10/03/28 12:57:15 LAsO0/Hi
よく知られている話だが、関ヶ原合戦時に本多忠勝は僅か400人程の部隊しかいなかった
これは本来の軍監である井伊直政が出陣前に病に倒れて、その代理となったためであるが
(直政は少し後に復帰している)、常識ではこの程度の少数では大して役には立たないと思う
だろう
ところがギッチョン、関ヶ原合戦において忠勝は正に関ヶ原をところ狭しと駆け回っている
開戦前には直政と松平忠吉と共に中央にいたが、その後に家康の命令で烏頭坂で南宮山の
毛利勢が迂回してこないか監視をしている
来ないと判断した午の刻後の行動はもはや神出鬼没
先ず、宇喜多の部隊を横撃してこれを崩すと、次に島津へ攻撃をする
この時に馬を撃たれるも直ぐに他者馬を借りると、今度は石田の最後の反撃を、周りの部隊を
率いて撃退している
この結果として400人の本多隊が得た首級はなんと90余り、これに対して5100人とされる細川隊は
136というのだから、彼が後の作品でMS化するのもむしろ当然というべきなのかもしれない