【疑問】スレ立てるまでもない質問 6【戦国時代】at SENGOKU
【疑問】スレ立てるまでもない質問 6【戦国時代】 - 暇つぶし2ch144:人間七七四年
10/06/29 21:09:43 g0stDxlz
>>142
じゃあ裏付けのない[通説」なんでしょ

>>143
関係ないと思うよ。

145:人間七七四年
10/06/29 21:24:08 aV5LEAWb
>>144
具体的論拠がないのに
「そうだと思うよ」「違うと思うよ」とか言うだけなら答えるなよカス

146:人間七七四年
10/06/29 21:41:02 g0stDxlz
>>145
具体的に関連をうかがわせる論拠を提出してから言ってね。

147:人間七七四年
10/06/30 00:53:39 b9B9Qjgp
>>143
そんな珍説何処で見つけたの?

148:人間七七四年
10/06/30 07:08:51 WEekfpoS
確かに逆にそっちが聞きたいわなw
星由来なら家紋名も~星となるべきで
六文銭とはならんだろ

149:人間七七四年
10/07/01 09:14:17 W4D4aAfk
>>147 >>148 さん。

星座で波乗りしてて偶然寄港しました。
URLリンク(kimotodental.blog92.fc2.com)

よく読んだら小説のなかの説でした。
お手数掛けました。



150:人間七七四年
10/07/01 10:22:23 yB0Yjulm
そういえば毛利の「一文字三星紋」が、オリオン座から来ているって説はどこから出てきたんだ?
よく聞く説だが出典が全然解らない。

151:人間七七四年
10/07/01 10:28:09 pwUFo7lk
>>149
しかも何、去年の大河「天地人」の火坂雅志じゃん。
大河の出来の悪さは脚本の責任かもしれないけど。

152:人間七七四年
10/07/01 11:23:54 qQq1bi7R
>>150
URLリンク(kirisai.hp.infoseek.co.jp)
これかな?

153:人間七七四年
10/07/01 13:57:31 mGLEX1Yz
戦国時代の武将の嫁さんとか本名不明の人が時々いますが(元就の正妻とか)
何か慣習か決まり事のようなのがあってわざと名前を残さないようにしてたと聞きました
具体的にはどういう理由だったのでしょうか

154:人間七七四年
10/07/01 14:37:55 qCGx5R1J
古代から「女性の名前はむやみに人に教えるものではない」という
風習があったというだけの話。

155:人間七七四年
10/07/01 15:28:20 mGLEX1Yz
>>154
ありがとう
そういうもんだと理解しておきます

156:人間七七四年
10/07/01 16:03:46 bOrNdB4U
んじゃ、名前が残ってる姫はどういう具合で残ったんだ?
後付け?

157:人間七七四年
10/07/01 16:20:52 iy54kEc+
>>153
ときどきっつーか基本、本名わかってない
渾名や通り名くらいで
知られているほうが稀だよな

それなり名の知られている武将の妻とか
名前どころか、どこの家の人か判らんとかザラだし

158:人間七七四年
10/07/01 16:42:00 R6xm9ygt
事件に巻き込まれれば記録として残るかもしんないくらい

159:人間七七四年
10/07/01 17:38:07 qCGx5R1J
つか日本で女性の名前が表沙汰にされたのは明治の戸籍制度以後だろう?
江戸時代の寺の過去帳を見ても、女性は「吾兵衛妻」とか「定吉母」としか
書いてない。もっとも明治以前にも女性の名前がわかる時代がある。それは
奈良時代だ。公地公民制で戸籍が作成されたからな。奈良時代の戸籍を見ると
女性の名前はクマとかハチとか鍋とか釜とか、森羅万象あらゆるものの名前を
付けていた。しかし平安時代に入る頃に律令制は崩壊し戸籍も作られなくなった。
それ以後明治まで女性の名前の付け方は謎になった訳だ。

160:人間七七四年
10/07/01 21:26:07 yB0Yjulm
つーか、戦国時代は日本の歴史上女性の名前が最も記録されなかった時代。
記録者にとってそれを記録するほどの価値を感じられなかった、ということだ。
ごく一部を除いてその程度の地位だったんだよ、戦国期の女性は。


161:人間七七四年
10/07/01 21:27:18 yB0Yjulm
>>159
どこでそんなおかしな知識を得たのか知らんが、江戸期の戸籍というべき
宗門帳に全部出てるぞ女性の名前。


