戦国ちょっといい話19at SENGOKU
戦国ちょっといい話19 - 暇つぶし2ch492:人間七七四年
10/04/22 01:06:36 QOUIJRqP
諏訪の神さんを奉じる諏訪氏ぶっ潰しちゃったもんだから怒りまくった諏訪の神さん、
半分は諏訪氏の血引いてる勝頼だろうと一切容赦せず、武田あぼんしてもた
なんて話もあるから、>>490の神さまの夢みたってのも実際にあったことだったりしてw

ちなみに
死後自分が諏訪の神さんに成り代わるために、と信玄は諏訪湖に自分を沈めるよう遺言したけど
結局その言い付けは守られなかったために武田は滅びた、なんて話もある

493:人間七七四年
10/04/22 02:06:41 5tZJy1fh
>>491
やっちまった事を悔い改めるために一芝居打った、と見ればいい話じゃないか
掠奪も止められるしな

494:人間七七四年
10/04/22 05:47:19 9KbGhM2O
>>493
単なるマッチポンプ、という解釈も同時に出来てしまうけどねー

495:人間七七四年
10/04/22 13:28:13 tcJ6PIlZ
武州成田氏の菩提寺、龍渕寺。
これを建立したのは成田家時であった。

家時はある夜、館から彷徨い出て、阿弥陀堂に辿り着く夢を見た。
不思議に思った家時、家臣に夢の地を訪れさせると、まさしく夢の通りの場所に阿
弥陀堂があり、そこで一人の僧侶が修行をしていた。
この僧侶を和庵和尚と言い、不思議な縁であるとして、成田家に招いた。

成田家では丁度新しく寺を建て、菩提寺としようとしていたので、この和庵和尚に
その住職となるコトを依頼した。
すると和庵は
「この地に寺を建てていただきたい」
と言う。その指定するところは古くから龍神が住むとされた龍ヶ渕と言う沼であっ
た。

沼にどうやって寺を建てるのか。成田家中では頭を悩ませ、和庵和尚による遠回し
な拒絶なのではないか、とも囁かれた。
すると和尚、龍ヶ渕の湖畔に一人座禅を始める。
座禅を始めてから七日目。和尚の夢の中に白髪の老人が現れ、
「私に菩薩戒を授けてくださるなら、この土地をお譲りしよう」
と言う。

翌朝、和尚が引き続き座禅をしていると、突如猛烈な突風が吹き荒れる。
和尚は慌てて叫んだ。
「オイオイ、お前がそのまま来たら皆が驚くじゃないか。里の皆を驚かせないよう
に、もう少し小さな姿で出てきておくれ!」
すると風と波はたちどころに収まり、水中からは小さな蛇が一匹、ニョロリと姿を
覗かせた。

眼を合わせたまま動かない蛇を見て、和尚が頭を撫で、我が弟子として戒を授けて
やると、蛇は再び大人しく水中に帰って行った。
その日から武蔵北部は突然の大雨に見舞われ、あちこちで洪水が起こったのだが、
何故か龍ヶ渕の水は雨の量に従って徐々に干上がっていくように見えた。
やがて完全に陸地になった龍ヶ渕に建てられた成田氏の菩提寺を龍淵寺と名付けた
という。

龍淵寺建立から程なく、下忍の三千坊沼という沼で、夜毎鯨が鳴く様な声がすると
いう噂が立った。
里人が和庵和尚に相談すると、和尚は沼を訪れ、鯨声のする辺りでお経を上げ始め
る。
すると、和尚の目の前に大きな鐘が浮かび上がって来た。

この鐘、龍の化身であるとされ、和尚によって仏弟子となった龍ヶ渕の龍が、和尚
の徳を慕って寺を護る為に鐘と変じて現れたのだと噂された。
その鐘は龍淵寺に運ばれ、寺宝として大切にされていたという。
ここまで室町初期頃のお話。

やがて時代は下り戦国時代。
繰り返し行われた上杉謙信の忍城攻撃。
何度目かの忍城攻撃の際、謙信率いる上州兵によって龍淵寺も略奪を受けてしまう。
「龍の化身」として名高かった寺宝の鐘もこの時に略奪され、上州に持ち去られて
しまった……かと思われた。
が、利根川を渡河中、突如として鐘を積んだ船が転覆。兵も積荷も諸共に川底に沈
んでしまった。
龍は末法の世を嘆きながら、利根川を下り、龍宮に帰って行ったと言う。

龍神の加護を失った成田家は、次代の氏長の時に武蔵を追われるコトとなった。
負けても負けても滅びないと思ったら、龍神の加護があったんだね、という成田さ
んのお話。


496:人間七七四年
10/04/22 15:28:47 mNzuIOPW
負けても滅びなかったのは竜神のおかげというより、甲斐姫のおかげという現実・・・

497:死出の約束
10/04/22 20:00:36 fIqUgitW
松代城二の丸の庭に築山があったという。
真田信之の家臣・鈴木忠重は、主君の手を引いてその築山に登った事がある。

「若い頃ならこの築山を飛び超えられた。なあ、忠重。死出の山はこれくらいの高さかな?」
「死出の山がいかほどの高さであろうと、私があなたのお手をお引き致します。」

信之が死ぬと忠重も後を追った。忠重の墓は今でも主君の墓に寄り添っている。

498:人間七七四年
10/04/22 20:27:40 phcz9+DU
>>497
やべぇ、泣きそうになった

499:人間七七四年
10/04/22 21:10:30 YuoLhhZB
やる夫真田のラストシーン、この逸話でいいかも。

500:人間七七四年
10/04/23 00:31:08 dmRl91ny
>>497
主君の隣に墓を建てるって立花道雪と薦野増時もだな。

501:人間七七四年
10/04/23 00:39:29 4RX+an5R
>497
池波正太郎の短編でもあったな、その場面

502:人間七七四年
10/04/23 02:11:13 QnZWhO2z
>>497
夜中に泣いちまったじゃないか…

503:人間七七四年
10/04/23 09:04:14 9FU01I5V
「手を引くって言ってたのに俺の方が先に死んじゃったじゃないかw」
「いやあお恥ずかしい」
なんてやってたりしてね。

504:人間七七四年
10/04/23 09:24:22 q2Y3LaOy
こういう美しい殉死があったから一時期殉死が流行ったんだろうな

505:人間七七四年
10/04/23 11:14:28 GGJehT+y
お兄ちゃんて親しい人を送りつづけててさぞ寂しかったんだろうなと思うんだよな
本人の責任もあるがw
自分を見送ってくれる忠臣がいてくれてよかったなぁ…

506:人間七七四年
10/04/23 15:36:46 tSugUeFV
それで寿命が縮んだのか・・

507:人間七七四年
10/04/23 18:43:24 Huy6ZenZ
徳川家康が武田勝頼と対峙して遠州大井川下伊呂に滞陣していた時のこと。

2,3日雨が降り続いたために大井川が増水し、夜になって川岸が崩れ始めた。
俗に「蛇崩れ」と呼ばれる現象であるが、闇夜で根耳にこれを聞いた徳川勢は大騒ぎになった。
武田軍の夜襲と勘違いした先手が騒ぎ始め、やがて士卒や旗本にまで伝わっていく。
旗本たちは武田の夜襲で先手が崩れたものと考え
それを受けた家康も牧野半右衛門を伝令とし「全軍一騎掛けで浜松に撤退せよ」と下知した。
これにより徳川勢はますます混乱に陥り、まったく収拾がつかなくなった。・

この時大久保忠世はまず旗本に大提燈を掲げさせると
信頼のできる部下を付き添わせて「わしが戻るまでけっして離れるな」と言い含めた。
次に先手に馳せ付けると
「すでに旗本を持って敵の第二陣を討とうと既に備えを立ち固めたぞ。
 あの大提燈が動かぬのを見よ。あれがなによりの証拠じゃ。
 うっかり卑怯未練な真似をして旗本に笑われぬようにせよ。あとで面目が立たんぞ。」
と大音声に触れまわったので、全軍が次第に備えを立て直し、やがて騒ぎも収まった。

<是忠世が早速の奇策。智ありて且つ勇ある者にあらずこれを為ること能ず。>
『武将感状気記』「大久保忠世士卒の躁乱を鎮むるのこと」

508:人間七七四年
10/04/23 22:59:15 g7GQHIIX
兄は騒ぎを静め弟は騒ぎを起こす、と

509:人間七七四年
10/04/23 23:16:00 Mxi7W6BY
一騎がけで撤退って、
とにかくめいめい勝手に逃げろってことだべ?
伊呂(現在島田市色尾)から浜松までは直線距離で50kmあるぞw
ひでー命令だw

何だか三河武士って攻撃すると強いが、守勢に回ると脆い気がする。

510:人間七七四年
10/04/23 23:19:13 txQ1yqKD
忠世、忠佐の兄弟は優秀だな
長篠の戦でも一番槍だし、一向一揆のときもこの2人が仲介役を引き受けなかったら
家康も家臣の大半を失ってたかも知れない

上田合戦がなかったらもっと評価上がってたかも

511:人間七七四年
10/04/24 00:30:09 NFIsZzQR
病が重くなり死期を悟った大久保忠世は
かつて一向一揆の際に徳川家康から賜った感状を取り出し
「これは後世に伝わるべきものにあらず。我これを持って黄泉への手形としよう。」といって
すべて破り裂き、家臣に命じて柩に入れさせた。

かつて一向一揆に参加し忠世の執り成しで復帰した者たちへの思いやりであった。

512:人間七七四年
10/04/24 00:39:54 PF+Q56fy
三河一向一揆では一族あげて家康に味方、
本多正信や渡辺半蔵の帰参を助け、
三方原の敗戦時には犀ヶ崖の夜襲で武田軍を撃退し、
長篠では兄弟揃って信長に激賞され、
甲信平定では方面軍指令的な立場にあって、
関東移封後は最重要の関門小田原を任された彼が、
なぜ徳川四天王にも入らず平助がぼやく扱いになったのか?





それは三方原の時の焼き味噌発言が尾を引いてると思うんだよなあ…

513:人間七七四年
10/04/24 00:52:18 NFIsZzQR
ある日大久保忠世の屋敷に徳川家康が馬で乗り付けた。
すると忠世の妻が馬前に湯漬けを捧げたので家康は喜んでこれを食べ
「うむ、焼き味噌の風味が利いていてとてもうまいぞ
 七郎右衛門の妻は所帯持ちがよさそうだの。」と大きく笑った。

『大久保家留書』

514:人間七七四年
10/04/24 01:05:27 asefKMO5
>>512
大久保長安や忠隣の失脚のせいとか?

515:人間七七四年
10/04/24 01:12:00 R5zef0vk
スカトロの話はちょっと・・・

516:人間七七四年
10/04/24 01:13:25 Zg6SN95C
>>512
大久保一族は家康・正信の嫌いな日蓮宗信者だからね
本阿弥光悦らといっしょに排除されたのかも

その日蓮宗の忠世が、一向一揆では一向宗徒の帰参の手助けをしてる
これって結構すごいことだと思う

それにしても、正信も忠世に恩を受けているはずなのに、
息子に対して仇で返すなよなあ…

517:人間七七四年
10/04/24 01:43:36 ZFG7tOwp
忠世が徳川の世を見ず死んだのと、長安事件だろうな。

518:人間七七四年
10/04/24 07:05:52 MLw8Vm6y
忠輝かあ…

519:人間七七四年
10/04/24 07:51:40 OvRz8JGG
>>516

家康「本人と親の功は分けて見るのが徳川家クオリティーじゃ」

520:人間七七四年
10/04/24 08:57:27 f2WT7lnd
忠佐が死んだ時に、彦左衛門がその遺領を継ぐのを拒否したのもまずかったんじゃ?
それがなきゃ、箱根の峠の東西は大久保一族が押さえることになってたろうし

521:人間七七四年
10/04/24 09:07:54 vXXYACI0
>>519
夏目吉次「(((( ;゚Δ゚))))」

522:人間七七四年
10/04/24 10:00:17 MGkRx5cQ
天正18年(1590)3月、秀吉の関東出兵に伴い、上方諸将は織田信雄を総大将として、伊豆韮山城を攻めた。

城主・北条美濃守氏規はみずから射芸を好み、家臣に弓鉄砲の上手も多く、容易に上方勢を寄せ付けない。
福島正則の重臣、尾関石見は先頭に立って果敢に攻め込んだが、左目に銃弾を受けた。
しかし尾関は血のあふれる目に指を突っ込み鉛玉を抜き出すと、なおも戦い続けた。
(関八州古戦録では蒲生郷可の話としているが、他に郷可が隻眼という記述はなく、尾関と混同したと思われる)

他家の劣勢を見た正則は、挽回せんと鐘太鼓を打ち鳴らし、家臣に突撃を命じた。これに応じて
福島丹波、長尾隼人、大崎玄蕃、可児才蔵ら百人が抜け出て、突出してきた城方を横合いから叩いた。
しかし、しばらくこれを傍観していた大将・信雄が、事態に気づいて総攻撃のホラ貝を吹かせた時には既に遅く、
体勢を立て直した氏規は、ホラ貝の音を聞くが早いか、城への撤収を始めた。

城方の撤収が完了し閉じられようとする城門に可児才蔵が一人飛び出し、獲った首二つを振り捨て、自分の槍を
門扉にネジ込み、隙間を作った。
この機を逃さず才蔵は扉を押し、福島丹波らもそれに続いたが、城方の反撃により二十人ばかりが討ち取られた。
負けじと大崎玄蕃らが、さらに扉に取り付き押し返したが、城方も必死に扉の隙間から槍や長刀を突き出し、
丹波の郎党二人が命を落とし、才蔵と玄蕃も負傷した。

そうこうしているうちに隙間を作っていた才蔵の槍が折れ、城門は完全に閉じてしまった。この間に長尾隼人は
城門の横から塀を乗り越えようとしたが、二度城方から突き落とされ、三度目には槍を口に突っ込まれた。

城門が閉じるのを見た正則は、ついに攻略をあきらめ、退却のホラ貝を鳴らし、なおも城門で粘る四人を退かせた。
この時、才蔵は折れた槍に先ほど捨てた首を拾ってくくりつけ、落ち着き払って退いた。城方もこの態度に感心し、
「敵ながら、あっぱれ。名を名乗って戻られよ。」と声をかけるのに四人は応じ、堂々と
「我ら、福島左衛門大夫家中の…」と名乗って陣へ帰った。城中から、これを狙い撃たんとする者もいたが、
城主の氏規が、「あのような勇者を卑怯なやり方で討てば、かえって軍神の怒りに触れよう。おとなしく去らせよ。」
と言うので、静かに彼らを見送った。

その夜、正則は四人を呼び出し、「今日の働き、全軍を驚かせるものだったぞ!今後とも、当家に一騎当千の
武者として働いてくれ。特に才蔵の皆に先立っての働きは見事だったが、味方が続かぬのに無理をしてはいかん。
以後、慎め。」と、褒め称え、かつ命を粗末にせぬよう言い渡した。


参考までにURLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
この時は軽傷で済んだ福島丹波も、関ヶ原の戦いで宇喜多隊に足を斬られ、跛足になったもよう。

523:人間七七四年
10/04/24 12:33:35 wvpO7azK
市松も人を使う能力は一流だね

524:人間七七四年
10/04/24 12:38:21 xC0x86ag
市松さんは酒さえ飲まなければできる子
っていうか、基本的に人望あるんだよな

525:人間七七四年
10/04/24 12:43:26 jzcwsyin
小田原攻めと関ヶ原、福島家の重臣たちが傷ついた戦場に権現様もいた
もちろん傷ついた理由も知ってるワケで

小姓に激怒したのも当然だなあ

526:人間七七四年
10/04/24 12:55:36 Zg6SN95C
北条氏規って、子孫が…ゴニョゴニョの人だっけ?

