10/03/24 10:22:57 sGuRgWYh
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
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【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
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2:人間七七四年
10/03/24 10:53:41 Iakia8Yt
こっちが本家でよろしいですかな?
3:人間七七四年
10/03/24 11:39:33 rSTJ7UhL
>>1乙
秀吉公に本スレのお墨付きを貰うために急行するのじゃ
雨だの嵐だの川の増水だの気にしていてはいかん!
4:人間七七四年
10/03/24 12:24:56 TBNcvJtz
>>3なら三斎様、>>1-1000まで全員御手討ち
5:人間七七四年
10/03/24 13:54:20 zooLblaE
>>4
ワンナウトー。
6:人間七七四年
10/03/24 15:04:23 rJu8Eq8V
スリーアウトで首がチェンジか
7:人間七七四年
10/03/24 15:37:14 YU9+S+sR
場合によってはトリプルプレーもあります
8:人間七七四年
10/03/24 17:25:32 yVAAnqnm
将軍秀忠が在京していた頃、江戸で辻斬りが頻発し、民は難儀していた。
そこで秀忠は酒井忠勝の提案に従い、板倉重昌を江戸に向かわせた。
江戸に到着した重昌は老中および旗本たちを集め、秀忠の上意を伝えた。
「おのおの方が残っておられるのは留守中の用心のためである。
ゆえにおのおの方が何故腰抜けになっているのか調査せよと私は命じられたのだ」
何を言っているのか皆目分からない、と老中たちが思っていると、
大久保彦左衛門が前に進み出てきた。
「将軍は何をお聞きになったのか。
なぜそのようなことを仰せになるのか、拙者にはさっぱり分からん」
「用心のために武勇ある方々を残したのに、辻斬りが出て民は迷惑している。
しかも、辻斬りを捕らえたとか討ったという知らせもない。
これはおのおの方が辻斬りを恐れて引き篭もっておるからではないかな?
上様は辻斬りごときにこの体たらくでは、万が一にも城を狙う者が現れたら
どうするつもりか、と御心痛であられた…」
重昌の言葉を聞いた彦左衛門は
「なんと!そのようなことにも気づかなかったとは恐れ入りまする。
早速、今夜から若い連中に狼藉者を討ち取るよう徹底させましょうぞ。
今日までの不覚悟については、なにとぞ上様におとりなし下され。
みなの衆も覚悟はよろしいな!」と珍しくかしこまった。
その場にいた者はみな彦左の言う通りだと言って帰っていった。
それからはみなが夜回りを始めたので辻斬りもぱったりと絶え、民は安心して
外出できるようになったという。
9:人間七七四年
10/03/24 19:17:40 UALP1HkY
>>8
いい話ってのはわかるんだけど、素直な三河者って気味が悪いなw
10:人間七七四年
10/03/24 19:30:36 rUKZoSGo
逆に考えるんだ
辻斬りが出てるので見回りしろと命じても三河者が素直に従うわけないから
あえてこう言ったんだと…
11:人間七七四年
10/03/24 19:53:08 Iakia8Yt
命令自体がひねってあるパターンもあるのか
12:人間七七四年
10/03/24 21:14:50 WTBHJbxq
実は腕試しのために彦左衛門が辻斬りしていた
13:人間七七四年
10/03/24 21:30:38 uUUxK7/A
彦左と重昌が一芝居打ったとしか思えん
14:人間七七四年
10/03/24 21:38:00 29KskcLX
一芝居をあの彦左が……!?
15:人間七七四年
10/03/25 10:07:38 wypxF/7k
見廻りすることになった若い衆が実は辻斬りだったってオチ?
16:人間七七四年
10/03/25 10:55:23 /aTMx6xw
>>15
そんなオチはいらんw
17:人間七七四年
10/03/25 11:32:59 I2qHe1hd
三河武士的には辻斬りを捕まえられなかったから切腹するとか言い出しそうな気が
18:人間七七四年
10/03/25 11:45:27 sN0HMPqi
秀忠さんがさっさと辻斬り捕まえろ的な直接的な上意なら切腹した者もでたかもね~
19:8
10/03/25 12:04:34 pKK7oMps
>>8
ちょっと補足するけど臆病者調査とか上様御心痛は重昌のでまかせ
彦左さんはまんまと乗せられちゃったようです
20:人間七七四年
10/03/25 16:45:53 sSOJq7mP
>>15
おれもそう思ったw
実は違ったとか意外すぎる。
21:人間七七四年
10/03/25 18:12:24 797P9Qax
家光も若い頃は辻斬りのために深夜に徘徊してたんだっけ?