162:人間七七四年
10/07/02 07:00:56 6+vbLAxQ
痛い子やのう

163:人間七七四年
10/07/02 22:55:14 YwzqnMZy
だから小説とかでは姫の名前がパクりパクられるのか。
大河ドラマ『武田信玄』以降、諏訪御領人が湖衣と表記されるの見かけるしね。


164:仙台藩百姓
10/07/04 10:49:38 tRw107jf
武士ですら諱が曖昧な記録しかない場合が多々あるのだから不思議な事ではないお( ^ω^)
戸籍なんてないのだから何かしら必要がない限り記録に残らないのは当然だお( ^ω^)

165:人間七七四年
10/07/04 11:41:38 AydsjArK
おまいらみたいな雑魚の名前が歴史に残らんのと同じだなw

166:人間七七四年
10/07/04 12:46:07 7evvJKP2
^^

167:人間七七四年
10/07/04 21:08:55 Kk7TwDej
「犯罪史」ってカテゴリなら名前を残すのは簡単かもしれんがなw

168:人間七七四年
10/07/06 12:58:47 u1xGF46o
幻に終わった織田信長の四国征伐軍の編成についての質問です。
先鋒が三好康長で、大将が織田信孝というのは1次史料で確認できますが、大身の寄騎
として、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の3名の名前を概説書でよく目にします。
この3名が信孝に従軍予定したことは1次史料で証明できないと思うのですが、何を根拠に
この3名の名前が挙げられているのでしょうか?

169:人間七七四年
10/07/06 16:32:20 FQ1P4KP8
丹羽家譜

170:人間七七四年
10/07/06 16:46:55 Qj8iDyy/
必見そうか自民日本壊滅テロ組織の悪行を知って下さい。
↓のレス内にて「そうか」で検索お願いします。
● レス禁止 吐き捨てスレ 19 ●
スレリンク(ms板)

171:仙台藩百姓
10/07/06 17:04:55 uw/tIlgd
軍記類(明智、細川)や日記類(宗及、イエズス会)
それに変後の禁制や書状から丹羽らが信孝と行動を共にしていた事は間違いないから
そういう話しになったんじゃないかお( ^ω^)

172:人間七七四年
10/07/10 01:41:40 Espha1rV
合戦前に代表が問答すると言う話を聞いたのですが、何か礼儀的なことですか?
またどういった問答をしたのか記録とかがあれば知りたいのですが。
どこか詳しいサイトなり本なりあるでしょうか。
お願いします。

173:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/10 21:10:09 LDyiy/VR
戦国時代の公共事業、おもに土建関係について興味を持ったので質問します。
検索すると武田信玄の信玄堤・棒道や鉱山開発ばかりヒットしますが、
これらは信虎の代から行われているものが誇張されているので参考にできません。

江戸時代になると普請で各地に干拓や街道整備が活発になっているようですが
戦国時代の間に築城以外で農地開発や治水や街道整備など行われた事例は
どのようなものがあるのでしょうか?
また、少し前の室町前期に大内弘世が京都を模した町づくりを行っているようですが
この時の土木事業の規模は町割りをした程度なのか、
それともかつての平安京のように本格的に河川を整備したのでしょうか?

174:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/10 21:22:35 e0HS1ZYI
>>173
記録がないのでよく解らない、としか言い用がない。
北條や武田などで、治水も含めた干拓事業などが行われていたらしい伝承はあるが、
史料として残っているわけではない。

ちなみにこの時代街道整備は周辺住民の軍役、使役の一つとして義務化されていた。

まあ何はともあれその手の公共事業が本格的に行われるようになったのは
江戸期に入ってからだろうね。

175:人間七七四年
10/07/13 12:21:17 RCCij7cR
>>172
源平合戦のころは、細かい儀式的なものがあった、
・各使者同士で合戦の場所日時を決める。
・それぞれの陣から一騎が出て口上を述べる。
・口上は最後まで聞かなければならない。
・一騎打ちが終わったら矢を放つことから戦を始める。
・白兵戦になっても武者が口上を始めたら聞かなければならない。
・退却を追い討ちしてはならない。

等々だが、元寇以来次第に無くなっていく。
戦国では城攻めの際に降伏条件の話し合いはあった、
野戦では相手を挑発する行為くらいしかなかった・・・と

176:人間七七四年
10/07/13 12:32:21 rdLzAceW
>>175
源平合戦より前の保元の乱で源義朝が夜討ちを進言してるのはどういう訳よ?
『ただし奇襲戦はこの限りではない』ってこと?

177:人間七七四年
10/07/13 20:08:39 yRyntpwr
城郭を建てる際に、居住区でない建物に人名がついている場合(たとえば伊衛門矢倉とか)って、基本的に建造責任者の名前でいいかな?