527:人間七七四年
10/04/24 13:20:36 7AIok60B
市松の活躍に隠れてるが

>しかし、しばらくこれを傍観していた大将・信雄が、事態に気づいて総攻撃のホラ貝を吹かせた時には既に遅く、

こっちもクオリティ安定してるよなw

528:人間七七四年
10/04/24 16:38:39 IWOAUQxh
>>527
才蔵は小牧長久手といい、今回といいあれな総大将に縁があるなあ

529:人間七七四年
10/04/24 18:21:52 vKfESL1j
小関正勝は眼窩に鉄砲玉喰らってよく無事だったな

530:人間七七四年
10/04/24 21:33:07 ztEaRfue
>>526
途中で直系絶えて伊達から養子貰ったりしたからな……

この話北条側からのがまとめにあったよね

531:人間七七四年
10/04/24 22:01:01 hthaUVMS
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<        | |  ` ´        ) |           >
<        | \/ヽ/\_/  /  |           >
<        \ \ ̄ ̄ /ヽ  /  /           >
<          \  ̄ ̄   /  /       \    >
  / /        ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄     \\ \ \
     ___
   / ―\ ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウ
 /ノ  (@)\ ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキ
.| (@)   ⌒)\ ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッ
.|   (__ノ ̄|  |   ///;ト,  ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョ
 \   |_/  / ////゙l゙l;  ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョ
   \     _ノ   l   .i .! |  ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョ
   /´     `\ │   | .|  ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョ
    |       | {   .ノ.ノ  ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョ
    |       |../   / . ナンミョウホウレンゲッキョウ

532:人間七七四年
10/04/24 22:24:14 d1Uqn8+Z
>>529
当時は手作りの黒色火薬を手作業で鉄砲に詰めて撃ってるわけだから
結構威力にもバラつきがあったんじゃないかな。

533:人間七七四年
10/04/25 01:25:56 rtJtjzQH
天文20年
鳥居忠吉は13歳になる息子鶴之助(鳥居元忠)を連れて駿府に赴き
息子を10歳の竹千代(徳川家康)に近侍させた。

そんなある日忠吉と元忠が共に家康の前にでた。
家康は百舌を鷹のように腕に据えて遊んでおり、元忠を見ると「その方もやってみよ。」と百舌の据え方を教えた。
が、慣れない元忠がなかなかうまく据えることができないでいた為
家康は「その据えようが悪い」と言って元忠を縁側から突き落とした。

それを見た近習たちが「そのような手荒なまねはなりませぬ」と諌めると、忠吉はこれを抑え
「それがし年頃竹千代君を養育したてまつり、朝夕、忠吉々々とお慕いいただいておりますが
 その忠吉の子を、世の常の人ならば少しは遠慮ということもあるべきところを
 思うがままにお叱りになるのは、これこそ天然自然に身に備わった大将のご器量というもの。
 将来は大功たてられる御身なれば、何事も気宇壮大にならせられるよう補佐し奉る事が肝要でござる。
 こんな小事をとやかくお諌め申し上げるには及び申さぬ。
 末頼もしき御生まれ立ちなれば、どなた様にも忠勤を励み、ご幼少なりとも仮初めにも卒爾な事があってはなりませぬ。」
と近習達を諌めたので、人々は皆これに感じ入った。

『寛政重修諸家譜』


534:人間七七四年
10/04/25 01:33:03 yhY4dG6F
>>533
このへんの忠吉だけじゃなく、三河本国の松平家臣団も
「竹千代君が家臣を手荒に扱った」と言うのを聞いて、
「幼いのに何と猛々しい!将来立派な御大将になられるであろう!」って、
涙を流して喜んだらしいね。

三河者と言うのは、よく解らんw

535:人間七七四年
10/04/25 05:15:13 YiHNJAbk
骨の髄まで面倒臭えw

536:人間七七四年
10/04/25 05:35:28 Wng4dbMx
考えるな、感じろ

537:人間七七四年
10/04/25 07:58:11 hSAk1r/o
元々は悪い話だったのを、徳川の世になってから
無理やり捻じ曲げて美談に仕立て上げただけに見えるが。

538:人間七七四年
10/04/25 08:53:02 VH7wViYe
親父の広忠がヘタレだったからじゃないの。

539:人間七七四年
10/04/25 09:10:09 LNl6RJoI
信長が同じことしたら「あのうつけにはついて行けん。」ってなるな。

540:人間七七四年
10/04/25 09:17:37 mv2qqeYf
黒田長政がやったら父とは似ても似つかぬ不肖の(ry
北条家の誰かがやったら親父に折檻される
細川忠興だったらやっぱ基地外か…と皆溜息

541:人間七七四年
10/04/25 09:50:38 bG/NKNXu
「その据えようが悪い」と笑ったら必ず刃傷沙汰になり、
突き落としたらほめられる。

戦国時代人の思考パターンというのは、どうも現代人からは分かりづらい・・・

542:人間七七四年
10/04/25 09:58:19 h6cOHhNF
広忠の家っていうの?松平本家?
そこがあまり強く無くて一本化できなく、そこから没落してったからってのが前提としてあるんじゃないかな
家臣や一門衆なんかにもビシッ!と言えるってのが期待されていたとか


543:人間七七四年
10/04/25 10:33:03 GvIxSKFl
>>533
これはわかるなー
貧乏時代の立花宗茂が干し飯に頓着しなかったのを家臣が喜んだように
竹千代が卑屈に育ってないのがうれしかったんだろ
小さい子でもこういう時、どんな反応するかって、その子の性格によってぱっきり分かれるから

544:人間七七四年
10/04/25 10:42:14 SWa8da0B
>>541
小田氏治がやれば「さすが菅えもん!ほんとなんでついていくんだろうwww」
真田家の誰かがやれば「またお兄ちゃんの寿命が…」
鬼武蔵がやれば「血が流れない…だと!??」と驚嘆

現代人からすればここのスレの住人の思考パターンも十分かわりづらいと思われる


545:人間七七四年
10/04/25 10:51:00 jw1Ad2ju
攻撃?いいえ物見です

ラスボスの朝鮮征伐の頃
ある日、藤堂高虎は夜陰に乗じて敵に近づき数隻の敵船を奪って帰ってきた。その翌日も同じ手口で敵船を奪ってきた。
秀吉の命もなく行なったこの行動は、軍令違反だった。しかし敵船を奪ってきたことから手柄とされた。
これに、高虎をライバル視する地味な方の加藤こと加藤嘉明が悔しがった。
(高虎を上回る功を挙げたい、しかし高虎のせいで締め付け厳しく抜け駆けは難しい・・・)
悩んだ嘉明だったが、何かを思いついたのか部下の塙団右衛門に物見の船を出させた。
普通、物見は戦闘は行なわない、ある程度の距離から敵を偵察するだけである。これなら軍令違反にはならない。
だが団右衛門はドンドン敵に近づいて行く。これに嘉明は慌てた。
「イカン!近づき過ぎだ!団右衛門、船を戻せ!」
しかし聞こえないのか団右衛門は船をなおも進めた。
ついに嘉明は「ちょ、待てよ!待てって軍令違反になるってば!」と言いつつ自分も船を進めはじめた。
嘉明の部下たちもすわ殿の一大事とばかりに一斉に船を進めた。

何の事はない。嘉明の軍は、「戻れ、戻れ」と言いながら敵に一斉に遅いかかったのである。
この不意打ちに敵は大混乱。団右衛門を先鋒とした嘉明軍は大活躍し、戦いらしい戦いもないまま敵船数十隻を奪い意気揚々と帰還した。
抜け駆けした事にかわりなく軍令違反となるのだが、もし秀吉がせのことを質せば、嘉明はこう答える気であった。
「攻撃したわけではありません。物見に出した部下がドンドン敵に近づいてっちゃうもんでそれを止めようとしたら敵船が目の前にあっただけっす」
「ええ。抜け駆けする気なんてこれっぽっちもありませんでしたよ(棒)」

546:人間七七四年
10/04/25 11:15:44 jw1Ad2ju
×遅い→襲い
×せのこと→そのこと

誤字が酷いちょっとガラシャにチョッかいかけてくる

547:人間七七四年
10/04/25 12:10:24 GQq7cyG7
>>533
これが、数十年後の大事の伏線になっていたのか…
あの伏見城の一件に比べたら、確かに小事中の小事だな

548:人間七七四年
10/04/25 12:27:16 nCO0cpQx
新聞に挟まっていた地域誌に、家康が鷹狩りの際に利用していた御成街道の記事があった
こういうのって載せちゃっていいのかな
いいのなら要約して投稿してみようかと思うんだが…やっぱりマズいかな?

549:人間七七四年
10/04/25 12:36:49 Pn+Zz4+j
祖父も父も家臣に殺されてるのに岡崎留守番家老の息子に暴力を振るとか、
そりゃいい度胸してると褒められるわな。

550:人間七七四年
10/04/25 13:01:39 MrUairx3
>>545
塙団右衛門にぴったりの役だな。w

551:人間七七四年
10/04/25 14:07:03 SWa8da0B
>>548
いいんじゃね?
よくわからんけど教えて欲しいとは思う

552:人間七七四年
10/04/25 14:08:58 t96VY1Ok
天庵主従のちょっといい話。

我らの小田”フェニックス”氏治は意外と風雅人で、
たとえばこんな歌を詠んでいる。

「うき事はよのならはしとつゝみても袖にもりくる我涙かな」
「身を捨てゝおのが心にかくれなん心の奥とてうきはいとはじ」


そんな彼に野長瀬入道鈍斎という家臣がいた。
あるとき鈍斎は主の甲冑を身につけて戦うことになった。
その際に氏治と交わした歌が残っている。

鈍斎「君がため今ぬきかへる衣手を後の世までのかたみとぞ見る」
氏治「わがために替る衣は薄くとも契りて朽ちし後の世までも」

やがて鈍斎は氏治の身代わりとなって土浦で討死した。

553:人間七七四年
10/04/25 14:21:52 Zbsz1Epr
家康の身代わりで討たれる→名誉の戦死

氏治の身代わりで討たれる→完全に犬死・・・


554:人間七七四年
10/04/25 14:26:04 t96VY1Ok
>>553
つか、最初から身代わりで死ぬつもりで
氏治の甲冑着たらしいです。
言葉足らずですまん。

555:人間七七四年
10/04/25 14:32:01 huEyn0UU
野長瀬鈍斎って源平合戦で源氏なのに平家につき、南北朝でひたすら南朝につくした
近露の野長瀬氏と関係あるんだろうか?

