09/10/03 05:09:18
≪論文を「科学」する≫
「友愛」とは辞書的に理解すれば、兄弟や友人、もっとひろげれば同胞に対する愛という意味であろう。だが鳩山由紀夫首相の言う「友愛」
には、それ以上のひろい意味があるらしい。
国連の舞台に華々しく登場した鳩山氏は中国首脳との対談で、「友愛外交」を強調し、ガス田問題については、「東シナ海を『友愛の海』
にしたい」とまで述べた。ここまでノンシャランに「友愛」を乱発されると、ますます意味が分からなくなってくる。
「友愛」というコトバを、「人類はみな兄弟」といったような意味で使っているのだろうか。だとすると、政治家というよりも、宗教家の姿勢に近い。
日本でよりもアメリカで話題になった鳩山氏の「私の政治哲学」という論文を読み、筆者なりにその意味を「科学」してみた。
サブタイトルは「祖父・一郎に学んだ『友愛』という戦いの旗印」とあった。「友愛」が「戦いの旗印」だとすると、たちまち語義矛盾に陥る。
戦うためには敵がいなければならない。敵は滅ぼさなければならない。ここには敵に対する「友愛」はどこにもない。
≪飛躍しすぎの論理≫
鳩山論文によれば、「友愛」はフランス革命のスローガンであった「自由・平等・友愛」の中の「友愛(フラタナティ)」を指すという。そのうえで、
オーストリアの政治思想家、クーデンホフ・カレルギーが1935年に書いた『全体主義国家対人間』を参照にし、「友愛」は「自由」と「平等」
との間の均衡を図る理念であるとする。
鳩山氏の祖父、一郎はカレルギーの考えに大いに共鳴し、公職追放中にこの著書を『自由と人生』というタイトルで出版した。一郎は
「友愛」を旗印に掲げ、「健全明朗なる民主社会」を目指して政治活動を続けた、という。
「自由」が過度に傾くと、アメリカのようにグローバリズムという市場原理主義に陥り、貧富の差がひろがっていく。逆に「平等」が過度に傾くと、
かつては共産主義、昨今では悪平等に陥る。
双方の行き過ぎを克服する理念が「友愛」であり、それを進化させたのが「自立と共生の原理」だという。どうも、おかしい。論理の流れが
一貫せず、飛躍しすぎているのである。念のため、一郎訳の『自由と人生』にあたった。
(中略)
やっぱり、「人類はみな兄弟」的な発想に近い。カレルギーも鳩山氏も「友愛」の本来的な意味を曲解している。フランス革命において、
「友愛」がどのように機能したかを分かっていないからだ。
≪外交の場は「戦場」だ≫
革命時、「友愛」が前面に出てきたのは、国のシンボルである国王をギロチンで死刑に処してからである。「友愛」は国王に代わる国の
シンボルとして、同胞愛、つまり現代的な意味におけるナショナリズムを駆動させる感性的な装置として機能したのである。
それを一気に推し進めたのが、ジャコバン派のロベスピエールであった。「友愛」の名のもとに民衆を扇動し、財産の平等や身分特権の
廃止などの過激な政策を行い、反対派を次々と断頭台に送っていった。
このとき、「友愛」は「自由」と「平等」の行き過ぎを克服するどころか、恐怖政治(テロリズム)の母体となっていたのである。
カレルギーが盛んに論難するロシア革命もそうである。スターリンは世界革命を主張するトロツキー派を駆逐し、一国社会主義革命に
転換することによって、革命を成功させた。これを感性的にあおりたてたのが、ロシアという「一国」への「友愛」であった。
「友愛」は、せいぜいナショナリズムを高揚させるためにしか機能しない。鳩山氏と同類であるらしい「宇宙人」が攻めてこない限り、
「人類はみな兄弟」になったりはしないのである。
論文には「友愛」に臨む姿勢として、武者小路実篤の「君は君、我は我也(なり)、されど仲良き」という有名なコトバが引用されている。
だが外交の場は、比喩(ひゆ)的に言えば「戦場」である。「中国は中国、日本は日本也、されど仲良き」とはいかないのである。
ソース(MSN産経ニュース) URLリンク(sankei.jp.msn.com)