それと、鬼門封じに銃弾ぶち込むのって普通なの?

178:人間七七四年
10/07/13 20:11:43 3jGFqAC9
>>176
>>175に書いてあるようなのは源平の頃でもごく一部の例外的な戦の場合のみで、
通常、合戦において口上とか一騎打ちとか戦の順番とかは存在しなかった。


179:人間七七四年
10/07/13 23:19:13 c6bgt8ON
>>177
守備時の責任者だと思うけど

180:人間七七四年
10/07/14 12:12:13 HqahJhd0
>>175>>176>>178
「矢合わせ」という言葉が開戦を意味することとして今に残っている。

戦の儀式進め方は、その戦さが「乱の平定戦」か「お互いの意地のぶつかり合い」かで違った。
前者の場合は夜襲、奇襲はアリだが後者の場合はなかったようだ。
義経の「鵯越」なんかは奇襲で勝ったが、当時の義経に対する武士達の評価は???だね。
江戸時代以降、軍略の天才、悲劇のヒーローに祭り上げられてはいるが、勝つためには何でもアリの危険人物とされたんじゃないか?


181:人間七七四年
10/07/14 12:25:56 tlJf5afE
>>180
お互いの距離がまだ接近しない間、遠距離兵器である矢で戦が始まるのは当然のことで、
それは儀式でも何でもない。
戦国期も矢合わせ、後期には鉄砲の打ち合いから合戦は始まった。

ついでに言うと義経が軍略の天才とされたのは、江戸期ではなく、鎌倉後期に既にそうなっている。
南北朝から室町にかけては、義経は前漢の高祖を助けた軍師、張良の生まれ変わりであったとされ
信仰の対象にすらなっていた。

源平期においても、名乗りや儀式などがあったのは、そう言う政治的、もしくは個人的
パフォーマンスが必要だったごくごく例外的な状況においてのみ。例外的だからこそ記録された。

182:人間七七四年
10/07/14 14:18:35 syLYjtlp
>>180
保元の乱における源義朝は生き馬の目を抜く関東で経験を積んだ武者として夜討ちを進言している。
しかし「天皇の軍勢は奇襲なんてしないで正面から戦うものだ」として却下されている。義朝が「甘いなぁ、
正義は勝った方に有るんだぜ」と思っていると逆に敵が奇襲をかけてくる。

お説と逆の様ですが?

183:人間七七四年
10/07/14 22:40:44 3n0E/54/
>>182
上皇方の鎮西八郎為朝が夜討を進言したところ、悪左府こと藤原頼長が却下。
そうこうしてるうちに、義朝が夜討をかけてきて・・・という流れじゃなかったっけ?

184:人間七七四年
10/07/15 00:54:50 rmmOO+na
>>183
あら!?その通りです。お恥ずかしい・・・。

185:人間七七四年
10/07/15 16:18:24 qwej1Opl
刀は目釘固定じゃなく、フルタングナイフのように中子を(もう少し長くして)グリップ素材で挟む構造ではいけないのでしょうか?
ねじがない時代だと固定してしまうと外せなくなり、湿気の多い日本には不適…というような事も考えましたが。
恩賞としての価値があるような刀ならともかく、数打ちの実用品はそんな感じでもよかったんじゃないかと思います。
あるいは単純に革巻きとか。

186:人間七七四年
10/07/15 18:40:38 ZcDtTMh9
>>185
あの方法がベストだから後世までこれで残った。以上。

187:人間七七四年
10/07/16 22:05:18 8dtTXIdx
群書類従に信長が岐阜と名付けたのは嘘で昔から岐阜という地名はあった
というようなことが書いてあったのですが本当でしょうか?

188:人間七七四年
10/07/16 22:33:30 Gx/9XZvj
>>187
本当ですよ。

189:人間七七四年
10/07/17 03:31:52 DuIkVqSD
今川家の将、福島正成が上条河原合戦で荻原常陸介に討たれたというのは本当ですか?

190:人間七七四年
10/07/17 03:35:34 JzzgTHR6
>>183
頼長は軍隊で威圧行為を行った後に政治的駆け引きをやる予定で本気で開戦する気がなかったのでは? という見方もあった筈。

191:人間七七四年
10/07/19 15:57:44 lxOzsayr
荻原昌勝は指揮をとっていたが、直接大将同士の戦いなんてのはない。
武田の圧勝の戦いだからなおさらありえない。

192:人間七七四年
10/07/21 07:25:32 r0N7OK8K
真田信之は無敗の将らしいですが、本当のことですか?

