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10月11日(火) 日刊ゲンダイ ひょうたんから駒だった8年前の落合監督就任
中日は03年9月、山田久志監督が事実上の解任となり、佐々木恭介監督代行が残り試合の指揮をとった。同時に後任監督の人選が急がれていた。
候補は3人に絞り込まれていた。OBの高木守道、谷沢健一、知名度のある野村克也。山田監督が外様だったこともあり、最終的には中日OBの
高木守道で「ほぼ決まり」というところまできていた。
しかし高木監督就任の記者発表を行うまさに当日、高木が役員を務めるゴルフ関連会社の倒産というニュースが飛び込んできた。高木自身は
直接経営に関与していないものの、やはりイメージとしてはよくない。結局、「第2次高木政権」は幻となり後任監督は白紙に戻された。
一度断りを入れた谷沢や野村に再度依頼することはできない。球団首脳は頭を抱えた。
そんな折、白井オーナー代理(当時)がポツリと言った。「落合はどうなの?」。中日で落合は「外国人選手と同じように中日を通過した選手」
という見方をされていた。引退後は中日に関わる人物とは誰も考えなかった。
中日関係者で唯一、落合とコンタクトを取れるのが、当時番記者だった中日スポーツの増田護だった。白井は増田を呼び出すとこう言った。
「頼む、1日だけ球団職員になってくれ」。この依頼を受けて増田は落合の元で飛んだ。そして中日が監督要請したい旨を告げた。
「えっ?ボクでいいの?」これが第一声だった。落合は「少しだけ待ってくれ」と増田に言うと、信子夫人に相談。数分後、監督要請を受諾した。
こうして落合監督が誕生することになるのだが、現役時代から職人気質で一匹狼的な人である。コーチングスタッフも集めようにも人脈に
乏しかった。そんな中、唯一心を開ける相手が、01年の横浜キャンプの臨時コーチとして森祇晶監督へ推薦してくれた森繁和(現中日ヘッド)だった。
落合は森に、コーチングスタッフの編成を全面依頼、こうして落合中日がスタートすることになった。
(スポーツジャーナリスト。手束仁)