年)
殺生禁断の聖なる山や池で狩猟を行い、鶏・犬・鷹・馬などの諸禽獣を自在に操る関東武士の弓馬の実力は、
西国の住民にとっては【人知を超えた鬼神】として、畏怖と畏敬の対象となったのである。
北条氏が葦名頼連に期待したのは、高麗出兵への先兵としての類まれな武闘能力だったに違いない。
西国の各地に、頼連のような荒夷の手だれたちが、異国征伐の守護あるいは地頭として、移住してきたのである。