この報われなさは通じるものがあると思うんだ

556:人間七七四年
10/04/25 14:32:04 2h+iFDNG
最初から負け戦前提なのかよwww

557:人間七七四年
10/04/25 15:26:16 E4kAPkQi
スレリンク(sengoku板:386番) の続き

大坂の陣打ち上げ会で黒田長政が宴会ムードをぶち壊した直後のこと、
寺沢広高が用を足しに行こうとして縁側の障子を開くと、1人の若侍が臨戦態勢で控えておりました。
広高は名を問うと、若侍は言いました。
「黒田筑前守が家臣、栗山大膳と申す者でござる」
広高は、なるほどこの若者があの栗山備後の跡継ぎかと感心し、席に戻ってから長政に言いました。
「さすが黒田殿は頼もしい家臣を抱えておりますな。もし、うちに譲ってくれるなら高待遇で迎えたいところです」
家臣が褒められたことに長政は顔を綻ばせながら、
「かの者は我が家の譜代の臣でこちらからクビにすることはまずないですが、
 もし、好条件で引き抜きの話があったとしても、黒田家を離れることなど絶対にないでしょう」
と言って断りました。

ここで終わるといい話のような気がしましたが、その後の顛末を考えると悪い話だったかも……


558:人間七七四年
10/04/25 15:39:05 ekl2stEj
>>551ありがとう、上手く要約出来てないが投稿してみる


東金御成表道


徳川家康が鷹狩りをするために築かせた東金御殿の庭池として整備された、千葉県東金市の八鶴湖。
その東金御殿があった場所は御殿山と呼ばれ、湖畔にある県立東金高校横に入口があり一般公開されている。

船橋から東金に至る「御成街道(約34km)」の終着点が東金御殿と言われているが、正確には国道409号線(東金道)までで、
当時の人々はそこから先、どの道を通って御殿まで辿り着いたのか定かではない。

東金市油井の旧蚕糸センター付近には道祖神があり、市教育委員会が作成した看板には、
「日吉台方面へ行く道と、大豆谷(まめざく)方面へ行く道との二手に分かれる地図」が描いてある。
道祖神には「是より下ハ東金道」と刻まれており、その方向の細い道を通って行く道が「表道」、
日吉台方面に向かう車道の方が「裏道」だったということが分かる。
この「御成表道」入口は「おあし坂」と呼ばれたそうで、坂道が急なために歩幅を大きくとって行き来した、
「大足(おおあし)坂」に由来するそうだ。
かつて東金から江戸や佐倉方面へ上る幹線道路として最も人の往来があった道だとされるが、
現在地図に載っていないだけでなく、十数年前の倒木により篠竹が生い茂って通行不可になっていた。

しかし昨年12月、東金商工会議所の建設業部会が会議所50周年事業として復元作業に取り組み、
かつて家康・秀忠・家光が通った「おあし坂」が復元された。

その後、建設業部会のメンバーを中心にNPOが設立、
「おあし坂」が将来寸断されてしまうことのないように維持・保全活動を続けていくことに。
また「おあし坂」だけでなく、八鶴湖・御殿山に至る東金御成表道を地域の文化遺産として広く周知して行こうという
呼びかけが広がり、家康鷹狩400周年を間近に控えたご当地のつながりを強めている。


あんま家康関係なかった、問題があればまとめには載せない方向で…

559:人間七七四年
10/04/25 21:27:06 CG4LZjqw
いい話だ

国松は乳母の再嫁先である若狭の砥石屋弥左衛門の養子となった。
これは秀頼の正室である千姫をはばかったものと見られている。

大坂冬の陣が起こると、秀頼の隠し子との詮議を受けぬよう、
常高院と共に大坂城に入城。
その後、和議が整ったのでそのまま滞在した。
翌年の大坂夏の陣のおり、国松は父の秀頼と5月8日に盃を交わし、
乳母某と田中六郎左衛門(京極家侍、傅役か)と共に城を落ちる。

しかし、徳川方の捜索により国松は京都所司代板倉勝重のもとに連行され、
5月23日、市中車引き回しの後、六条河原で乳母某と田中六郎左衛門と供に斬首。享年8。
田中六郎左衛門は京極家の者として死罪を免れ得たものの、自ら志願して同時に処刑されたという。

560:人間七七四年
10/04/25 21:45:36 jBu0Nxhl
>>558
引用は認められているから情報元、この場合地域紙の名称と年月日を書いておけは問題にならないんじゃね?
まぁ多分大丈夫だけど
文化財の保護って大切だよな

561:人間七七四年
10/04/25 22:49:44 iFtdcAv/
>>559
これも殉死だねえ
最後まで「私がお供してますから何も怖いことありませんよ!」って
力づけてたんだろうな・・・

562:日本のうた三代(一)
10/04/25 23:26:58 k5rcCOPo
永禄11年(1568)12月、愚谷軒日新斎こと島津忠良没す。享年77。
島津宗家を巡る内紛を鎮め、「いろは歌」等による教育を推し進め、優秀な孫や家臣団を育て、
「島津家中興の祖」と言われる男の逝去。
ある者は哭涙し、またある者はその死を悼む歌を詠んだが、島津貴久の詠んだ歌は、少し違った。


つくづくと 思ふに少し 慰むは 乱れぬ人の をはりなりけり


皆が「偉大な日新公」の死を惜しむ中、実子の貴久だけは「人間・島津忠良」の、
畳の上での穏やかな死に安堵していたのだろうか。

563:日本のうた三代(二)
10/04/25 23:28:01 k5rcCOPo
天正15年(1582)、島津義久は豊臣秀吉に降伏し、人質として娘・亀寿を差し出した。
翌年、義久は上洛して秀吉に謁見し、薩摩に帰らんとする際、取次役の細川幽斎に手紙を託した。
「これを、娘に渡してくだされ・・・」手紙には、義久の詠んだ歌が書かれていた。


二た世とは 契らぬものを 親と子の 別れむ袖の あはれをも知れ


幽斎は、この歌を秀吉にも見せた。
子を想う親の歌は独裁者の心をも動かし、亀寿は解放されたという。

564:日本のうた三代(三)
10/04/25 23:29:55 k5rcCOPo
加治木黒川岬は古くから名勝として知られ、島津義弘に仕えた僧・鳳山明釣が、晩年この地に
「鳳山軒」という庵を結んだ。義弘の子・島津忠恒も、この名勝を愛して、鳳山軒をたびたび訪れた。

ある時、忠恒は黒川山に咲いた花々が、鏡のごとく輝く波間に映り込んだ絶景を、錦に例えて歌に詠んだ。


浪のおり かくる錦は 磯山の 梢にさらす 花の色かな


鹿児島湾の別称「錦江湾」の名は、この忠恒の歌より起こったと言われる。

565:人間七七四年
10/04/25 23:33:03 jBu0Nxhl
薩摩のイメージとは裏腹に意外に文化人なんだよね

566:人間七七四年
10/04/25 23:37:36 6SGBSgU4
>>563
後年、義久は幽斎から古今伝授受けているね。

567:人間七七四年
10/04/25 23:44:39 1Q0VTd6f
>>563
>天正15年(1582)

1587年ではないかと。

568:人間七七四年
10/04/25 23:51:00 jBu0Nxhl
実際オタだったり童貞だったりニートだったり引きこもりだったりなんてのは2chでも極一部だろ
1000万も利用者いるんだから

569:人間七七四年
10/04/25 23:51:50 jBu0Nxhl
誤爆スマン

570:558
10/04/26 00:08:15 TxL+O1Qb
>>560
引用元を記載するか迷って結局載せなかったんだけど、やっぱり必要だよねorz
引用元は街波通信(vol.61)です

>>563
子を思う親の気持ちはいつでも一緒なんだな
義久って亀寿を結構可愛がっていたんだっけか






571:人間七七四年
10/04/26 09:33:41 hC827Vq+
それがあんな目に合わされたと思うとやるせないな・・・・・・・

572:人間七七四年
10/04/26 12:08:03 c3DPkbUh
>>565
ぶっちゃけ義久はかなりの和歌を残してるから、百人一首ならぬ一人百首できちゃうよ!
千首はあるんじゃね?ってくらい多いんだよな

573:人間七七四年
10/04/26 13:17:28 snjsCdE3
鬼武蔵が一人百首というと別の意味になるな。

574:人間七七四年
10/04/26 13:20:27 TdvYlv5L
ほそ
なんでもない

575:人間七七四年
10/04/26 13:40:32 hC827Vq+
>>574
お主は37じゃ

576:人間七七四年
10/04/26 14:19:21 o68/EvpO
>>565
「鎌倉からの旧家」と考えればあまり意外でもない気が。

日新斎のそういった趣味に
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
「眉剃り+眉書き+おはぐろ」というファッションも含めると九州の今川義元かな…と思えてくるw

577:人間七七四年
10/04/26 15:41:52 Ookh1UvF
「最先端=将軍のいる京都文化」という括りならそうなる。

商業的には九州のほうが圧倒的に実入りがいいはずなのだが。


578:人間七七四年
10/04/26 16:13:16 Cn+MyUs3
近衛信尹が薩摩に流されてきた時も義久から厚遇されて
歌やら書やらの教室作ってたとかいう話もあるよな

579:人間七七四年
10/04/26 17:15:11 rfll8d8g
数日磨かないだけで歯がまっ黄色になるのを見るにつけ、
お歯黒つけっぱなしって結構合理的なんじゃないかという気がw

眉剃り+眉書きについては、現代人もあと一世代で
平安時代人的な麿顔のことを悪く言えなくなると思うw

580:人間七七四年
10/04/26 17:50:20 P1g0sYrd
後は、ぽっちゃり=美形のイメージを刷り込む

581:人間七七四年
10/04/26 18:15:07 LWj6fjLc
今川義元は歌は苦手で、あくまで付き合いの為にやってたんじゃないかって話があったな
息子がそっちに精出してるの見て、そんなものなんの役にも立たんとか言ってるし
なんかイメージ台無しだ

582:人間七七四年
10/04/26 18:23:28 VDtS0cwY
義元の麻呂っぽい馬鹿殿イメージってどっから来たんだろうな。

583:人間七七四年
10/04/26 19:39:24 zVts7mWH
義元の他に周防のお屋形様や越前のお殿様等、
京文化に深い理解を示した有名どころの大名がどれもあまりいい死に方をしなかったので
京文化(に傾倒)=麻呂=馬鹿殿になってしまった
特に信長・秀吉・家康に関わっており、一番知名度のある義元が麻呂の代表に

584:人間七七四年
10/04/26 19:53:49 avnozgPk
しかも今川家は足利庶流の中でも吉良家に次ぐ上位の家格だし、大内氏も平安後期には名前が登場するくらい古い家柄。
そういう名門が没落していく状況だから、余計に「馬鹿殿」っぽいイメージを付与されてるんじゃね。

585:人間七七四年
10/04/26 20:11:01 7KfSxoWL
どうも今川義元の麿イメージは、やはり江戸歌舞伎の桶狭間物から来ているみたいね。

586:人間七七四年
10/04/26 21:44:53 FQL9z4z0
>>437で心配されてばっかなのも何なので逆に心配してる手紙を、
まとめ管理人氏もオススメの「伊達政宗の手紙」より


ご病気は、その後どうですか?心配してます。腫れ物が出来たとの事で、お気の毒に…
喜庵に言って作らせた薬を、同封しておきます。
あと、嬉しくもないだろうけど、君の事を狂歌に詠んでみました。あ、怒らないでねw
(原文:うれしくもおぼしめさず候や、一首まいらせ候。御はらだち候まじく候、々。)

そらはれて のどかにみゆる 世の中に そのみのかさは 何のようぞや
(天下は晴れ渡る空のように太平なのに何で君は、みのかさ(蓑笠・身の瘡)が要るんだい?)

我ながらヒデェ歌だけど、これもひとえにキミの事を心配しての事ですので…

長兵衛殿(桑山元晴)へ  政宗より


病床の友人に、せめて一笑を届けんとする政宗のいい話…なのだが、「喜庵」って
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
高屋喜庵さんだよね?実在の人物だったのかw

587:人間七七四年
10/04/26 21:50:45 BwWbNMz2
>>585
最近はそういった麿イメージを払拭するタイプの描写が増えてるというのは義元のいい話かもな

588:人間七七四年
10/04/27 04:34:24 wOoiajHM
大道寺の旗指物

関東管領上杉憲政の家臣に本間近江守という者がいた。彼は長野業政の命をうけ、
スパイとして北条家に仕えた。
数年後、首尾よく北条家の軍事、行政の内部情報を入手すると、無事帰還した。
そして主君上杉憲政に北条の内情を報告し、攻め込むよう再三献策するが、さすがは戦国を代表する暗君
だけあってか、かえって五月蝿く思われ遠ざけられる結果となる。

天文15年、上杉、北条の明暗を分ける河越の夜戦が勃発
北条の夜襲により、上杉方の将兵が大混乱に陥り、逃げ惑い、あるいは討ち取られたりする中
本間近江守はここを死に場所と思い一歩も引かず、奮戦。北条家に潜入した際に友人となった
大道寺駿河守直宗と槍を交えた。槍では勝負がつかず組み打ちとなるが、とうとう近江守は力尽き
首を取られそうになる。その間際
「友人であるおまえに討ちとられるのは何かの縁であろう、死んでも悔いはない。ただ我が家の旗指物は
先祖より伝わる大事なものなので、これからも伝えて欲しい」
と言い残し首を斬らせた。

これ以後、大道寺家では本間近江守の旗指物を使うようになったという。
有名な大道寺家「九つ提灯」の旗指物の由来である

589:人間七七四年
10/04/27 10:45:23 uBL/fxAh
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
の別パターンか

死に場所を得て歴史に名を刻んだのは本間さんにとって幸せだったのか不幸だったのか…

590:人間七七四年
10/04/27 11:52:52 /gpPlFB7
信玄のかませ犬の息子

1537年武田信玄が初陣で平賀成頼(源心)を討ち取ったことは知られていますが、
その嫡子平賀清恒は家を再興することができず姉の嫁ぎ先の冷泉隆豊を頼り周防に落ち延び
大内氏に仕えたといわれます。
その後、大寧寺の変で主君が死ぬと長門の厚狭に落ち延び帰農しました。
3年もの熟考した末に鉱山にわらじを運び、鉱夫のわらじと交換することで
わらじから砂金を集め莫大な資金を手にしたとされます。
彼はこの資金を開拓に用いました。
厚狭川を堰き止め、千町ヶ原に水路をひき灌漑をおこなうことで貧しい一帯を美田へと変えました。
村人は彼を讃え祠を建てて寝太郎権現と呼んだと言われます。

あの有名な三年寝太郎のモデルです。
記録が残っておらず三年間寝て過ごしたり、当時発見されていない佐渡金山で稼いだなど
尾ヒレがついており信ぴょう性は薄いおとぎ話ですが、寝太郎堰は実在します。

その後は弟の白石国長とともに伊達氏に仕官したとも言われています。

591:人間七七四年
10/04/27 12:38:34 JbOTn5M2
寝太郎にモデルがいたなんて厚狭在住のオレも知らなかったよ。
山梨あたりから落ち延びて来たなんて、相当な苦労があったんだろうなぁ。

592:人間七七四年
10/04/27 12:50:28 EEKCZLGB
逆に山本菅助は、元々大内被官で山口から甲斐に行ったと言う話がある
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

山県昌景も安芸から親戚の飯富虎昌を頼って甲斐に行ったという話がある。
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

593:人間七七四年
10/04/27 15:05:19 iTvve1Zt
>>588
柳生宗矩と坂崎直盛の逸話みたいなものか。
あっちは家紋を自主的に引き継いでたがいい話ではないな‥

594:人間七七四年
10/04/27 17:18:53 f0iwQvBu
>>592
戦国時代ってローカルで固まってたイメージが強いけど
意外と東西交流は盛んだったのかな