193:人間七七四年
10/07/21 21:18:25 wPoOObNn
まともに関わった戦が上田合戦、小田原役、関ヶ原だけだしな。

194:人間七七四年
10/07/25 10:15:44 FGCJEsf7
>>192
お前も生涯無敗だろ?

195:人間七七四年
10/07/25 23:23:11 lu+CidN5
武家の娘は、12~15歳くらいで嫁ぐのが一般的で、20歳の独身女は行き遅れ。
というイメージがあるわけですけど、これは庶民についても同様だったのでしょうか?

196:仙台藩百姓
10/07/26 08:50:14 UGg+TLtZ
少なくとも正室で15歳以下の輿入れはレアケースではないかお( ^ω^)
著名な大名の例で見ると17~20歳ぐらいが多いお
10歳にも満たない場合の婚約や婚姻もあるけれど実際の輿入れは一定年齢に達してからだお( ^ω^)
庶民については資料がないから不明としかいいようがないお( ^ω^)

197:人間七七四年
10/07/26 11:54:22 lLZwP5Mi
江戸期になると徐々に晩婚化の傾向が見られる。
あと、初婚が若くても離婚も多く、20代、30代での結婚も珍しくなかった。
これは戦国期もそんなには変わらなかったと推測できる。

戦国期の著名な大名の結婚といえば、武田信玄の最初の結婚は12歳の時で、
相手の上杉朝興娘の年齢はわからないが、おそらくは同年代だったと考えられる。
しかもその年のうちに妊娠させている(出産の再母子ともに死亡)

198:人間七七四年
10/07/26 19:04:35 PwdS9sS7
レアか?

信長の嫁13歳
秀吉の嫁14歳
家康の嫁15歳
政宗の嫁12歳
利家の嫁12歳
秀頼の嫁7歳
秀忠の嫁6歳
八丈島の嫁15歳

199:人間七七四年
10/07/26 20:03:17 lLZwP5Mi
>>198
子供まで産ませたのは信玄と利家くらいだろ

200:人間七七四年
10/07/26 20:41:13 PwdS9sS7
正室として嫁いだ年齢の話してんのに孕む孕まないは関係ないんだが

201:人間七七四年
10/07/28 05:50:09 FsU3KuGM
利家とまつってひとまわり以上離れてるんだっけか

202:人間七七四年
10/07/28 12:50:41 nApKwByj
信玄の場合、嫁ではなく信玄の方に、12歳で性衝動があったことの方がすごいな。

203:人間七七四年
10/07/28 16:17:22 e8FcrV3d
質問です
戦国時代に双子の大名とか武将はいなかったのでしょうか?
それとも間引かれたり双子とかまれだったのでしょうか?

204:人間七七四年
10/07/28 17:14:05 zbj3iDE5
あくまでも予想の域を出ないが
家康と恵最・・正室の子と側室の子で同日生まれとされているが、双子だったと言われている。
結城秀康と永見貞愛は信憑性が高い。

205:人間七七四年
10/07/28 17:15:22 rMPjYouh
918 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2010/05/19(水) 21:59:36 ID:ty0ZkTvA
双子の記録って全く見ないんですが
双子だった・双子の可能性のある戦国時代の人物って記録ないのでしょうか?

919 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2010/05/19(水) 22:11:01 ID:3mPlvQ20
>>918
戦国期双子は畜生腹として忌まれ、双子の片割れは殺されたり里子に出されたりした。

有名なところだと結城秀康(徳川家康次男)と、永見貞愛(知立神社神職)が双子であった、
と言う説があるらしい。実際はわからないが。

920 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2010/05/19(水) 22:11:52 ID:OoqArQxs
徳川家康が竹千代と二郎三郎の双子説じゃないかな一応

923 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2010/05/19(水) 23:47:15 ID:7DCPS+c3
宇喜多忠家と春家は同一人物説と双子説あった気がする

924 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2010/05/19(水) 23:56:51 ID:c+kfAEYE
真田んとこも双子説あった気がする

206:人間七七四年
10/07/28 20:59:03 e8FcrV3d
>>204
>>205
ありがとうございます!
説が多種で実在というのは難しいのですね
歴史の教師がはぐらかしているのに
ここは本当に凄いですね
高校の自由研究にしようと思いましたが
ちょっと断念します
ありがとうございました

207:人間七七四年
10/07/30 18:20:50 QNDzHghx
関ヶ原の時に山形城に対上杉に備えて
東北諸勢力が収集されているのですが、その中に「小笠原勝俊」という人がいて
兵を500程率いているんですが、この人は誰なんでしょう?検索しても全然ヒットしなかったので
よろしくお願いします。

208:人間七七四年
10/07/30 19:06:21 eO+sp0dZ
>>207
推測だが、あの地域で東軍方で、小笠原って言うことは、
出羽戸田氏の家臣で小笠原庶流を名乗っていた樽崎氏の縁者ではないだろうか?