22:人間七七四年
10/03/25 18:16:17 GUUyZXEy
辻斬りといえばいえば秀吉の時代大阪で辻斬事件が頻発したとき、「犯人は大谷吉継だ!」って
噂が実際に流れたらしいな。
23:人間七七四年
10/03/25 18:50:59 JAdl3r8U
>>21
柳生十兵衛が家光を諌める為に、女装して通行人に成りすまし、
切りかかってきた家光を無刀取りした上に、堀に叩き込んだとか。
まぁ創作だな
24:人間七七四年
10/03/25 19:30:15 9/WLFs8d
>>22
百人だか千人だかを斬ればハンセン病が治るってやつか。
時代は違うが黄門様も若い頃に辻斬りやってたらしいなw
25:人間七七四年
10/03/25 19:49:01 pK9JVQGX
某大河ドラマじゃ、水戸黄門のパパが家光と一緒に辻切りやったり、女湯のぞいたりしてたな
26:人間七七四年
10/03/25 19:50:55 797P9Qax
>>23
それは創作くさいが、側近の日記か何かに「上様がお忍びで夜間外出」とかあったような・・・
まぁ記憶は定かでないが・・・
27:人間七七四年
10/03/25 19:53:05 jNJ8r0Bz
大谷吉継さえそういう陰口叩かれるくらいだから、やっぱ偏見は強かったんだな
28:人間七七四年
10/03/25 20:00:28 JAdl3r8U
>>26
目黒のさんまのモデルとも言われるし、ふらふら少人数で外出はしてたらしいから
まぁ完全に無いとは言い切れないわな
29:人間七七四年
10/03/25 21:12:46 hhX1+ATP
小姓つれて遠乗りとかしてたらしいな
30:人間七七四年
10/03/25 23:42:56 S0Pka7tr
小姓に乗っていたのか
31:人間七七四年
10/03/25 23:59:04 GUUyZXEy
家光は江戸の庶民にすごく人気があったらしい。はじめての江戸っ子将軍でもあったわけだしね。
32:人間七七四年
10/03/26 00:05:23 SuK3zr9o
>>30
ボケるのはいいが、家光は乗られる方だろ
33:人間七七四年
10/03/26 10:40:04 +jHuDg+b
柳生さんちの次男には乗っていたという噂
34:人間七七四年
10/03/26 13:14:47 WG15xbrU
そんな治安が悪かった整備中の江戸城下でのお話
ある虚無僧が市中で托鉢をしているとチンピラ3人ほどにからまれた。
虚無僧は相手は刀を持っているし、第一に騒ぎを起こしてはまずいと考え身を翻しその場から逃げるがいつの世も下層のDQNの習性は変わらないらしく
チンピラたちは面白がって虚無僧を追いかけはじめた。
逃げる虚無僧追うチンピラ
しつこく追ってくるので虚無僧はなおも逃げる
チンピラどもは虚無僧はなおも逃げるのでさらに追う
逃げ……るのも馬鹿らしくなったのでその虚無僧はチンピラどもに向かっていくと刀を奪い、あっという間にそのチンピラどもを斬り伏せてしまった。
そこで騒ぎを聞きつけた捕吏が駆けつけ、その虚無僧を召し捕らえた。
虚無僧は大人しく縄につき取調べをうける事になるのがだが捕吏は名前を聞いて驚いた。
虚無僧「立花宗茂が臣、十時連貞と申す。それがしは騒ぎを起こしてはまずいと一度は逃げ穏便に済まそうと思ったのだが
いかんせん相手が分を弁えず追ってきてその身を守るため致し方なく応戦した次第である。」
と名乗り、騒ぎの顛末を臆することなく説明した。
そう、この虚無僧は托鉢をして浪人中の主君・立花宗茂の生活費の足しにと家臣の十時連貞が変装していたのである。
相手は浪人中とはいえ以前は10万石越えを大名の家老格。捕吏は対応に困り上役に相談。
その上役も上に話をもっていきとうとう幕臣土井利勝の耳に入るまでになってしまった。
