09/09/17 20:02:15
1960年代に入ると手巻きのクロノグラフが売れなくなっていき時代は自動まきへとシフトしていった。自動まきクロノグラフ開発合戦の幕開けである。
そこでウィリー・ブライトリングを会長に立てたスイス・クロノグラフ・マニュファクチュール協会を設立した。彼らはスイス時計協会から研究開発費として20万ドルの融資を引き出すことに成功した。
ウィリーと研究を進めつつ、他社にも協力を求めたが結局、最後まで残ったのは、ブライトリングを始め、ホイヤー、レオニダス、ビューレン社(のちにハミルトンに買収される)の4社だった。
1968年の夏に10個のプロトタイプが完成したが、振動数が毎時1万9800振動と低かったため改良を迫られた。一方、セイコーやゼニスも自動まきクロノグラフの開発は進んでおり、
あせったブライトリングはとりあえず振動数を毎時2万1600振動に改良し、翌年の1969年に「クロノマティック」を完成させたのである。しかし、クロノマティックには設計上の大きな欠点があった。
リューズとプッシュボタンの位置が同方向にならなかったのである。もう一度、設計から見直し、一から開発をやり直したいというのが開発部門の思いであったが、マーケティング部門はそれに反対。
というのも、1969年は自動まきクロノグラフノ開発合戦の最盛期。同年の五月にはセイコーが「キャリバー6139」を発表し、ゼニスも秋に「エル・プリメロ」を完成させている。
マーケティング担当者はどうしても世界初の冠がほしかったのだ。そのため、何としてでも3月のジュネーブに間に合わす必要があった。そこでマーケティング担当者は
「あれはリュ-ズが手首に当たらないように設計した」と強引に後付けしたのである。ホイヤーのモナコや、ブライトリングのクロノマティックの左リューズは設計上の欠陥である。
それを裏付けるかのようにブライトリングではクロノマティックは継続するが左リューズは作らないと発言している。