209:人間七七四年
10/07/30 19:08:03 eO+sp0dZ
間違えた
×樽崎氏
○楢岡氏

210:人間七七四年
10/07/30 19:50:49 1LZjGkqh
>>207
津軽家の重臣に小笠原信浄って人物が居るけど、その家系の人かもしれない
その息子の名前を検索してもHITしないのが気になるが…

211:人間七七四年
10/07/30 20:38:44 QNDzHghx
>>208-210
ありがとう。>>208の線で調べてみます

212:人間七七四年
10/07/31 03:19:44 TB5E0ErK
戦国時代に行われた僭称についてですが
土地の実効支配者も、僭称者を役職名通りに呼ぶんでしょうか

仮に現地支配者の伊東義祐が明智光秀を論う場合でも「明智日向守」と?

213:人間七七四年
10/07/31 13:06:12 tmKB7t2n
>>212
光秀の日向守は僭称じゃないし。
つーか君は先ず、官位というものをきちんと勉強したほうがいいと思うぞ?
日本全国どこであっても誰が相手であっても、日向守は日向守だ。


214:仙台藩百姓
10/07/31 16:25:12 Y2SoGSyF
いやいや、明智の例えが悪かっただけで良い質問ではないかお( ^ω^)
例えば上総介を自称していた織田信長に対して、上総を実効支配していた里見氏などが書状を送る場合
織田上総介殿と書くのだろうかと言う事だおね( ^ω^)
まあ、当時織田氏と里見氏などは接触がなかったからお互いどうでもよかったろうけど
小田原北条氏なんかが上総介を自称したら洒落にならないお( ^ω^)
実際、各勢力が実効支配又は侵略を目論む場合
その地の国司系官位の争奪に躍起になっていたのは事実だお( ^ω^)
つまり大義を官位に求めていたのは間違いなく
敵対勢力などは僭称された官位をわざわざ呼んであげる事は有り得ないはずだお( ^ω^)
漏れの地方では大名の僭称があまりないから詳しくないけど
実例などを挙げてみると面白いと思うお( ^ω^)

215:人間七七四年
10/07/31 17:16:59 16amabj/
百姓が言わなければ似たような返答を書こうかと思っていたわ。
自分たちも各地方の受領名を使ってるんだから、よその武士が何を名乗ろうが、
ある程度は許容するのが常識。

216:人間七七四年
10/07/31 21:06:15 JOGD4KBH
大内が少弐に対抗するため太宰少弐をわざわざ朝廷からもらったな
僭称は…挙げたらきりがないな

217:人間七七四年
10/07/31 21:20:17 yn7PZPNi
大内氏は受領名ではなく家臣団にも正式な官位を授けていたと聞きます。
長門守護代の内藤興盛は従五位下、下野守を賜っていますが
この場合、代々下野守を世襲していた宇都宮尚綱は官職を去るのでしょうか?

218:人間七七四年
10/07/31 21:57:27 SsjWq97G
昔は一生懸命ではなく一所懸命と言って一つのこと一つの場所に根ざして頑張ったそうですが
それにもかかわらず戦国時代から江戸時代初期にかけて、一代で最も転封を繰り返した大名って誰ですか?
江戸時代の大名家では前橋松平家が有名ですが・・・

219:人間七七四年
10/07/31 23:38:00 yn7PZPNi
中位の位階で中位の官職の足利義晴と高位の位階で低位の官職の大内義隆
朝廷での序列はどちらが上だったのでしょうか?

足利義晴
位階・・従三位
官職・・権大納言(正三位相当)、右近衛大将(従三位相当) 
備考:信長の野望天道では1546年時点で義輝が大名になっており存在抹消。

大内義隆
位階・・従二位(1546年時点は正三位)
官職・・兵部卿(正四位下相当)、大宰大弐(従四位下相当)、侍従(従五位下相当)
備考:信長の野望天道では兵部卿(ゲーム内では一つ下の従四位上扱い)のみで兼任していない。
よってゲーム内では参議(正四位下)の北畠晴具、足利義輝より低い扱い。


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