その結果、土井利勝の裁量で十時は無罪放免。立花宗茂は土井利勝の知己を得て御書院番頭として徳川家に仕えることになるのである。
後に旧領にまで返り咲く立花宗茂。そんな宗茂が徳川家に仕えるきっかけになった忠臣のお話でした。
35:人間七七四年
10/03/26 13:16:37 m2vNqE+P
人を外見で判断するのはよくないね……
36:人間七七四年
10/03/26 13:26:28 HbdxmTAb
相手を見る目もってたら下層DQNになってないって
37:人間七七四年
10/03/26 13:32:27 FO7gOmA3
虚無僧かと思ったら実はその正体は…
ってけっこう昔からある流れなんだな
38:人間七七四年
10/03/26 13:41:21 3pn5zINd
上泉信綱「ところで私は通りすがりのか弱い僧ですがこのおにぎりを食べませんか?」
39:人間七七四年
10/03/26 13:52:07 TEOUVpLd
さらっと流されてるけど素手から難なく三人切り捨てるってやべぇな
40:人間七七四年
10/03/26 14:01:56 WOTKBrOF
>>39
最初は尺八で応戦してたみたいよ
どっちにしてもやべぇな
41:人間七七四年
10/03/26 14:20:14 NO1CEvmp
立花家の勇者たちに掛かれば尺八すら死を呼ぶ武器に!
42:人間七七四年
10/03/26 14:23:06 6AW5Hw9P
後の音波兵器で・・・あれ?
43:人間七七四年
10/03/26 15:01:14 HOXmK8qc
尺八で応戦か…
ジャガージュン市が応戦してるのが猛烈に思い浮かんだ
44:人間七七四年
10/03/26 15:28:07 AcNm0Gp9
>>39
宗茂の家老ならそれぐらい軽いだろうと思わせてしまうあたりが正に信頼の立花ブランド。
45:人間七七四年
10/03/26 15:44:44 3pn5zINd
応仁の乱の前だが、坂本の馬借一揆が起こったとき、京の警備をしていた山名時煕(宗全の父親)
の兵十数人が馬借の一団300人ほどと遭遇し戦闘になったが、山名の兵はこれをたちまち
追い払ったそうな。
専門の武士とそれ以外とは、戦闘力がこのくらい違ったらしい。
46:人間七七四年
10/03/26 16:30:11 WG15xbrU
小早川「立花家の戦闘力は他家の三倍です」
47:人間七七四年
10/03/26 16:51:59 H+6kWPsT
明智光秀が自分の部下、それも雑兵まで、怪我などをしたときに手紙を書いていた。
48:人間七七四年
10/03/26 20:03:54 l58LZqSr
盛親さんは、どうして返り咲けなかったんでしょう・・・
49:人間七七四年
10/03/26 20:28:40 sRc8Lis8
>>34
家老身分だった人が托鉢までしてくれるって宗茂ってよっぽど好かれる人だったんかね~
最近切支丹ネタが多かったので便乗して小ネタを一つ
昔読んだ本に載っていたものでうろ覚えだけど割と好きな話なので失礼しますよ。
宣教師が歩いていると、道にある小さな仏像に手を合わせ、熱心に祈っている男がいた。
宣教師は早速この男を教え諭してやらねばと思い「そこに神はいない」と教えてやった。
すると男はびっくりした顔で「勿論いない」と言った。
その答えに宣教師は驚いて「では何故祈るのか?」と聞くと、
男はしばらく考えた後「仏もまた塵」と呟き、そのまま立ち去ってしまった。
宣教師がその答えに対してどう思ったのかは謎。
50:人間七七四年
10/03/26 21:12:59 ygUQtYjy
>>34
十時さんはいい人だよねぇ
宗茂よりも長生きするし、島原の乱でも一緒に出陣してくれたし
51:人間七七四年
10/03/26 21:26:17 q561o+EU
>>40
尺八で刀を受けたとかなんとか。
どんだけ固い尺八だよwとか思ったけど、
チンピラの刀がナマクラだったと考えるほうが自然か。