595:人間七七四年
10/04/27 17:52:59 g6xtPGBm
>>588
でも大河ドラマの風林火山では北条の2重スパイとして河越城に矢文を送って外部と連絡させたりしたのに
夜襲のとき味方であるはずの清水吉政に普通に斬り殺される意味不明の人でしたw

どう勘違いすればあんな脚本を書けるんだろうか?www




596:人間七七四年
10/04/27 18:54:05 SuQi77fi
>>594
まあ、武将と言っても浪人してたら往来は自由だったんじゃない?
立花宗茂なんて敗戦後に江戸に定住したくらいだし。

597:人間七七四年
10/04/27 19:05:03 aHO8ALPh
平賀玄信が滅亡後、一族は奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。明治維新後は、平賀家に復姓。

平賀玄信は架空説がでているけど
いちおう平賀一族は実在するようだな。

598:人間七七四年
10/04/27 19:25:36 rgZoDHcf
>>590
いいね、こういう話

599:人間七七四年
10/04/27 20:56:06 G2ARq0Kd
>>594
明智光秀が大友の城の縄張りしてたってのもあったよな

600:人間七七四年
10/04/27 22:00:49 89+0Pbdk
>>590
寝太郎の起源譚ってあるのかあ
おもしろいな

601:人間七七四年
10/04/27 22:10:05 r8avHdVu
三河一向一揆の瓦解の後本多正信は京に逃れ、松永久秀を頼った。

久秀が正信に会ったあと傍らの者を顧みていうには
「徳川家から逃れてくる侍をたくさん見ているが、その多くは武勇のやからである。
 ところがこの正信だけは強からず、柔らかならず、卑しくもない。
 必ずや尋常の者ではあるまい。」と感心したという。

『藩翰譜』

602:人間七七四年
10/04/27 22:23:24 MFF7Oht3
>>592
相木市兵衛が山中鹿之助の縁者ってのもあるしな

603:人間七七四年
10/04/27 22:31:34 EEKCZLGB
戦国期の大名の交流といえばこれすごいびっくりした

朝倉氏遺跡でガラス玉、工房出土 日本海交易に一石
URLリンク(www.fukuishimbun.co.jp)

>  同理事によると、当時北海道のアイヌ民族はガラス製品や刀装具を好み集めていたという。
> 北海道では室町時代の越前焼が見つかっており「越前焼などとともに『交易品』として送っていた
> 可能性がある。その代わりに毛皮や金、昆布などを得ていたのではないか」と話す。
>
>  一方で、川越主任調査員は「義景にごく近い上級武士が、ガラス玉を琉球との交易品に
> しようとしたことも考えられる」との見方を示す。
> 朝倉氏は琉球との交易を図ろうと、島津家に仲介を求める書状を送っていたことがあるためだ。


北海道から沖縄まで見据えた交易戦略、朝倉すげえ。

604:人間七七四年
10/04/27 23:11:46 rsAh2NS8
>>603
古代から朝鮮半島と交易してるような所だからそれほど驚く事じゃないと思うが
NHK教育の受け売りだけど

605:人間七七四年
10/04/27 23:15:59 Nh8clTiz
日本海交易なんてもう鎌倉時代ぐらいからそんぐらいの距離移動してんだろ

606:人間七七四年
10/04/27 23:20:53 W1WCKDIO
十勝とか神津島の黒曜石が日本各地から出土してるんだから縄文時代からそのくらい常識だろ

607:人間七七四年
10/04/27 23:55:00 5DzPBNlb
>>595
ドラマだと本心では憲政より氏康がいいと寝返ってたけど、
二重スパイしてたのがばれたら生き延びても恥だから
北条に殺されることで討ち死にとして
家の名誉を守ろうとした
清水もその気持ちを汲んで斬り殺したって筋だったけど。

608:人間七七四年
10/04/28 00:34:08 hjHXUO1L
>>607
>清水もその気持ちを汲んで斬り殺したって筋だったけど。

DVD見たが乱戦中清水にいきなり斬りかかって返り討ちにあっただけだぞw
まあ、斬ったあとによくやったみたいな言葉はかけてたけど

609:人間七七四年
10/04/28 00:48:56 0tgPjgEh
鬼武蔵「いきなり斬りかかることに何か問題でも?」

610:人間七七四年
10/04/28 00:57:33 8fQJ7SoK
さすがにこれは読解力なさ過ぎ

611:人間七七四年
10/04/28 02:01:50 Q3kVXbvQ
1553年甲府において浄土宗と日蓮宗の間で宗論が行われた。
その際、武田晴信は日蓮宗徒の原美濃守虎胤を呼び
「日蓮宗では念仏を唱えると無限地獄におちるというが、今後は浄土宗を信仰し南無阿弥陀を
唱えろ」と改宗を迫った。

しかし虎胤は
「念仏を唱えれば地獄に落ちるなどということは信じていませんが、開祖の教えに背くことは
主命に背くことと同じなのです。ですから命を失っても念仏を唱えることは出来ません」
と断り退席した。

晴信はたいそう怒り改易としたので、虎胤はしかたなく甲斐を去りつてを頼って小田原へ向かった。
小田原の北条氏康は名将と名高い原美濃守が城下にいると聞くとすぐさま召し抱え厚遇した。


翌年、甲相駿三国同盟がなると晴信は氏康に対し
「今貴殿に仕えている原美濃守は父信虎の代より二代にわたり武田に仕えた忠臣です。
主命に背いたので懲らしめましたが、今では非常に残念な事と思っております。
同盟がなったあかつきに、是非ともお返ししていただくようお願いします」
と原の返還を願った。

氏康は承諾し原虎胤は武田家に再び仕える事になったという。


武田晴信の(調子の)いい話。



612:人間七七四年
10/04/28 07:39:38 Qn3R4d6U
氏康いいひとだー

まあ、本人が武田に帰りたいなら、返した方がよかったのかもしれないが。

613:人間七七四年
10/04/28 07:48:15 AFxO8mtZ
佐渡「主君と信仰なら普通信仰を選ぶよね」

右近「当然」

614:人間七七四年
10/04/28 08:30:38 clqeCX9g
三好某「部下と信仰なら普通信仰を選ぶよね」

大友某「当然」

615:人間七七四年
10/04/28 08:41:08 lSFRu++m
>>612
最悪のタイミングで寝返られるかもしれないし、素直に返した方がいいよな

616:人間七七四年
10/04/28 08:56:52 gxptF6Ur
無くなってみると惜しくなるものってあるよね、別れた元カノとか・・・

617:人間七七四年
10/04/28 09:38:00 saXm2ypu
某某某「元カレとか…」

618:人間七七四年
10/04/28 10:12:51 0FNwBuG+
取られた槍じゃ!

619:人間七七四年
10/04/28 10:35:23 hJpbisfZ
宗教を上手く扱う事に定評のある信玄にしては珍しいミス
こういうことから学習していったのかな

620:人間七七四年
10/04/28 10:50:02 JSNxsQu8
甲斐は日蓮宗の総本山身延山久遠寺もあるし、初代鬼美濃以外にも信者は
いそうだが他は大丈夫だったのかな

戦国時代の宗教勢力というと本願寺が思い浮かぶが、教義の排他性とか考えると
危険度は日蓮宗の方がかなり高めだよね。

山科本願寺を焼き討ちして京都から本願寺勢力を駆逐したのも町衆の日蓮信者だし。

621:人間七七四年
10/04/28 10:59:27 tDbTNw2V
悪い話スレ常連の忠興公は、
家臣にけっこうキリシタンが残っていたそうで、
徳川の目が厳しくなるたびに、
「お前ら目立つんじゃないぞー。目立つんじゃないぞー」
とかやってたらしい。
お玉ちゃんの件とかで、「忠興の知らないうちに家臣にもお玉経由で広まり」とか、
(特に女性作家から)ぼんくらあつかいされることも多いが、
実際にはそれなりに寛容さを持っていたことと思われる。

というかお玉ちゃん関連でアレなのは認めるが、
女性作家陣の書く、ひきたて役のような忠興も、「ちょっとソレどうなのよ」という感じはする。
性格的にはキチガイでも、能力的にボンクラなヤツが、
織田→豊臣→徳川と生き残って、あそこまで高禄をはむわけもなかろうに。

622:人間七七四年
10/04/28 11:09:27 pWZ4PIB1
>>621
人間間の交流や堀り下げや描写するときに
性格アレじゃ庇いようもないってことじゃ?
特に夫婦間や恋愛関係を描くときには

それこそお玉ちゃんを
「男は稼いでこそナンボ。
しっかり稼いできさえすれば猿でも構わない」ってタイプとして描くなら別だけど

623:人間七七四年
10/04/28 11:13:33 NT6E9+f5
>>620
法華宗の危険性は信長も感じていて、安土宗論ではわざと浄土宗側を勝たせて二度と他の宗派に
いちゃもんつけないように起請文書かせてる。


624:人間七七四年
10/04/28 14:25:49 Hy+Yaeaf
「忠興の知らないうちに家臣にもお玉経由で広まり」ってのは意外だわ
完全に監禁されてるようなイメージあるんだよねお玉は

625:人間七七四年
10/04/28 14:46:48 srBzfHkr
>>624
それだと興秋は産まれてこないよね?

626:人間七七四年
10/04/28 15:26:16 MzHpp9Ux
>>623
信長自身は法華宗徒だけど政治的な問題になれば別なんだろうね。

法華宗といえば三河一向一揆のときに家康についた大久保一族はガチガチの法華宗で
「妙法蓮華経」の旗を押し立てて戦ったとか。

>>624
座敷牢にいれられているわけでもないから
侍女やら茶坊主やらを通じて広まるんじゃないかな。

627:人間七七四年
10/04/28 17:39:41 Hy+Yaeaf
庭師でさえ、お玉を見ただけでぶった切られるような家中で
奥方が信仰してるらしいぜ!俺も俺も!ってな感じで広まるのを
忠興的に許せるのかな?って思っただけなんだけどね。
まあ逸話に毒されすぎってのもあるけど。


628:人間七七四年
10/04/28 17:52:26 yMaGi2ZF
>>623
安土宗論が八百長だってのは、日蓮宗側の史料にしか証拠のこってないけどね。
信長公記の安土宗論に関する記録には、正々堂々と議論して、日蓮宗が敗れた顛末が書いてある。
負けた日蓮宗が腹いせに記録を捏造した可能性が高い。

629:人間七七四年
10/04/28 18:12:27 S+WRvLRT
お玉が信仰しているとなぜ知ったのだ、さてはお玉に会ったのだな?

Yes→「痴れ者め、食らえ!」Dead end
No→「主に嘘をつくか、この慮外者が!」Dead end

630:人間七七四年
10/04/28 18:25:58 SKJR5Tmv
奥方様も洗礼受けるほど、細川家内にキリシタンがいたという方が現実的に思える

631:人間七七四年
10/04/28 18:51:40 YDvT1Ix1
たまちゃんにキリスト教を教えたんだかは、忠興本人だっけ?

オヤジさんの事やらなんやらでふさぎ込んでるたまちゃんに、
少しでもの慰めになればと色々な話を仕入れては語ってたけど、いまいち反応がよくない。
しかしキリスト教の話には結構興味を示したので、黒田のオヤジさんやらに話を聞いてどんどん教えてたとか・・・
でも、屋敷を抜け出して洗礼さるとまでは思ってなかったらしいwww

632:人間七七四年
10/04/28 18:53:30 YDvT1Ix1
出典やら聞かれても覚えてないし、そもそも記憶もいい加減だから、与太話程度に流してね・・・

633:人間七七四年
10/04/28 20:01:55 IIg7l/a5
忠興がキリスト教話を仕入てた相手って官兵衛だったの?と聞いてみる

634:人間七七四年
10/04/28 20:30:53 Ma8DqRmI
ゲヒ経由で高山右近あたりは?

635:人間七七四年
10/04/28 21:22:28 lSFRu++m
切支丹の侍女が神父の代理として洗礼与えたんじゃなかったっけ

636:人間七七四年
10/04/28 22:23:32 RdlRXw4l
神父?
男だね?
男なんだね?

斬る!

