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1.僕が勤務していた小学校は、運動会の日は子どもたちも家族と一緒に校庭で弁当を食べていた。
でも、学校によっては運動会の日も給食を出し、子どもたちを教室に入れてしまうところも。
親たちは、子どものいなくなった校庭でさみしく弁当を食べるか、なかには一度家に帰って、また出直してくる人も。
2.子どもたちを教室に入れてしまう理由は、「親が来れない子が傷つくから」。
あとは、「弁当格差によって、パン1枚しか持たされない子が傷つくから」。
僕は前から言っているように、何でも傷つけないようにビニールハウスで囲い、
温室栽培をすることが教育ではないと思っている。
3.それぞれの資質や能力、容姿や家庭環境は生まれもったもので、その前提を変えることはなかなか難しい。
その「違い」を感じさせないよう、いくら学校が配慮しても、ビニールハウスが取り外された社会に出れば、
いくらでも傷つく機会がある。そのときまで気づかせないほうが、僕は無責任だと思う。
4.「私の家はお母さんが来れなくてさみしい」「あの子の家の弁当は豪華だから、うらやましい」。
もちろん、運動会にそんな苦い思い出を持つ人もいるでしょう。
だから、そう感じる子が出ないように、みんなで給食。これで、だれも傷つかない。
そんな“平等”を図ることが教育?僕は、そうは思わない。
5.社会に出れば、傷つくこともある。挫折することもある。そんなとき、どう立ち上がり、ふたたび歩いていけばよいのか。
そんな経験をさせておくことのほうが、よほど教育的だと思うのだ。
絶対的に存在する“違い”に布をおおいかぶせ、「みんな平等だよ」とうそぶくことが教育だとは、僕は思わない。
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