52:人間七七四年
10/03/26 21:42:05 5xKnendy
>>48
田舎者だから、政治、外交、情報に疎い
53:人間七七四年
10/03/26 22:08:04 pyjzUikH
大久保彦左衛門の第一次上田合戦
ある時とうとう真田と徳川が手切れとなり第一次上田合戦が始まった。
コレにはまだ若かりし頃の徳川二十八将の一人、大久保彦左衛門(当時は大久保平助)も、
元気に参加していた。
ちなみにこの合戦、真田家には昌幸と信幸が大将として参加していたが、
徳川家も負けてはいない。鳥居元忠、平岩親吉、諏訪頼忠、保科親子(正直と正光)そして、
「金の揚羽蝶」大久保忠世と「銀の揚羽蝶」彦左衛門の面倒くさいブラザーズなど
そうそうたるお歴々といいうより、天下に名を知られていた人たちである。
とはいえ、結果はご存知の通り徳川の負け。上田城の二の丸まで攻めたものの砥石城からの逆襲
で側面をつかれて敗走したらしい。我らが信幸兄ちゃんは砥石城にいたそうなので、要は
信幸兄さんにこてんぱんにやられたと言うことです。かっこいいですね。
さて、ここで彦左衛門さんは敗走する徳川軍の中で精一杯戦っていたところ真田の家来で
日置五右衛門尉という武者が、なんと、真田軍と思いこんで入ってきたのを彦左衛門が発見した。
彦左衛門「標識がない。敵だ!突き落とせ!」
日置「ちょ!まて!よく見ろ八幡だ!俺!オレ!オレだよ!日置五右衛門だよ!敵じゃねえ!」
日置さん・・・・ここ徳川軍です。
つづく
54:人間七七四年
10/03/26 22:08:55 pyjzUikH
>>53
大久保彦左衛門は槍で突こうとしたものの、日置の従者に邪魔されてつけなかったので
近くにいた兄貴の家来の気多(ケタ)甚六郎に突かせたがコレも腰あたりに命中し失敗。
日置の首を取れなかったのだが・・・
日置「河中嶋衆之早く助けたりと思ひ、味方と心得て敵之中を通りける処に、大久保七郎右衛門尉弟の平助に突かれたる」
(意訳:味方助けに来たら敵じゃねえか!大久保忠世の弟の彦左衛門に槍で突かれちまった!)
彦左衛門「いやいや、我も突いてあれ共、我が突く鑓は捲けられて、五右衛門尉にあたらず。気多甚六郎とて
七郎右衛門尉者が鑓があたるなり、我にはあらず。」
(意訳:俺も突いたが失敗して兄貴の家来の気多のが当たったんじゃ!俺じゃねぇ!)
というわけで、この勝負、
大久保彦左衛門「刺突失敗」(引き分け)日置五右衛門尉「負け逃げ」
と締まらないことになっていたところ、これまた敵と知らずにやってきた真田兵と
同僚の天野小八郎が戦っていたのを見てみたら、相手は何と17か18才くらいだった。
彦左衛門「倅にて有ぞ。むごきに、赦せ。」
(意訳:まだガキじゃねえか。勘弁してやれよ。)
この勝負
天野小八郎(大久保彦左衛門預かり)真田の少年兵
である。助けてしまったんですなって、よくこんな余裕有ったな彦左衛門!
というわけで、大混戦の中で敵兵の命を助けた彦左衛門であった。
後に彼はこれを回想して三河物語に書く。
この少年兵を討たなかったのは、
『若気の至り』
であったと。
それにしても、ボロ負けした中でもちゃっかり自分の戦いは三河物語で自慢する彦左衛門さんであったが、
この時、神ならぬ彦左衛門のみならず参加した徳川兵全員だけではなく
勝利をかみしめた真田家全部ばかりか真田昌幸も、いや、真田信幸に至っては自分に降りかかることで
あるにもかかわらず気付かなかったことがある。
徳川四天王の本多忠勝が娘の小松の嫁入り先に頭を抱えていたという事実を!
そしてコレがずーーーーと後に信幸にとって・・・・・・・・・・・
この話の原典は
日本思想体系第26巻「三河物語 葉隠」(岩波書店)の三河物語(大久保彦左衛門著)で
お送りさせて頂きました。
業務連絡
ここで出てきた「日置五右衛門尉」って、どなたなんでしょうか?