637:人間七七四年
10/04/28 22:58:09 KwKVFK4V
>>621
>女性作家陣の書く、ひきたて役のような忠興
忠興関連のフィクション読んだことないけど、そんな扱いなのは意外だ。

いい悪い話スレの逸話読んだ程度だけど、そこから浮かび上がるのは、
「有能で血筋もいい・聡明でプライドも高い」っていう似たもの同士の人物像。
二人とも、一家一国を率いる者としての度量(寛容さも含む)に気構え、覚悟と誇りを同じように持っている。
多分、忠興が感受性の強い繊細な芸術家タイプじゃなければ、
あるいはガラシャがもうちょっとだけ母性が強いタイプの女だったら、
国を経営する上でも夫婦としてもお互いにとって最高のパートナーになれたと思う。

ただ、忠興にとってガラシャがいい女過ぎるため、ピーキーな側面が強く出て愛情が執着になり、
精神的にも物理的にもガラシャを束縛する傾向が。
一方ガラシャは、忠興が執着するほど気高いからこそ束縛を愛情だと喜べるはずもない。
また(愛情ゆえとはいえ)我儘で理不尽な独占欲を許し受け入れるほど母性が強い訳でもない。
ガラシャも忠興の事好きだったと思うんだよな。だからこそ忠興の理不尽を許す訳にはいかない。

ほんの少しのすれ違いからお互いがお互いを追い詰めていく、負のスパイラルにはまった悲劇の夫婦って気がする。

638:人間七七四年
10/04/28 23:10:39 4ebC+u2j
神父「善良ナルガラシャ様ハ日本デモ有数ノ暴君ノ妻デシタ…」
マリーアントワネット「まあ、なんとひどい夫もいたものでしょう!」

海を越えてもこうだからなあw

639:人間七七四年
10/04/29 01:02:19 YbE3qP2i
逆に

「パンがなければお菓子を食べろなんていう王妃がいたってよ」
「エエー、なんて酷い王妃なんだろう!」

てなことになってるのでおあいこ。と言うか何と言うか。

640:人間七七四年
10/04/29 04:08:58 FAZ1PU0n
>>637
司馬遼太郎の短編の描写はそんな感じだった。
最初からこの二人が合うはずがなかっただか、この二人に幸福な結末はありえなかっただかみたいな書き出しになってた。

641:人間七七四年
10/04/29 09:11:42 rfRrl9Gq
ガラシャさんは幸村さんと同じ匂いがする。
中の人とは違う人物像が作り上げられた感が否めない

642:人間七七四年
10/04/29 09:44:12 mVOp0oye
講談からのイメージですからねえ

○○家家録みたいなのも大概はアレですけど

643:人間七七四年
10/04/29 09:44:39 55P0JN3H
>>630
島津は光久の祖母がキリシタンで種子島に流されたとか

644:人間七七四年
10/04/29 10:29:29 9CX23hr5
>>637
>「有能で血筋もいい・聡明でプライドも高い」っていう似たもの同士の人物像。
>二人とも、一家一国を率いる者としての度量(寛容さも含む)に気構え、覚悟と誇りを同じように持っている。

宗茂とギン千代たんもそうだな

>多分、忠興が感受性の強い繊細な芸術家タイプじゃなければ、

宗茂は感受性は強いかもしれないけど、繊細さは感じられないな

>あるいはガラシャがもうちょっとだけ母性が強いタイプの女だったら

ギン千代はなんだかんだ母性は強いほうだと思う

>国を経営する上でも夫婦としてもお互いにとって最高のパートナーになれたと思う。

残念ながら三斎の友人夫婦が君の考えを粉々に砕いてしまったよ…

645:人間七七四年
10/04/29 11:02:16 IEzq2Hcm
>>557
遅レスだがそこは直接的に拒絶するんじゃなく、もう少しエレガント(?)に断りたいものだ


江戸城の天下普請の際、視察に訪れた寺沢広高は、相役の福島家中に機敏に働く若者の姿を目に止め、
同じく視察に来ていた福島正則に声をかけた。
「あの若侍、出来るな!どうだ、当家に譲っては下さらぬか?」
正則は、笑って答えた。
「おお、それしき易きことよ。ただ、あの者は当家で長らく使っている者の息子で、ゆくゆくは父親の跡目をも
取らせようと思っておったところだ。よって、あれの親の分限ほどは、知行を与えてやってほしい。」
「ほう?して、あの者の父親とは?」
「尾関石見にござるよ。」
「え・・・」

[ 福島正則家老、尾関石見守正勝=郎党分含めて二万一千石・手取りだけでも一万二千石 ]
[ 肥前唐津領主、寺沢志摩守広高=十二万石 ]

「こ、この話なかった事に・・・ナハハハ・・・」
「おや、そうか?それは残念!ガハハハ!」
「「 ハハハハハハハハハハ!! 」」


市松だって、たまには誰かをやりこめたい。
にしても寺沢さん、そんなに節操なくスカウトしなくちゃならんほど人材が不足してたんだろうか?
後の顛末を思うと(´・ω・`)

646:人間七七四年
10/04/29 11:04:24 0m6Wm38f
これは珍しい市松

647:人間七七四年
10/04/29 11:09:05 QzdzjB9J
>>644
宗茂とギン千代の場合は
家中における立花系・高橋系の家臣たちの存在もあるんじゃないかな。

648:人間七七四年
10/04/29 12:04:23 nVaFuUxl
酔ってない時は出来る子の市松

649:人間七七四年
10/04/29 12:23:57 qPeJ7mmA
でも、素面の時が凄く少ないんですよね・・・

650:人間七七四年
10/04/29 15:07:37 NHdKL/sT
>>639
あれって、当時のフランスの法律で、パンが高騰したら、
一部のお菓子を値下げしないといけないと決まっていて
マリーの真意は「お菓子の値下げに踏み切るように」ということらしいけど
政治家は上手く言葉尻を捕らえるなーというか
根本的には民想いだけど浪費を止められないマリーが悪いというか

651:人間七七四年
10/04/29 15:21:04 b4R9vRSD
あれは捏造というのが最近の定説
ルソーの『告白』に"家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公婦人が答えた”ことを思い出した、とある
カーの本でも元ネタはトスカーナ大公国の公爵夫人と書かれてるし
あの辺は貴族の妬みと革命政府のバッシングが混じって良く解らなくなってるな

652:人間七七四年
10/04/29 15:21:24 +2GpVlu0
>>650
そもそもその話は、マリー・アントワネットがフランスへ来る前、すでに刊行されていたルソーの著作に記載されていた事だし

653:人間七七四年
10/04/29 16:28:46 93CiqF2l
米粥がなければ肉粥を食べればいいじゃない。

654:人間七七四年
10/04/29 16:30:08 EMOe7kk/
糒だろjk

655:人間七七四年
10/04/29 16:56:10 QeJQ5ZHu
西晋の恵帝「米がないなら、肉を食べらればいいのに。」

656:人間七七四年
10/04/29 19:24:59 PPrsina6
>>651
絶対王政期の一般的(模範的?)王侯女性の姿をデフォルメした上で王妃に当てはめたんだと思う。

日本でも>>533>>543みたいに「庶民目線とは違う」事が大物の証だったように
贅沢と飽食は君主の神性維持のために積極的にすべき事と教育されてきたわけだし

657:人間七七四年
10/04/29 19:44:27 fiAtt5pS
初代の家康からしてケチの日本代表みたいな状態だったのに、
徳川政権で贅沢が奨励されるなんてほとんど聞いたことないぞ。

ことあるごとに倹約令出して権力者自ら質素倹約を率先してたからこそ、
長く政権を維持できたんだろうし。

658:人間七七四年
10/04/29 19:50:31 1Y38hpwh
そもそも経済的に困窮していたために倹約令が出たのであり
贅沢をしようにもできなかったのでは?


659:人間七七四年
10/04/29 19:51:19 91cWTfWM
まぁなんだ、「戦国の逸話」について話さないんなら歴板にスレ立てるなり検証スレ行って議論してくれると助かる

660:人間七七四年
10/04/29 22:19:15 QzdzjB9J
大久保忠隣の子忠常は家康の孫娘を娶り、将軍秀忠の覚えもめでたいとあって
「御無双之出頭人」と称された。
その人気も絶大だったらしく、慶長十六年に彼が病死した際には
無断で小田原へ弔問へ出かけるものが数百人にのぼり、そのかどで閉門を命じられた者もいたという。

661:人間七七四年
10/04/29 22:39:00 cSuoxXh7
こういう人に限って短命なんだよなぁ……

662:人間七七四年
10/04/29 22:48:02 V/J9fPHx
大久保忠隣って関ヶ原の後だが、自分の江戸の屋敷に来る人間には、誰にでも
食事をご馳走してたんだってね。
伊達政宗が「そんなのいくらなんでも嘘だろう」と思って、試しに自分の家臣を身分を隠して
忠隣の屋敷に行かせたら、しっかりご馳走になって帰ってきて

「おいおいマジかよ」

って絶句した、と言う話があったな。
こう言ったよく言えば困窮した御家人を救う慈善事業、悪く言えば露骨な人気取りの資金は
大久保長安から出ていたらしい。

663:660
10/04/29 22:49:57 QzdzjB9J
ちょっと修正
×「御無双之出頭人」
○「御当代無双之出頭人」

664:人間七七四年
10/04/29 22:52:24 5ojNfDp6
>>662
それじゃあ謀反のためと誤解されるのもやむなしかな

665:人間七七四年
10/04/29 23:04:40 dnGX6Ve1
臣下が人気取りと取られるようなこと大々的にやっちゃあかんわな。

本多の彼の人に目つけられずともいずれなんかあったろうよ

666:人間七七四年
10/04/29 23:13:07 ytFPmulZ
みんなから嫌われると謀反を企んでると讒言される


みんなに好かれようと人気取りしたら謀反を企んでると噂される


どうしろと?

667:人間七七四年
10/04/29 23:18:04 tLOJWyQG
権力の座に近いほど終わりを全うしにくいのは当然でしょ。
そういうケースの男の嫉妬は怖いよ。

正信みたいに完全に割り切って嫌われる道を選ぶことが可能で、
陥れられるのを防ぐためにはどうしたらいいかまで考えれるような異才ばっかじゃないし。

668:人間七七四年
10/04/29 23:26:09 /j94ZUXs
彦左衛門さんもみんなの人気取りやってたけど、
謀反を疑われたことなんてなかったよ

669:人間七七四年
10/04/29 23:56:13 uxK0gK1t
彦左はえらい人相手の人気取りじゃないやん?

670:人間七七四年
10/04/30 00:16:33 ntbCM3tw
そもそも彦左にそんな欲があるなら兄の後継ぐの固辞しねーからねw

分限ろくにないし彦左謀反!とか言った奴の方がお前頭大丈夫か?って言われかねん

671:人間七七四年
10/04/30 00:54:35 lKlwJxXu
>>667
嫌われても断絶がないようにするという戦略だったんだろう。
史記の張良を参考にしたんだろうな。しかし子が言いつけにそむくことまでは
計算出来なかったようだ。

672:人間七七四年
10/04/30 01:00:39 ntbCM3tw
同僚からの猜疑
主からの猜疑

いつの世も宮仕えは…か。
板違いだが李靖なんかはすげーわ。

673:人間七七四年
10/04/30 01:15:07 PCz/S6Bz
同僚から嫌われても主君に好かれていれば問題ないよ







代替わりさえしなければw

674:人間七七四年
10/04/30 01:15:57 kqSWxJtt
陳平や李勣を市松や虎之助の江戸期の挿話に喩えるのは過剰な評価か。
我が身を屈してお家を全うしたというと家康が筆頭になるし。

675:人間七七四年
10/04/30 01:18:40 ihaTNIaX
>>672
李靖の場合は年齢の関係で猜疑から免れたのが大きい

676:人間七七四年
10/04/30 18:54:51 r5uwp2Ay
>>673
呉起さんのことか。
日本なら田沼意次というところかな

677:人間七七四年
10/04/30 19:52:35 NecJ7J0f
浅井長政の関ヶ原合戦

ある時、浅井長政は五百の精兵を選り抜き、関ヶ原は野上の宿へ討ち入って火をかけた。
報告を受けた斎藤龍興は一万の兵をこぞり、踏み潰さんと打って出る。
長政は圧倒的な劣勢である。
垂井の手前に流れる小川を堀とし、柵を築いて持久の構えをとった。
が、これは見せかけで、長政は菩提の間道に小勢を走らせ、斎藤勢の背後へと走らせていた。
そしてある夜、長政自ら陣頭に立って夜襲をかけ、頃を見て別働隊を思い切り騒がせた。
「さては寝返りが出たか!」
斎藤勢は混乱し、龍興は岐阜まで撤退せざるを得なくなった。

さて、勝ちに乗る長政は大垣までも焼討する。
捨て置けない斎藤勢は態勢を立て直し、再度出撃。
浅井勢は槍を合わせず、あっさりと退いた。
龍興は垂井まで進み、そこで疲労した軍勢に一息入れさせようとした。
が、斎藤勢が休息を取り始めると、家々から轟々と火が吹き始めた。
実は長政、垂井を引き払う際、数十の足軽を伏せさせていた。彼らが手当たり次第に放火しだしたのである。
斎藤勢は右往左往、そこへ長政が斬り込み、またも龍興は逃げるはめになった。

「おのれ!小勢にいいようにされてなるか!」
龍興は怒り心頭。
浅井勢が立て篭もった南宮山へ向かい、包囲を固める。
大軍でもって攻め上ったが、敵からは矢の一筋も飛んでこない。
「はは、戦意を失ったか」
意気上がる斎藤勢が敵陣に足を踏み入れた瞬間。
一丸となった浅井全軍、真一文字に突撃してきた。
斎藤兵は山を転げ落とされ、完全に壊乱して逃げ惑う。
長政らはその隙に包囲を抜け出し、戦場を離脱していった。

これ以後、龍興は長政を甚だ恐れ、再び出陣することはなかったという。

678:人間七七四年
10/04/30 21:01:10 trW42hTO
>>677
それだけだと、ちょっと戦がうまい話だからなぁ~
長政パパが僻んだり龍興さんが馬を背負って逃げたりとかなかったのかね~!

