11/09/20 17:50:42.39 XWZ56WIz0 BE:3125635968-PLT(12001) ポイント特典
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古代の皇族の墓は、ほとんどが幕末まで、誰の墓がどこにあるのか分からなくなっていた。現在の陵墓は、幕末から明治初期にかけて文献や伝承などを手掛かりに、改めて位置や被葬者を指定したもので、
考古学や歴史学の調査・研究が進むにつれ、「指定は誤りが多く、見直すべきだ」との批判が強まっている。
ただ、誉田御陵山古墳については少し様子が違う。誉田八幡宮の存在から、1000年以上前から「応神陵」と認識されていたとみられている。古墳が、これほど古くから特定の被葬者と結びつけられて現代まで伝わっている例は珍しい。
では、研究者の見方はどうか。「そもそも応神天皇が実在したのか疑問だ」とする声がある一方、「これほど古くから『応神陵』とされているのだから本人の墓だろう」との見方もあり、議論が続いている。
陵墓への立ち入りが許可された祭礼は九州にも1例あるが、こちらは被葬者が指定されていない「陵墓参考地」。天皇陵への立ち入りという特別扱いが誉田八幡宮にのみ、認められているのはなぜだろうか。
実は江戸時代まで墳丘と周濠の間には橋が架かり、神輿は後円部の頂上にあった御堂まで渡御していた。江戸末期の神仏分離で橋や御堂は取り壊され、神輿が墳丘に渡ることはなくなったが、こうした史実に加えて
「永く応神陵を守護してきた歴史的経緯もあり、堤の上までの渡御を認めている」と宮内庁陵墓課は説明する。
ただ、周囲は最近何かと騒がしい。今年2月、考古学などの研究者が、宮内庁から初めて同古墳への立ち入り調査を許された。その範囲は渡御の神事と同じく堤の上に制限され、墳丘へ渡ることは認められなかった。
同古墳を含む百舌鳥・古市古墳群が昨年、世界遺産の暫定リスト入りを果たしたこともあり、文化財保護法の適用外とされている陵墓のさらなる公開や、国史跡への指定を求める声は高まる一方だ。
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