三河物語にも「真田家内」となっているので真田家の武将というのはわかるけど。
まさか、歴史に残る著作に自分の間抜けぶりがのせられるとは・・・・
55:人間七七四年
10/03/26 22:51:26 TEOUVpLd
>>49
祈ってる男の答えが良く判らないなぁ
仏典にこういう説話があったりするのか?
56:人間七七四年
10/03/26 22:58:32 m2hqz2yi
武田信玄「尺八の使い手かいると聞いて飛んできました
それがしの槍を受け止めてみよ」(道雪さんに会いたいなぁ
>>55
華厳経ですなググッテみるヨロシ
57:人間七七四年
10/03/26 23:11:19 f/G7pzD0
>>54
真田側の記録だと日置五右衛門は三河出身の旧武田家臣
「依田助十郎」とともに大久保忠世の首を狙って潜入したが、彦左衛門にバレて
五右衛門は逃亡、助十郎は討たれたことになっている
真田が身内をかばってるのか、彦左衛門の記憶違い(?)かは不明
日置五右衛門の子孫は沼田藩で大小姓組頭百五十石取り
同心十五人持ちの御先手鉄砲組頭衆と同格なので、なかなかの家格
58:人間七七四年
10/03/26 23:17:42 TQXd8Uql
>>57
もしそれが事実なら、彦左衛門の性格からして嬉々として触れ回るんじゃないか?
59:人間七七四年
10/03/26 23:19:06 TEOUVpLd
>>56
世の中の全ては塵一つでさえ奈良の大仏さんの一部なんだから
俺の拝んでる仏像だって仏の一部
全ては仏の一部なんだから拝む対象が何とか仏がどこにいるかとかこまけぇ事はいいんだよ
ってことかな?
60:人間七七四年
10/03/27 00:16:15 Wf9R/XXk
>>57
おぉ!ご指摘サンクスコにござる!
日置さん討っておけば出世出来たのにね。
「依田助十郎」の記述は三河物語にはないので
別方向か突入時に彦左衛門の見えないところで
戦死かもしれませんな。
>>58
どうもこの時は、退却戦による大混戦で
首までは取れる状況ではなかったそうです。
三河物語にも『頸をば取らずして』踏ん張った
事が記載されています。
61:人間七七四年
10/03/27 14:02:30 faFhPXNC
実はフロイス、異教徒は大っキライだったケド、意外にも日本建築や仏教美術に関し
ては素直に褒めている。
「欧州の建築物の方があらゆる面で数倍も優れている」
「こんな僻地で、他の国も知らず、戦争ばっかりしてる連中だからこの程度で満足し
てるのも仕方ないんだけどねwww」
などといつもの罵詈雑言を振りまきながらも、
「清潔さと整然とした様は素晴らしい」
「寺院だけでなく、住居や貴族の邸宅や庭園までもがそう(清潔で整然としている)
なのだ」
と、フロイス補正をかけて読んでみれば、手放しの絶賛と言っても良い評価だ。
仏像に関しても
「(三十三間堂に収められている仏像の中で)一番巧妙で、奇抜で、素晴らしい像は
乞食の像(婆藪仙人像)である。この像は男の貧苦を真に迫って表現しており、本当
に一見の価値がある」
「これらの像はどれも極上等の金箔が厚く施されていて、その顔は美しく、均整が取
れている。この驚異に眼を見張らせる素晴らしい像が多数並んでいる様を見渡すと、
全く荘厳な印象を受ける」
……おいおい、どうした、何か悪いモノでも喰ったか?
それとも霜台さんちに行った時、うっかり茶でもご馳走になってしまったのか?
そう聞いてみたくなるほどの褒めっぷりだ。
仏像=燃やすモノ、という視点以外からでも見ることが出来たんだねぇ、フロイス。
まぁ、カトリックは偶像崇拝してるし、将来は京都か奈良の仏師にマリア像を彫らそ
う、なんてコトを考えていたんだろうか。
何はともあれフロイスの口から
「素晴らしい出来の仏像」
「仏像を見てると荘厳な印象を受ける」
などという言葉が聴ける日が来るとは思わなんだ。
かなり意外なフロイスの一面が見れた良い話(?)