つか、山科けいすけの浅井長政が戦バカの恐妻家だっけ?
もう忘れたな・・・

679:人間七七四年
10/05/01 02:16:34 vKvrlSPw
>>657
> ことあるごとに倹約令出して権力者自ら質素倹約を率先してたからこそ、

お陰で不景気がますます悪化したって説もある。

680:人間七七四年
10/05/01 02:23:33 Hd/m7PoB
>>679
尾張徳川家の人は吉宗の倹約令に反発してお金使いまくってたな
繁栄はしたけど結局赤字に陥ったとか

681:人間七七四年
10/05/01 08:33:33 t0vXp0Eu
意外な男の意外な甲斐性

このスレの住人ならよくご存知の通り、織田信長は最初から尾張一国を支配してた訳では無い。
守護職だった斯波家はまあいいとしても、守護代織田家が、それも二つあった。
その内の織田伊勢守家の当主信安は、信長の弟と組んだり斉藤と組んだりして対抗していたが、
ついには自分の息子に追放されてしまった。
しかしこの息子も信長に敗れ去り、信安には帰るべき家も無くなってしまった。
やがて時は流れ、信安は無害無力であるが故に信長に許された。
が、逆に言えば戦国の表舞台からも置き去りにされ、細々と暮らすだけであった。
やがて信長も本能寺で亡くなり、秀吉も死に、家康が関ヶ原で勝った後、いよいよ窮迫した信安はある男を頼った。
山内一豊。かっての彼の家臣の息子であり、旧臣の中では最大の出世頭であった。

信安「というわけで面倒見てね」
一豊「……(わざわざ掛川から土佐まで来やがるとは……)」

信安は一豊に養われ、土佐でその生涯を終えたという。

682:人間七七四年
10/05/01 08:54:17 ck3Aj6K3
>>679
交通が飛躍的に発達してなきゃ、流通よりも地元の食い物の確保の方が大事だしね
群雄割拠の戦国時代に突入したのも、寒冷化による食糧難で広範囲の支配が困難になったからという見方もできるだろうし


683:人間七七四年
10/05/01 09:48:57 RpdKWkwH
>>677
義龍でないとてんで駄目か

684:人間七七四年
10/05/01 10:20:15 2vKFhKNV
印象では義龍死亡→ほど無く滅亡だけど、実際は結構保ってるよね龍興

685:人間七七四年
10/05/01 14:42:59 +w0MYoW4
保ってるとはいえどんどん調略で切り崩されてたから・・・。

686:人間七七四年
10/05/01 14:54:50 +4ltOrut
Wiki見たら13で家督相続して19で稲葉山城を失ってたんだね、龍興さん
暗君のイメージあったんだけど、こんな若かったんだ・・・

687:人間七七四年
10/05/01 15:12:06 xoxyMMuc
>>686
その後越前朝倉家と運命を共にするまで反信長が活動を延々続けた勇将だったりもする

688:人間七七四年
10/05/01 16:14:48 XGK5aQWL
総大将、総責任者としての才能は無くても、一部隊の隊長としての才能はあったてことかな。
痛い目にあって成長しただけかもしれないが。

689:人間七七四年
10/05/01 16:32:16 J0SCmgzC
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

今までの龍興の逸話見ても少なくとも暗君じゃあないな、
苦労した事で人間性が磨かれたのかなって感じは確かにする
↑の九右ェ門伝説が本当だったなら良いんだがなぁ、一寸報われて欲しいわ

690:人間七七四年
10/05/01 16:42:37 wNft5O00
信長も何度も痛い目にあって成長してるし、失敗が人を強くするんだな
ただ、失敗しすぎて国まで失うともう挽回できないけど

691:人間七七四年
10/05/01 18:00:50 9MD+ndr6
>>690
ゴンベ「いや、やり方によるよ?」

692:人間七七四年
10/05/01 18:19:59 wwEfqlKK
>691
 ち ね ば い い の に 

693:人間七七四年
10/05/01 19:09:57 JJt5EVHp
小田さんは・・・

694:人間七七四年
10/05/01 22:29:03 zwov4o+D
小田さんは再起動するたびにメモリの内容が消えますから

695:人間七七四年
10/05/01 22:43:36 dmKDIR/2
小田さんは生きているだけで勝ち組

696:人間七七四年
10/05/01 22:47:54 3R/k0SpO
氏治「佐竹ではなくて今度は水谷や多賀谷を攻めよう!」


結果は聞くな

697:人間七七四年
10/05/02 00:14:18 lEWK71az
あんなに連戦連敗なのに、何故か負け組な気がしない小田さん

698:人間七七四年
10/05/02 00:31:04 NxHSUFbG
>>692
長宗我部さんの叫び

699:人間七七四年
10/05/02 06:03:22 lBycEbR8
小田さんは葉っぱ一枚あればいい

700:人間七七四年
10/05/02 12:38:26 womw4dSr
オレの中で失敗を失敗と思ってなさそうな戦国武将といえば
なぜか小田さんと宗茂さんが思う浮かぶんだが

701:人間七七四年
10/05/02 12:41:26 twST+N9y
小田さんの粘り強さは異常

702:人間七七四年
10/05/02 12:53:31 QlCeBuBg
>>700
戦績は対極だけどね

703:人間七七四年
10/05/02 13:56:43 77POgycU
宗茂「粘り強く戦えば活路が開ける」
氏治「粘り強く戦えば活路が開ける」

同じことを言っててもぜんぜん意味が(ry

704:人間七七四年
10/05/02 14:52:20 58h+lb8Y
>>703
意味というか、信頼度というかだなw
前者は頼もしい発言だが、後者はもうだめだって気分になるw

705:人間七七四年
10/05/02 17:18:35 ixboUWIw
おまいらホント小田さん好きだな


天正元年(1573)、小田城最後の落城。以後、小田氏はその名を冠する城に帰ることなく終わる。

いや、それどころか闘争心冷めやらぬ梶原政景は同年、乗っ取った小田城を拠点に、菅谷氏の篭る土浦城と、
小田氏治の逃げ込んだ藤沢城を攻める気配すら見せていた。
これに対抗すべく小田方は、ショックの抜けない氏治を置いて、嫡男・守治を総大将に、梶原方を鳥出台で迎え撃った。

(つくば市小田から、土浦市藤沢に攻めてくる軍を、なんで取手で迎撃するんだ?とか聞いてはいけない。
「小田軍記」にそう書いてあるんだから。)

「小田方に迎撃の用意あり」の報を聞いても、政景は狂歌を詠む余裕すら見せた。

「 敵の首 取りでの台と 聞くからに 今日のいくさに 我は梶原(勝ち原) 」


URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)と言ったgdgdを見せつつも、
後が無い小田勢は、大将の守治以下必死に戦い、ついに藤沢・土浦両城を守り抜き、政景は兵を退いた。
引き退く梶原方に、小田配下の小幡道三の家臣が、罵声と政景の狂歌への返歌を送った。

「 敵の首 取りでの台と 聞きけるが 「ひけを取りて」と なりにけるかな 」

さすがの政景も何も答えることが出来ず、頭を掻いて先の狂歌を後悔したという。





翌月、本気になった鬼義重みずから攻めて来て、藤沢・土浦ほか諸城をぶっこ抜かれたのはナイショだ。

706:人間七七四年
10/05/02 17:57:46 zxl8CeIO
女子高生に「か~わい~い!v」と撫でくり回される三頭身の小田さん

707:人間七七四年
10/05/03 17:46:20 N0oH0tjb
撫で斬りされるって読み間違えちゃったぜ・・・

708:人間七七四年
10/05/03 18:33:19 pG+T4xTK
「これでも負け続ける戦いは得意でね」
「だからこそ小田家は小田家でいられるんです」

709:人間七七四年
10/05/03 18:40:01 9eYxSdmT
W厨自重w

710:人間七七四年
10/05/03 20:02:24 KXhGR+Y9
このスレ見てると
ゲームで小田さん捕らえても、つい放流したくなるな

711:人間七七四年
10/05/03 20:06:58 9idPBZyG
太閤立志伝なら、そんな小田さんを支える素敵な仕事ができます!


712:人間七七四年
10/05/03 20:23:32 D1CNF92r
>>710
放流して再度敵として来てもぶっちゃけ敵じゃないしw
菅谷さんさえ抑えちゃえばおk

713:人間七七四年
10/05/03 20:49:19 j3ey1ljL
>>708
戦国時代に強者などいない。大名全てが弱者なんだ……か

714:人間七七四年
10/05/03 21:01:27 Xg4/ej6C
太閤立志伝で小田さんを家臣にすることが何度かあったが、
正直ほとんど役にたた…いやなんでもない

715:人間七七四年
10/05/03 21:39:54 wCPNMfvb
>>714
戦国のマスコットにそれ以上の役目を求めてはいけない

716:人間七七四年
10/05/03 22:01:59 Iqhoa4bQ
野望で小田さんが家臣になったと思ったらすぐに出奔したことある(佐竹プレイ中)

717:人間七七四年
10/05/03 22:56:27 rhove58Y
小田さんに有能な家臣を紹介します
つ外道三兄弟

718:人間七七四年
10/05/03 23:14:54 HJu0whed
外道三兄弟は仲間の中で有能なのも殺す諸刃の剣

要するに菅谷さんが危ない

719:人間七七四年
10/05/03 23:37:33 AuHhj9c7
元亀年間。
摂津では荒木村重が台頭し、和田惟政らと対立するようになっていた。
そしてついに、両者は決着をつけるべく軍を発する。
村重は士気を鼓舞するため、一つの板を陣頭に掲げた。
惟政を初めとする敵将の名を書き連ね、その首には報奨いくらと明示したものだ。

明日はいよいよ合戦、となった日。
掲示を見上げる男がいた。村重の与力、中川瀬兵衛清秀である。
清秀は筆を取り出すと、惟政の名の上に点を書き入れ、立ち去った。

その深夜、清秀は村重を訪ねた。
「おやおや、瀬兵衛殿。かような刻限にいかがした」
「…どうぞ」
清秀が携えてきたのは、紛れもない敵将・惟政の首であった。
「な、なんと!?」
村重は仰天し、いかにして惟政を討ち取ったのかを聞いた。

「はあ。
明日は決戦にて、敵はきっとこれに万全の用意をするだろうと思いました。
となれば、あらかじめ今宵のうちに、淀川の深さを測っておくでしょう。
惟政は優れた大将ですから、もっとも大事な物見を他人任せにはせぬはず。
必ずや、淀川べりに現れるだろうと踏んだのです。
そこで、敵が見えぬうちに川を渡り、木陰に伏し隠れておりました。
案の定、惟政が現れたので、兵に紛れて潜り込み、隙を見て首を取りました。
あとは水中に飛び込み、味方の陣まで参ったというわけです」

清秀はそう語り、人々に感嘆されたということである。

720:人間七七四年
10/05/03 23:41:44 RTCYK6Im
やっぱり自分が有能でなんでも自分でやる人よりは、自分は普通でも有能な部下をうまく使える人の方が有利か。

721:人間七七四年
10/05/03 23:43:03 Iq7fwSXz
え、何、これ1人でやっちゃったの…?

722:人間七七四年
10/05/03 23:45:37 HJu0whed
どんなアサシンだよ

723:人間七七四年
10/05/04 00:04:25 Eg/83VFm
中川清秀のイメージが変わったw

724:人間七七四年
10/05/04 00:14:25 iKM1myOL
秀吉から信長は自分が保護してるから早く来いって騙されたり
賤ヶ岳の合戦の時に見捨てられたりと都合よく使われてたけど
嫌われてたんだろうか・・・

725:人間七七四年
10/05/04 07:40:10 nf124hj6
忍者的な働きができたのか、スゲーな

726:三介殿名臣伝 1/2
10/05/04 09:34:23 /Lo3VfqZ
天正12年(1584)3月、織田信雄の家老・岡田重孝は主君に呼ばれ謁見の間に向かったが、そこに信雄の姿は無く
近習の土方彦三郎の姿があるのみ。用心して広間の柱に身を寄せ、重孝は彦三郎に声をかけた。

「何やら殿が、わしを成敗されるという噂が流れておる。もし本当なら、討っ手はお主だろうと思っておったわ。」
「そんな事がある訳はござらん。もし本当だとしても、拙者ごとき若輩者には荷が重い役目。
しかし、仰せ付かったとすれば、若輩と言えども仕損じませぬ。…殿は奥の間です。さあ、こちらへ……」

重孝が奥の間に行くと、いきなり信雄から鉄砲を渡された。「新式の鉄砲じゃ。まず家老のお前に見せてやろう。」
「なるほど、これは珍しき道具。彦三郎、お主もこっちへ来て拝見せよ。」

呼ばれた彦三郎は、重孝に近づくと背後から脇差で、突き刺した。「ぐわっ!…き、貴様やはり!」
重孝も脇差で応戦しようとしたが、彦三郎に固く背中から抱きとめられ、うまく斬りつけることが出来ない。
彦三郎も、重孝を抱え込むのが精一杯で、それ以上は攻撃を加えられない。

見かねた信雄が太刀を抜き、「彦三郎、放せ!」と呼びかけたが彦三郎は、
「構いませぬ、拙者ごと斬られよ!!」覚悟を決めた信雄は、重孝に突きかかった。
「お、おのれ!!」重孝が信雄に備えようと構えた次の瞬間、彦三郎は重孝を放して身を翻し、斬り捨てた。

彦三郎の振る舞いは「上意討ち前後の働き、言葉遣い等いかにも行き届いている。」と評判を呼んだ。
その後、土方雄久と名乗った彦三郎は、小田原の役後に信雄が改易された際、独立して大名となり、
秀吉の死後、政争に巻き込まれて一時期流罪になる等、苦労しつつも家を残し、慶長13年(1608)、世を去った。

その死について「当代記」は、「日来(日頃、毎日)たはこを用いける故、喉破相果」と書いている。
恐らく記録に残る、日本初の煙害による死者である。

727:三介殿名臣伝 2/2
10/05/04 09:35:11 /Lo3VfqZ
織田信雄に仕える若侍、二宮千太郎が褌一丁で主君の前にやって来た。当然、信雄は彼を叱った。
「明日にも戦になろうという時に、お前は何をフザけておるんじゃ!!」

「ううっ…仲間内のバクチで、身ぐるみ剥がされてしまいました…明日に備え、せめて馬・具足は返してくれと
さんざん詫びても許してもらえず、刺し違えて死のうと思いましたが、殿の御役に立つ者を戦の前に殺しては
不忠になります。かくなる上は、この恥さらしに切腹をお許し下されっ…!!」

「…言い訳に一分の理がないわけでもないか。」
そう考えた信雄は、千太郎に馬・具足と金二枚を与え、下がらせた。千太郎もこれに応え、翌日の戦では
組打ちまでして兜首を取り、信雄も彼を賞したという。


慶長5年9月15日正午過ぎ、関ヶ原。松尾山に陣取った小早川秀秋は、不審な鉄砲の音を聞き、使い番を呼んだ。
「今の鉄砲、当方に向けてのものとみた。何処が、何用あっての射撃か、急ぎ確かめて参れ!!」
「承って候。」
さっそく使い番が麓に向かうと、麓からも騎馬武者が登って来て、使い番に話しかけた。

「貴殿は、今の鉄砲についてのお使いであろう。わしは、その事についてお教えするために来た。
あれは朝からの霧で火薬が湿ったため、我らが空砲を撃ったのじゃ。安心されよと、殿に伝えてくれ。」
「いや、拙者は「麓を見て来い」と殿に言われた。伝えたければ、他の者に言ってくれ。
頂上まで行くのが面倒なら、すぐ上にご家老の平岡様(頼勝・東軍派)がおられる。ご家老に申せば良かろう。」

