11/05/03 00:14:46.15 lvZ2EhWy0
まず。日本におけるニーチェ人気を挙げたい。
ニーチェといえば、形骸化した宗教社会に対して「神に頼らず超人となれ!」と言い出した先駆者である。
言わば、宗教社会によって整然と動いている社会から疎外された存在の屁理屈的思想であることは評価としては比較的一般的である。
ニーチェの評価は全体の中では高くない。それは、生産性にいささか欠けるからであろう。
だが、それが現代になって局所的な脚光を浴びている。ニーチェの思想自身の抱える矛盾構造も含めて。
>>769
の述べる父像がそのままニーチェの述べる神父像に重なるのも皮肉な話である。
私は決してアスペルガーの肯定をするつもりは無いが、
父が制度の価値を押し付け、それを母が補完することで、問題解決とする姿勢は現実的であるが、
そこになんの媒介も存在しないという矛盾は、単なる「父母の問題解決能力の低さ」という結論をも導ける。
要は、「メシが食えればそれでいい」ですべて解決される問題であるが、パンのみにて人は生きるにあらず、という永遠のテーマのあくなき再生産である。
すべての問題が解決できるとは思わないが、かといって、問題を全く解決しようとしない態度もただの馬鹿であろう。
クラス投票で追放もひとつの合理的解決であり、その結果は否定しない。追放された後のケアも誰かに実施がされることであろう。
また、彼も追放の意味が理解できれば、更正の可能性が無いことも無いし、追放を実行したクラス自身にもひとつの問題提起となる。
繰り返すが、すべてが合理的に解決が出来るほど生きることは容易くないということだし、綺麗ごとも、汚いことも、必要だということだ。