62:人間七七四年
10/03/27 14:08:41 tJYTm6p2
>>61
昼間っから酒でも飲んでたとしか思えないw
63:人間七七四年
10/03/27 14:52:37 TR/bCxmh
この清潔や整理への美意識の高さや美術を神に向けられれば新たなるステージへ!と思ってたのは間違いないなw
いかにフロイスとはいえ清潔なほうが居心地いいのまでは信仰で弁護できるレベルじゃないんだなw
64:人間七七四年
10/03/27 15:11:34 EbQGJfNZ
フロイスが生まれたのは初期ルネッサンスだから芸術はまだ未熟な時期だ
こういうあり方も有りではないか?と問いかけられた時期に日本に来た訳だから本国とは全く別の芸術性に魅入られても不思議ではないな
65:人間七七四年
10/03/27 15:12:17 0NF33NPo
これがある朝鮮通信使とかになると
こんな土地を倭奴が治めてるのはもったいない
ウリの王様の徳でこいつら畜生どもを導いてやりたいものだ
とか考えるんだよな~
66:人間七七四年
10/03/27 15:56:55 I1zqxNju
朝鮮出征あったし、まあそういう感想になるのも仕方がないかな。
国は近ければ近いほど仲が悪いもんだ。
67:人間七七四年
10/03/27 15:58:18 U/MISp0j
大名同士も隣国だと犬猿の仲になるからね
D家とその周辺とか、K家とH家とか、T家とK家とか
68:人間七七四年
10/03/27 15:59:41 e84Iw2op
宣教師って朝鮮半島やら中国でも布教したりしてたのかな?
69:人間七七四年
10/03/27 16:23:12 E7k25Rqj
中国には普通に布教しにいってるよ
ザビエルだって日本の後中国へ行っただろ
それなりに成功したけど最終的に撤退してる
70:人間七七四年
10/03/27 16:30:54 JNpqLnNb
中国では布教がずっと禁止されていて、どうにか布教が始まったのは日本よりも後で、
マテオ・リッチが1582年に中国に入ってから。
ちなみに日本はザビエルが1549年から。
朝鮮の場合は完全に禁止されてた。なので朝鮮役の時キリシタン大名の軍に
宣教師がくっついて行って布教してた。
71:人間七七四年
10/03/27 16:47:22 tJYTm6p2
半島に本腰入れ出したのは1800年代半ばだったかな
たしかフランス人宣教師が潜入バレて殺されてたはず
1800年代末くらいからアメリカ人牧師の家系が4世代くらい
腰据えて布教してたんだったか
ちなみに自称従軍慰安婦の根拠になってるレポート出したのが3代目
72:人間七七四年
10/03/27 21:38:56 U/MISp0j
後藤や母里どころか菅や益田まであるのに、筆頭家老の項目がないので、
栗山利安の話を二つほど出してみる
15の時に黒田官兵衛孝高に仕官して以来、生涯挙げた首級は57にものぼり(これは母里太兵衛に次ぐ)、
有岡城に囚われた主君を救いだしたり(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))、
母里らと共に主君の奥方を護衛したり(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))、
家中で一番我の強い母里太兵衛に兄貴と慕われ(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))、
長政と母里の大人げない喧嘩を仲裁するのはいつも彼の役目で
(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))、
とても機転の効く人だったので(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))、
長男の大吉(大膳)誕生の折には長政がわざわざ祝儀に栗山家に出向くほど彼を重用し、
如水公からはあの合士兜を形見に与えられるような(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))、
とてもあの栗山大膳の父親で済ませられない、黒田家存続に一役も二役もかっているスーパーご家老です
そんな栗山備後利安も76の時息子に家督を譲って卜庵と称します
そして、長政死後の8年のちに亡くなるのですが、
その臨終の時の話、意識不明だった利安が突然声を上げます
馬よ!鉄砲よ!彼方に敵が出た。味方の人数を揃えてあの山に鉄砲を放て!