そっけなく騎馬武者と別れた使い番が麓で様子を見聞きすると、騎馬武者の伝言と全く違った事実が浮かび、
急いで戻った使い番は、見聞きした内容を秀秋に伝えた。

秀秋はただちに動き、関ヶ原の戦況は一変した。

大役を果たした使い番の名は、二宮与三右衛門。信雄改易後、小早川家に仕えた千太郎の、成長した姿だった。
バクチにうつつを抜かしていた若者は、信雄によって運命を変えられ、断固たる意思によって歴史を変えた。

728:人間七七四年
10/05/04 10:49:17 u/qHcrh6
 九戸政實(政実)といえば、南部本家との争いに豊臣本軍を呼び込まれ、開城して和睦の筈が一族、従兵皆殺しにされたと伝えられる。
しかし、4月30日の青森県の地元新聞「東奥日報」夕刊で、県観光連盟専務理事の九戸さんが書いていたコラムによると・・・

 津軽為信は九戸とは親戚筋で気脈を通じており、心ならずも開門に手を貸して寝覚めが悪かった。そこで3歳の(九戸家の)子供を家
来の懐に隠して秋田県境を落ち延びさせ、匿った。過去帳を3代は女名前にして世をはばかり、弘前藩3代の津軽信義公の代に九戸吉左衛
門政知を召し抱えて再興した。
 この経緯は、九戸さんの母が祖母から聞いてノートに書き留め、また津軽家11代順承(ゆきつぐ)公に時計師として仕えた九戸籐吉が明
治5年に表している。

 為信は、津軽統一戦争の過程では随分汚い手も使い、時々の天下人には上手く立ち回っているが、必要がない非道はしていない感じだし、
関ヶ原後にはかなりのリスクをとって、世話になった石田三成の子女を津軽に置いている。

 そういう性格と対南部宗家での付き合いも考えると、あってもおかしくはないかなと。

 秀吉存命中に南部家にバレて密告されたらやばかったことは確かで、義理堅かった為信、血筋を残せた九戸家両方にいい話。

729:人間七七四年
10/05/04 11:21:35 hAG9N5s0
>>727
麓から上がってきた騎馬武者は東軍なんだろうか西軍なんだろうか
東軍だとすると事実を隠蔽しようとした理由がよくわからん

730:人間七七四年
10/05/04 13:35:33 YUNq3Im1
>>728
高橋克彦の「天を衝く」を、もう一度読みたくなった。

731:人間七七四年
10/05/04 14:18:19 AjBXtG6R
>>719
これ自分で何でもやる人を自分で何でもやる人が襲ったんだよなw

思考回路似てるから読みやすかったのか

732:人間七七四年
10/05/04 19:25:59 tji1ikTc
>>729
山麓に展開していた小早川の兵

733:人間七七四年
10/05/04 20:36:40 AjBXtG6R
家中でも西軍にそのままつかせたい連中と東軍に、と思ってる連中といるだろしな

734:人間七七四年
10/05/04 21:19:09 KuNaqZ16
戦場でのことだし、単なる流言や思い込みで言ったのかもしれない

735:人間七七四年
10/05/05 01:22:25 lvr9yxT4
>>724
重要拠点任されたりしてるんだからそれなりに信用はされてたんじゃないかなぁ
ただ自負が強すぎて持て余し気味だったかも
立ち位置的によく似てる堀久太郎は長生きしたら大大名になるか政権中枢を担った可能性もあるけど
清秀は長生きしたら難癖つけられてアッサリ所領取り上げられそうな気がするね

736:人間七七四年
10/05/05 12:45:19 bKJYMW+k
>>730
(`・ω・´)人(`・ω・´)
好き嫌いの分かれる御仁だが、色んな意味で
非凡ではあったんだろうと思う

737:人間七七四年
10/05/05 13:53:34 d2x84LDb
中川は荒木を謀反に追い込むのに関わってたし、
高山右近ともども功名に逸って無茶をする印象。

738:人間七七四年
10/05/05 14:45:37 i1+MaTFO
瀬兵衛、骨折り。のエピソードからも媚びない、融通が利かない、簡単に腰を折らない頑固者、というイメージがある。
の割に部下が本願寺に兵糧横流ししたとか、配下の統制もいまいちな感じで、
なんか大将というよりは一個の武辺で
せいぜい万石程度が適当なちょうど仙石権兵衛みたいな印象。
権兵衛は媚びるのうまかったが。

739:人間七七四年
10/05/05 15:36:04 0Oun9P+g
ホトトギスは鳴いた


寛永十三年(1636)4月、先代の伊達政宗には江戸への参勤が迫っていた。
この年70の政宗は体調が優れなかったが彼は毎年の楽しみであるホトトギスの初音を聞くため、
18日、母の菩提寺を参拝した帰り、ホトトギスの初音を聞くため北山、経ヶ峰、茂ヶ峯などを巡った。
経ヶ峰に自分の墓所を定めたのはこの時だったと言う。
しかし、ホトトギスの初音は聞けなかった。

翌19日、参勤前の恒例となっていた茂庭綱元邸への訪問を行う。
若林の屋敷に戻ってくると、「青山の方でホトトギスを見た」との情報が入った。
政宗は老躯を押して駆けつけたが、ここでもホトトギスの音を聞くことは出来なかった。


4月20日早朝、政宗は江戸へと出発する。

「今年は仙台にいる間に、ホトトギスの初音を聞く事叶わなかったか…。」

毎年の慣習が果たせなかったゆえか、心持ち気の沈んでいる政宗に、付き従う行列の面々も重い雰囲気であった。
その行列が仙台の南、増田(現宮城県名取市)と言う場所を過ぎた時、

一羽のホトトギスが、行列の前方に有った路地の柳に止まり、高らかに鳴き声を響かせた。

「ホトトギスが!大殿様、ホトトギスの初音でございます!」

「ああ…」

そのホトトギスは行列が一町(約110メートル)ほど移動する間ずっと鳴き続け、やがて東の方に飛び去った。

行列の人々
「今まで大変お待ちになっていたホトトギスの初音が、ここで聞くことが出来るとは!何とめでたい御門出だろう。」
そう言って喜び合ったと言う。


この年、政宗は江戸で死ぬ。彼が自領で初音を聞くことにこだわったのは、埋葬の地を定めたことも含め、
何か悟るものがあったからであろうか。


一代の風雲児、伊達政宗の死出の旅の門出に響く、時鳥の初音であった。


740:人間七七四年
10/05/05 15:37:06 0Oun9P+g
ああ、1行目、先代→仙台です。申し訳ないw;

741:人間七七四年
10/05/05 19:35:14 R04Qc1sd
初音を聞けてよかったなあ、政宗…

742:人間七七四年
10/05/05 23:05:42 o6M7hCe6
ミクミクにされたんだなぁ、政宗…

743:人間七七四年
10/05/05 23:28:45 EvwUtsGo
初音キク(CV.伊達政宗)

しかし、この時期の戦国生き残りは故郷で死ねないのが宿命だなあ

744:人間七七四年
10/05/07 01:56:03 4RBVT9f5
禰宜いり。

745:人間七七四年
10/05/07 11:16:37 63aJ3RWh
ホトトギスってあんまりいい鳴き声じゃなかったと思うが、そんなに楽しみだったんだろうか?

746:人間七七四年
10/05/07 11:36:57 eEwXKzfz
あー
ホトトギスの初音を聞くってのは縁起モンというか、季節のイベントみたいなモンなんだわ

747:人間七七四年
10/05/07 12:34:36 EzY7chTI
梅 ほととぎす 初鰹

春の定例行事かね

748:人間七七四年
10/05/07 12:46:48 hrlCn6SB
>>745
ちょうどうちの庭で鳴いてるけど良い声だぜ
ただ生まれたばかりのホトトギスだと聞いて分かるくらい鳴くのが下手w

初めの伸ばす所で息継ぎ?しちゃうのが可愛いっちゃ可愛いけど

749:人間七七四年
10/05/07 22:23:04 CeqRlLb9
ホトトギスは初音の下手さからこなれてくのにつきあってるのがいいんだよなw

750:人間七七四年
10/05/07 22:33:05 w9CJUEBm
うちの田舎ではホトトギスの鳴き声は縁起が悪いといわれている
啼くと死人が出るとか

751:人間七七四年
10/05/07 23:38:35 gEfAntk6
中国の故事とかでは
国に帰れなくなった男が彷徨う内にホトトギスに変じ、
そのうち国が滅びたのを聞いて嘆き悲しんで血を吐いて死んだ、的な逸話があって、
また鋭い鳴き声をあげるのと口の中が赤いので血を吐いた連想をするとか、
トイレの中で鳴き声を聞くと死ぬとか、ホトトギスの逸話や伝説は不吉なものばっかりです。
冥界を行き来すると言われ魂迎え鳥の異名を持つ、ってのは
前にここでも紹介されてましたね。

しかし日本では古来から鳴き声を珍重されてきました。
数々の和歌や文学にも登場しますし、あまり嫌われていた印象はないですね。
個人的な印象として、不吉な逸話は中国発祥のものが多いんじゃないかという気がします。


752:人間七七四年
10/05/07 23:52:54 wvu1VWtG
夜のホトトギスが縁起悪いと言われてる
昼はそうでもない

753:人間七七四年
10/05/08 00:31:40 9t+Hxlhp
そういえば、うつけバーのNOBUママは自分のホトトギスを…いや、なんでもない

754:人間七七四年
10/05/08 00:32:26 /dZK7o9L
鯖移転完了かな
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)の派生話ぽいですが…


大坂の陣が終わった後、所司代・板倉勝重のもとに訴人が現れた。
「伊勢大神宮の御師どもが関東調伏の祈祷をしていた!」というのだ。
彼によれば、大野修理から多額の謝礼とともに依頼があり、有縁の禰宜達が大勢示し合わせた上、
人形を造って将軍家父子を呪詛したのだという。
勝重は事実を確認すると、家康に厳罰を求めた。

だが、報告を受け取った家康は次のように答えたという。
「禰宜山伏の類が、金銭をとって祈祷をするのは当然のことだ。珍しいことじゃあるまい。
こちらがもっと銭を払っておれば、逆に秀頼を呪っておっただろ。
だいたい、やつら程度の手で転がるような運気で、天下がとれたらたまらんわ。
命はとらず、伊勢から追い払うにとどめろ」
こうして、神官達は所払いとなり、命は助かったという。  (老談一言記)

家康の苦笑が見えるようなお話。

755:人間七七四年
10/05/08 01:09:38 8QavOBgw
固い言葉を使うと
人を呪っても刑事罰の対象とはならないという判例を示したわけで
世界的に見ても先進的だったんではないでしょうか。

756:人間七七四年
10/05/08 01:38:47 MpZ9KUx9
方向寺の梵鐘に因縁つけた人とはとても思えませんなぁ~

757:人間七七四年
10/05/08 01:46:34 OmHIRbdi
>>756
あれは呪いじゃなくて「諱の無断使用」っていう、「非礼問題」だもの。
つまり家康の面子を潰した事件。だから家康も後の幕府も「証拠」をちゃんと残した。

758:人間七七四年
10/05/08 01:56:08 DhC6tBQA
>>751
国によって不吉だったり幸運を呼ぶといわれてる黒猫みたいだな

759:人間七七四年
10/05/08 08:37:38 WSenWaKF
>>757
家康「何か問題になってるようだけど、実際の所はどうなんだ?」
羅山「右僕射源朝臣家康は、家康を射るという意味です!呪詛です!」

家康「(呪詛なんか効果あるか、というか右僕射って右大臣の意味だろ・・・)何か問題は?」
五山の僧「呪詛なんかじゃありません。ただ、諱を避けなかったのは問題あるかと思います。無礼になるので、普通はやりませんし」
清韓(銘文作った人)「かくし題として、家康の名を使わせてもらいました。目的は国家長久です」

あらかじめ下調整して、幕府からOKもらわなかったのが悪いって説ね。銘文作った人も「偶然の一致です」と言い張れば
言い逃れはできたかもしれないとか

760:人間七七四年
10/05/08 08:52:39 vd1PsHSM
諱って中国ではともかく、日本じゃ問題にされないでしょ?
名前は全てオープンなんだし

761:人間七七四年
10/05/08 09:17:17 ZzDsg+Jv
>>760
尾張中村の農民の息子なら問題にならないだろうよ
 
超インテリ階級の貴族だったら…

762:人間七七四年
10/05/08 09:26:52 vd1PsHSM
超インテリ階級の貴族って誰のこと?

要は、家康も分かってない・気にしていないような事を、豊臣家潰しにうまく利用したって事でしょ
「諱」なんて概念は中国かぶれしか問題にしないよ

763:人間七七四年
10/05/08 09:38:43 l2heR1z0
確かに面と向かって口に出すのは非礼だけど、書状など字として使う分には特に問題はされていなかったな>諱
現代に残された書状を見れば判るけど、家康とか信長とか平然と記されている。

764:人間七七四年
10/05/08 09:41:27 WSenWaKF
言っとくけど、五山の僧侶の返事は「武家ではどうかは知らないけど、禅宗の世界では常識」という答え
幕府のブレーンには禅僧が少なからず居たり、武家とのつながりも大きいわけだし・・・逆説的には「中国かぶれ」は多かったことに

765:人間七七四年
10/05/08 09:42:51 ndRIiMyT
>>762
あの時代って尾張中村の農民の孫と超インテリの貴族が同じ人物を指す特殊な世界があったよね。

766:人間七七四年
10/05/08 11:16:25 OmHIRbdi
>>760
> 諱って中国ではともかく、日本じゃ問題にされないでしょ?

とんでもない。むちゃくちゃ気を使っていた。
公の場で、特に下の者が上位者の諱を言うのは公然とした侮辱行為であり、
合戦などで敵対する相手するような行為だった。

例えば、秀吉の弟の羽柴秀長の場合、信長の生前は信、長の諱にある
「長」の文字を下に持ってくるのは恐れ多いと羽柴「長秀」と名乗っていた。
これほど諱と言うのは扱いに細心さが求められた。

日本人が諱を気にしなくなったのは幕末くらいから。その辺の感覚の違いをきちんと頭に
入れておかないと歴史は理解出来ないぞ?

