09/03/18 21:53:20
記事元:記者の目:死刑寸前で無実となった米国人の告白=小倉孝保(毎日新聞)
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2年前にニューヨークに赴任して以来、継続的に死刑問題を取材しているが、国家が人命を奪うことをどう考えるべきか自問する毎日だ。
日本では5月に裁判員制度がスタートし、市民が死刑と向き合うことになるが、死刑を自分たちの問題として考え直すチャンスだと思う。
しかし、日本では、その前提となる情報が決定的に不足している。死刑は法務省だけがかかわる問題ではないはずだ。
私は先日、テキサス州ダラスに住むケリー・クックさん(52)を訪ねた。満面の笑みで迎えてくれるクックさんからは、優しさが自然と伝わってきた。
クックさんは77年、女性(当時21歳)を殺害した疑いで逮捕、起訴され死刑判決を受けた。97年に捜査のあやふやさがようやく認められて
無罪が確定し釈放されるまで20年間、死刑囚として暮らし、同じ施設から死刑囚141人を見送った。今では、DNA鑑定で完全に無実が証明されているが、
88年5月には執行日も決定。11日前に連邦最高裁が延期を命じなかったら、自身も刑場の露と消えるところだった。
さらに、クックさんは87年、兄を殺人事件で失っている。そのショックから施設で2度、自殺を試みた。犯罪遺族としての苦しみも知るクックさんだが、
「無実の人の命を奪う可能性が1%でもあるなら、その制度には反対する。兄を殺した犯人でも死刑にしたくなかった」と言う。
クックさんは陪審制度で裁判を受けた。死刑と評決したのは12人の市民(陪審員)。しかも再審(94年)でも陪審は死刑と評決している。
評決はいずれも全会一致だ。市民感覚が生かされるはずの陪審はなぜ、判断を誤ったのか。「陪審制度でも、検察と裁判所が裁判をコントロールする。
陪審は検察側の主張に疑問をはさむ材料を持たない」とクックさんは言う。
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