栗山利安は戦国を生き抜いた一人の武将として81年の生涯を閉じました
73:人間七七四年
10/03/27 21:43:33 9acQ2KNU
こういう死に方はかっこいいね。
長政より長生きしてたのは知らなかったから驚いたけど
74:人間七七四年
10/03/27 22:00:16 +jFMHrBb
>>64
フロイスが生まれたのはルネサンス後期だよ
ダヴィンチやラファエロなどルネサンス盛期の芸術家はもう死んでて
美術史でいうとマニエリスムに入ったあたりだから
聖職者であるフロイスは彫刻や建築などは完成されたものを間近に見てるはず
75:人間七七四年
10/03/27 22:16:23 U/MISp0j
息子と若き藩主の不和という心残りを残しつつ、81年の生涯をまっとうした栗山利安
息子の大膳が父の遺産整理をしてみると、なんと銀百貫目もの未返済の貸金があったと言います
栗山利安という人はつつましやかで忠義心が厚く、家中の者には身分の上下を問わず慇懃でありました
華美贅沢を好まず、倹約かなところはさすがあの黒田親子の重臣というところであり、
家中の者が普段派手な服を着ているのを見かけると呼びつけて、
「衣服には礼服と、普段着と、晴れ着があって、普段から豪奢な服を着るもんじゃない」と叱りつけ、
高い馬を買ったものがいると聞きつけるとそのものを呼びつけて、
「どんないい馬でも二頭分の働きをするわけじゃない」と苦言を呈したと言います
と、一見とても吝嗇な御仁に思えますが、大事な時には惜しげもなく金銀を遣ったそうです
そして、とても面倒見のいい彼は
「なに? 殿の江戸出府にお共する支度をしようにも金がない? よし、貸してやろう」
「仰せつかった普請をしようにも金が足りないそうだな。俺が貸してやろう」
と、部下たちに気前良くお金を貸していたそうです
しかも、後で返済に来た分は受け取るが、返済しないからと言って取り立てることもなかったようで、
そうやって積もり積もった貸金が、筑前入府から利安死後の30年間で積もり積もって百貫目だったそうな
ちなみに一貫目=1000匁で、慶長14年で1両=銀50匁だから、2000両?
1両が現代でいくらになるかは5~20万と諸説あるそうですが、
とりあえず寛永期なら下女の年間の給料が0.5両だそうです
76:人間七七四年
10/03/27 22:22:51 U/MISp0j
>>73
というか、黒田家は三代藩主(長政の孫)が80まで生きたのを除けばだいたい50代で亡くなってる
大坂の陣で討ち死にした又兵衛と京都で病死した長政の享年が1歳しか違わんし
77:人間七七四年
10/03/27 22:27:11 JNpqLnNb
>>75
この時期は1両の価値が最も高かった頃だと思うから、20万円とすると
4億円ですか。おそろしい。
78:人間七七四年
10/03/27 22:29:07 9acQ2KNU
>>76
そうなんか。いや、自分の浅学が恥ずかしい…
長政とかすっげー長生きなイメージがあったんだよな
79:人間七七四年
10/03/27 22:38:09 U/MISp0j
>>78
長政はデビュー(?)が早いからね
関ヶ原の時まだ33歳だからね
URLリンク(homepage1.nifty.com)
80:人間七七四年
10/03/27 23:59:49 uCPa+oT/
長政が亡くなったのって、忠興や宗茂より早かったよな?
何故この2人なのかに意味はないが
81:人間七七四年
10/03/28 00:03:40 CuotIvt1
>>80
まぁ二代目つながりってことで
82:人間七七四年
10/03/28 00:09:38 aHvwDqWg
>>74
間近に見てるはずってフロイスが生まれたのはポルトガルな上に10代のうちにインド行ってるだろ
あちらの芸術に触れてたとしてもほんのわずかだと思うが
83:人間七七四年
10/03/28 00:15:18 Jg0QSE/g
元亀元年(1570)四月、遠江を襲った武田信玄の軍は、進路を変え三河へと侵攻した。目標とされたのは
菅沼定盈の守る、野田城。
信玄は田峯城主、菅沼定忠らを案内とし、山県昌景、相木市兵衛の部隊を派遣した。
武田軍の襲来を知った野田城では緊急に軍議が開かれ、浜松の家康の元に撤退することとなった。
が、その場に城主、菅沼定盈がいない。城主がいなければ正式の命令は下せないのだ。
「殿は、殿は何処!?」
重臣たちが近習に聞けば、「トイレに入ってます」という。
「トイレ!?」
しかし何時まで待ってもこないので、業をにやした足軽大将、山口五良作はトイレまで自ら出向いた。
するとそこでは
バンバンババンバン
「ふっふ~んふふっふ~ん ふははは~ん♪」
菅沼定盈はトイレの中で呑気に謡曲を歌っていた、しかも前板を叩いて拍子をとりながら。
武田の大軍が目前に迫っているというのに、どう言う神経だろうか。
あまりの事に山口は怒鳴った
「殿!敵は早くも近くまで寄せ来ています、このままでは御討死にすること疑いありません!