767:人間七七四年
10/05/08 11:21:52 ZzDsg+Jv
豊臣は当時日本のインテリ層だった貴族のトップ
方広寺は東大寺レベルの規模
その銘文を起草した人は漢文の造詣が深い
当時豊臣と徳川は微妙な関係
 
意図せずにやったとしたら相当なマヌケだろ


768:人間七七四年
10/05/08 11:22:09 k8og8OgH
>>766の言ってることが正しいな。
時代劇や歴史小説では、お互いをイミナで呼び合ってるけど現実にはありえない話。
イミナ問題についてはこれが分かりやすくて面白いよ。

やる夫で学ぶ「実名敬避俗」
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769:人間七七四年
10/05/08 11:24:35 L385cJE4
私は貝になりたい

ある日、戸次(立花)道雪が家臣たちを呼び寄せた。
「おーい、お前たちも来て見ろ、珍しいものが届いたぞ!」
臼杵の浜から、海産物が大量に届いたのだ。鎧ヶ嶽の山城で暮らす戸次家の人々は、海の幸の到来を喜んだ。

道雪はさまざまな海産物のうち、ハマグリが盛られた台に目を止めた。
「おお、『耳白』があるな。」「?『みみしろ』、でございますか?」問いかける家臣に、道雪は答えた。

「そうだ。ハマグリの中でも形が整い、真珠のように白いものを『耳白』と言う。同じハマグリでもな、この『耳白』は
女子の遊びの貝合わせに用いるので、殻まで売り物になり、容れ物の桶でさえ結構な値がするものよ。
『耳白』でなくては役に立たず、他の殻はゴミとして捨てられ割られ、土に帰るのみ。

人も同じで、『耳白』を探すように見ていれば、才覚の一端が伺える者が必ずいるし、そうして取り上げられた者は
『耳白』が高値で扱われるごとく、良き働きをするものだ。

ただし、人は貝にあらず。『耳白』のように殻、すなわち上辺を磨くのではなく、心を磨くことが肝要だ。
一度武に志した者は、常に「こうであろう」と心を配り磨いてこそ、メシの種となるものよ。
今まで手柄の機会に恵まれずとも、事に慣れた者の武辺話など良く聞き、実践すれば、「利口者」と呼ばれても
非難されることはあるまい。それもまた、正当な立身の道である。」

770:人間七七四年
10/05/08 11:28:07 Sp2NLOgJ
>>769
>女子の遊びの貝合わせ
実際は神経衰弱的な遊びだということを理解していても
反応してしまう

771:人間七七四年
10/05/08 11:33:12 OmHIRbdi
ID:ZzDsg+Jvは申し訳ないが、思い込み以外のソースを出して欲しい。

実際には諱に関しては非常に気を使っていたことはそれこそ奈良平安の昔から確認されているし、
江戸期だともっと資料が豊富で、将軍や将軍世子、藩主や藩主世子が代わるたびに、
それらの諱に抵触する諱の旗本や藩士が、諱変更をした記録がいくらでも残っている。

日本人は、それも君の言う中国かぶれのインテリではなくても、一般に諱に非常に気を使っていた。
中国とは別の形でね。これは間違いない。

772:人間七七四年
10/05/08 12:32:39 2j08FwaJ
その話、終わったよ!(・∀・)

773:人間七七四年
10/05/08 12:37:24 oFR1Ig8q
>>769
嫁入り道具だと漆や金箔でゴテゴテに塗りたくられた上に
絵を描かれたようだし、白くなくとも形が良ければおkだったかもw

嫁といえばプロポーズが「名前を教えろ」だったんだよな大昔は
名前つか真名?

774:人間七七四年
10/05/08 13:25:35 HWAbs+JD
女には名前は一つしかないんじゃね?
名を名乗る事=支配下に入る事なんだろうね

775:人間七七四年
10/05/08 13:56:43 O07T2+xb
この前の合コンで、誰も名前を教えてくれなかったのはそのせいか

776:人間七七四年
10/05/08 15:17:46 QGo6TV9h
>>775
それはお前が…いやなんでもない

777:人間七七四年
10/05/08 16:29:25 l2heR1z0
諱については日本ではまったく気にしなかったわけではないが、中国と比べればたしかに軽かった。

あちらでは皇帝の諱を避けるために他人の名前は変える地名は変える。
他所の国の学校名に皇帝の諱が使われていたらその書状は受け取れない。

778:人間七七四年
10/05/08 17:18:09 aoz7PQJP
立花宗茂はなんであんなに変えたんだろうってぐらい変えてるな
本当に気を使うものなの?って思ったりしたよ >諱

779:人間七七四年
10/05/08 17:38:17 ioM235Ut
>>777
同じ意味の漢字が(発音違いで)ふたつ以上あるのもそのせいだとか。

780:人間七七四年
10/05/08 17:40:45 GkX4OATc
産女(うぶめ)という妖怪をご存知だろうか?
出産の際に死んだ妊婦の霊が妖怪と化したモノだといい、母ではなく赤子の霊をそ
う呼ぶコトもあり、ある時は鳥の姿で描かれるコトもある。
共通するのは「出産に纏わる亡霊」という一点のみで、姿も性質も様々。名前もそ
の時々で色んな漢字が当てられている。

室町から戦国に時代が移ろうか、という頃。
鎌倉の街中にこの産女が現れた。
血で染まった腰巻をまとい、赤子を抱いて川端にたたずむ。典型的な産女のパター
ンの一つである。

夜な夜な現れる亡霊の話を聞き、大巧寺の住職、日棟上人は産女の現れる川まで、
わざわざ会いに行く。

「今、鎌倉中があなたに怯え、不安に思っている。我が子を産み落とせなかった無
念は察するにあまりあるが、何故そのように化けて出てくるのだ」

上人の言葉に、産女は泣きながら答える。

「私は大倉の住人、秋山勘解由の妻です。出産に際して不運にも死んでしまいまし
たが、子供を思うとこの世に未練が残り、我が家へ帰ろうとこの川を渡ろうとして
いる所なのです。しかし、私が川に入ろうとすると水が汚い血と化し、渡る事が出
来ません」

上人が、共に亡くなった子供の為にも成仏すべきであるコトを説き、大巧寺で末永
く供養をしてあげるコトを約束すると、産女は納得したのか姿を消した。

数日後、約束通り産女の供養をしていた日棟上人の前に一人の女が現れ、
「先日のお礼としてお納めください」
と、包みに入った金を渡して立ち去った。

月明かりの下で見た血塗れの恐ろしげな姿からは想像も出来なかったが、まだ若く
美しい容姿のその女は、紛れもなくあの産女であり、秋山勘解由の死んだ妻であっ
た。

大巧寺では産女から寄進された金で仏塔を建て、お産の苦しみから女性を護る「産
女霊神」として彼女を祀ったという。
現在も鎌倉大巧寺は安産祈願の「おんめさま」として多くの参拝客が訪れている。



781:人間七七四年
10/05/08 17:43:36 GkX4OATc

室町か戦国か、微妙な時代の話をも一つ。
室町六代将軍、義教の頃、有名な僧侶として法華宗の日親が居た。

この日親、僧としての実績は申し分ないのだが、ゴリゴリの法華宗強硬派であり、
他宗派とは付き合わない、施しも受けない、馴れ合わない。他宗派の人間は全て悪
人、と言わんばかりの……日本版フロイスとでも言うべき人間であった。

ある時、将軍義教に直接面会出来る機会を得た。義教は足利氏一門の長であるから、
当然禅宗(臨済宗)の門徒である。
その義教に対して日親、

「土一揆やら後南朝の反乱やらと天下が治まらず、関東の情勢も不穏な様子が続い
ているのは、全て天下人である貴方に問題がある。具体的に言うと貴方は法華宗に
帰依していない!今すぐ我が宗派に改宗し、法華経の徳に縋って仁政を行うべきな
のです!」

ま、怒るよね、フツー。www
当然義教への面会禁止となり、布教活動も禁止させられる。

が、日親にしてみれば自ら信じる正論を述べ、天下泰平の為に唯一の道を示したの
である。だから彼は諦めなかった。
「立正治国論」を著し、禅宗や天台宗に基づいた政治を批判。あくまでも将軍が法
華宗に改宗するコトが天下の政道であるとした。

ま、怒るわな、jk。www
今度は面会禁止では済まなかった。逮捕され、持論の撤回を迫られた。

が、日親にしてみれば(以下略)

終いには拷問として真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられたが、それでも日親は屈す
るコトなく法華経を説き続けた。
幕府はこれ以上日親に口を開かせないよう、舌先を切り取った上で開放した。

この拷問の後、日親は四十年以上を生き、八十歳を超える長寿を記録している。
言葉を失ってからも日親は精力的に布教を続け、権力者に逆らい、他宗派に喧嘩を
売っていた。
その態度から他宗派のみならず、法華宗内にも敵は多かったようだが、何度投獄さ
れてもまた復帰し、僧としての名声を失わなかったコトを見ると、この「ゴリ押し」
も「毅然とした態度」として一定以上の支持は受けていたらしい。

ちなみに拷問の際に被せられた鉄鍋は頭の皮膚に張り付いてはがれず、生涯鍋を被
ったままだったと伝説には伝わる。
日親の名前は「なべかむり日親」「鍋被り上人」として信仰の対象にすらなってい
る。

明らかに悪い話だと思うんだが、日親の逸話は暴君の拷問に屈せず信仰と信念を貫
き通した名僧、というニュアンスで紹介されてるモノが殆ど。
後世で信仰の対象にもなっているそうなので、とりあえずコチラに投下しておこう
かな。

782:人間七七四年
10/05/08 17:58:05 OmHIRbdi
この人安土桃山に生きてたら、間違いなく不受不施派になってただろうなw

しかしどの宗教にも狂信者と言うのはいるものだけど、この手の
一種の社会運動家的な狂信性というのは、日本の仏教では日蓮宗以外には余り見られないな。

783:人間七七四年
10/05/08 18:06:03 6W4H8GaH
というより狂信者の受け皿が日蓮宗だったのでは?
他の宗派から始めてもそういう気質の者は弾かれそうだし

784:人間七七四年
10/05/08 18:09:40 dzNaUZ+4
>>778
本音はどうかは知らないが、みんなのアイドルな兄ちゃんも信幸→信之に変えてるね
通説的には、父親と同じ名前を捨てて、縁を切ったという意思表示ととられてるようだが

785:人間七七四年
10/05/08 18:35:59 M1chJv08
混交をよしとする日本の宗教にあって、日蓮宗は原理主義的傾向だったんだろね
どの世界にも原理主義組織は現れて、歴史上存在感を示す時期があるし

786:人間七七四年
10/05/08 19:33:01 DZkk3aOu
>>766
新田次郎の「武田勝頼」で、軍議中に徳川信康が酒井忠次のことを「忠次!」と呼び捨てにしていて、信康でも不謹慎(せめて雅楽頭と呼ぶべきであった)とコメントしている。

ということだから、やはり直接名前で呼ぶことは気を使うことだったかもしれない。
他のセリフでは結構名前で呼んでいるけど、これは小説の便宜上の問題なのかな。

787:人間七七四年
10/05/08 19:42:05 DZkk3aOu
>>786
追加だけど、忠次は左衛門尉で雅楽頭じゃないかもしれないが、小説のままカキコしました。

788:人間七七四年
10/05/08 19:43:13 DZkk3aOu
>>786
追加だけど、忠次は左衛門尉で雅楽頭じゃないかもしれないが、小説のままカキコしました。

789:人間七七四年
10/05/08 19:51:06 ztEV7xdm
大事な事なので二回言いました

790:人間七七四年
10/05/08 20:37:49 DNuLQUBW
>>777
そもそも諱の字を与えたり貰ったりする時点で中国の感覚ではないからな>日本

791:人間七七四年
10/05/08 20:44:13 DZkk3aOu
>>789
重複スマソ

792:人間七七四年
10/05/08 21:49:44 M3oVVTfC
>>777
当方愛媛県の出身だがたしか崇徳だか後鳥羽だかの諱と同じになるってんで地名を変えたところがあったはず。
共通点のある天皇だが、無論流刑になる前のことで祟るかどうかは関係ない。
戦国時代とは違うが諱を憚って変名するとか地名を変えるとかは日本にもあった。
ただ武家が天下を取ると偏諱を受けるとか授けるとかが当たり前の習俗になってそのあたりの意識は変わったんだろう。
しかし価値があるからこそ与えたり受け継いだりしたのであって、軽がろしいものなら偏諱も忌諱も成り立たないだろうし、通称や官名も同じことだろう。


793:人間七七四年
10/05/08 22:01:45 DNuLQUBW
諱と言えば、いい話か悪い話かで
大谷のよっちゃんに「輝」と略されてたTERU

794:人間七七四年
10/05/08 22:11:55 35DHlGhe
>>792
愛媛だと憚って「徳川」という地名を改めた話の方がよかったかもね。
そこにあるお宮はずっと徳川神社のままらしいですが。

795:人間七七四年
10/05/08 22:13:10 S4RSl/9L
崇徳天皇と同じ忌み名なんてそりゃあれ何か後ろに気配嗚呼嗚呼ああああs4d5tf6ygふいjこpl@;:「

796:人間七七四年
10/05/08 22:32:29 9b9gjFYB
>>793
大谷吉継も変えてるよな。三好義継に通じるから縁起悪い、だっけか。

797:人間七七四年
10/05/08 22:43:43 eSNlqpST
>>790
諱で有名ば逸話と言えば後醍醐天皇が尊治という諱の尊の字を足利高氏に与えた為に天下を奪われたと
いう話があるな。
さらに時代を遡ると淳和天皇の諱が大伴なので古代からの有力氏族である大伴氏が伴に改姓してる。

ただ武家は一字拝領とか通字があるし、中国の諱を避けるって概念は全くないよな

798:人間七七四年
10/05/08 22:51:28 OmHIRbdi
>>797
江戸期の藩だと、君主の世子が元服して諱が決められると、その諱の文字が
自分の諱にある家臣は、諱の変更をすると言うのが普通だったみたい。

一字拝領と言うのはあくまで特権で、そういう特別な許可がないものはやはり
諱の文字は避けなければならなかったようだ。


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