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織田勢力圏において美濃苗木城は常に対武田の最前線であり、遠山友勝以来、信長の命によりこの城を任されてきた
苗木遠山氏にとって気の休まる時はなかった。
特に武田の武将、秋山信友が、美濃遠山氏の宗家にあたる岩村遠山氏の居城岩村城に攻め寄せ、信長の派遣した
織田信広、河尻秀隆が率いる援軍も撃退、天正元年(1573)、ついにこれを降伏させると、苗木城は武田の圧力を
正面から受けることとなった。
このような中、苗木城主の遠山友忠、友政親子は信長の信任に答え必死に耐えぬいた。
天正二年の武田勝頼による東美濃侵攻に対しては、友忠の次男で阿寺城を守る遠山友重が討死するなど
多大な犠牲を払いながらも、この撃退に成功した。
天正三年、長篠の戦い、そして同年の岩村城の奪還で武田の圧力は大きく減退する。
そして天正十年、武田家滅亡。苗木城にはようやくの平穏が訪れたかに見えた。だが
同年、本能寺の変
翌天正十一年(1584)五月、苗木城は再び敵の軍勢を迎えた。当然ながら今度の敵は、武田ではない
(^^)「こんにちは。鬼武蔵です。」
織田家の同僚、森長可の軍勢であった。
羽柴秀吉の黙認をとりつけた長可は、東美濃の織田家の同僚たちに襲いかかり、その牙は苗木城にも
向けられたのだ。
武田の攻撃を耐えぬいた苗木城であったが、秀吉の後援を受けた長可に対し、援軍の目処も無く
とても防衛出来るものではない。
城を枕に討死か、一旦落ち延びて再起を図るか、遠山友忠、友政親子は悩んだ末、後者を選択した。
苗木城を落ちた遠山親子と家臣たちは、美濃の山々を越え遠江の浜松城へと向かい、徳川家康を頼った。
家康は彼らを受け入れた。
この亡命と言うべき生活の中、遠山友忠は浜松で客死する。苗木に帰れなかった父の無念、息子友政は帰還の意を
更に強くした。が、その手立てもつかめぬまま時は過ぎる。遠山友政は家康に従い関東に移り、美濃どころか
榊原康政配下として遠く離れた上州の館林にその身を置いていた。が、
慶長五年(1600)、関ヶ原
時や至り!遠山友政は出陣に先立ち、徳川家康に美濃路、木曽路の地理を詳細に報告、さらに西軍に参加している
川尻直次が城主となっていた苗木城の奪還を申し出た。家康はこれを高く評価し、黄金と鉄砲30挺、弾薬2万発を
友政に与え、中山道を通る徳川秀忠隊の先鋒を命じた。
途中上田城で足止めを強いられた秀忠隊であったが、家康からの連絡により関ヶ原に急ぐ。
苗木以来の家臣団を率いた遠山友政の部隊はその先駆けとしてついに、父祖の地、苗木城に迫った!ところが、
城の東から攻め寄せる遠山軍に対し、苗木城主、川尻直次の城代関治兵衛は戦わずして降伏した。
「関ヶ原での決戦の結果西軍は壊滅し、わが主君川尻直次は討死したとの連絡がありました。
この城はお引渡しいたす。」
呆気ないと言えばそれまでである。が、この城を落ちて16年、ついに苗木城を取り戻したのだ。
遠山友政、そして遠山家中の者たちの感激は、いかばかりであっただろうか。
友政はさらに岩村城も攻略し東美濃の平定に大いに活躍。家康はこの功に対し、苗木城を含む
恵那、加茂両郡、一万五百二十一石を与えた。
苗木は再び、苗木遠山家のものとなった。
この後苗木遠山家は美濃苗木藩として、国替えも改易も受けることなく、明治まで続く。
今、苗木城の本丸跡に置かれた石碑には、このような一文が刻まれている。
『戈(ほこ)に枕し膽(きも)を嘗め 百敗屈せず 時や至り よく舊(旧)物を復す』
父祖が血潮で守りぬいた地を取り戻した、苗木遠山家のお話である。