大将たる者は命を全うして御運を開く、これが良将のとるべき道であります。
どうか早々に撤退命令をだし退去して下さい!それがしがその後ろを防ぎます!!」
「ふふふふ~ん♪ ん?…そうか」
定盈はようやくトイレから出てきた。そこに近習が手水を持ってきた。ところがそれに手を入れて
「なんだこれは?水ではないか。いつも手水には湯を使っているのに、敵が近づいたからと言って
水を使うということがあるものか。」
そう言っていつものように湯を持ってこさせ、それからようやく甲冑を付けると、南の曲輪より
悠然と城を出た、と云う。
緊急事態でも肝の座った、菅沼定盈さんのお話。
84:人間七七四年
10/03/28 00:17:02 aHvwDqWg
有事に悠長にしてんなw
85:人間七七四年
10/03/28 00:22:40 x4dGMo4i
まあ緊張してたら小便もでないしな まずはリラックスしないと
86:人間七七四年
10/03/28 01:43:22 TUfR9lv4
逃げてる最中にウンコもらすなんて人生最大の恥だからね
87:人間七七四年
10/03/28 02:20:29 rwSDdJeL
普段からこのノリなのか、実はテンパっててこの意味不明なハイテンションなのか、
判断が難しいところだ
しかし、唄なんぞ歌いながらトイレってかえって落ち着かんと思うんだが
小ならいざ知らず大なら一意専心・精神集中が必要だろ絶対
88:人間七七四年
10/03/28 02:30:47 XFJJ1Lmc
まあ城主が取り乱してたら下にまで伝播するしねえ。
89:人間七七四年
10/03/28 02:32:51 ccwYL6Im
しっことうんこじゃ出す時に使う脳神経が微妙に違うような希ガス
力みまくると屁がでるように 急に座ったり立ったりすると尿漏れするように?
うんこするときはおしっこが先にでるように おしっこ我慢してるとうんこしたくなるように
うーん 謎だ
90:人間七七四年
10/03/28 03:36:44 PCZf7FMs
配下を落ち着かせようと演技してみたけど、
あまりにやばい状況でテンパってたからズレた感じになっちゃった、
に一票
91:人間七七四年
10/03/28 03:43:17 ccwYL6Im
たしかにしっこにはリラックスが必要だけど
うんこには気合が必要だ うんこしてて脳溢血でぶっ倒れたりするじゃん
うんこは出したとき達成感があるがしっこは寝ててもおねしょするし
92:人間七七四年
10/03/28 04:11:15 4YX5mg6t
気合入れなくても快便な人はいるんだぜ
あと寝てるときに(以下略)な世界もあるんだぜ
貴方の知らない世界。
93:人間七七四年
10/03/28 07:52:39 PC767Gw5
>>91
謙信のことか。
94:人間七七四年
10/03/28 08:58:47 jwAipzf0
話がずれてきてるぞw
>>85
だから味噌だと言って(ry
95:人間七七四年
10/03/28 09:11:41 XPPRMRB6
>>93
やっぱり一般的には、謙信が便所で用を足している時に倒れたと思われてんのかなあ
上杉好きとしては微妙な感じだ
96:人間七七四年
10/03/28 09:36:27 JyvT6qu3
日本の支配者層のトイレも中国みたいにナニできることを想定した造りになってるんかな?
97:人間七七四年
10/03/28 10:17:11 VUSRfUUu
masamuneのトイレは6畳間と聞いておじゃる
98:人間七七四年
10/03/28 10:18:14 g1cY4v1Z
トイレと言えば信玄
よくテレビでもやってるな
99:人間七七四年
10/03/28 10:21:03 hyeEo6cO
日本初の人工水洗トイレを使ったのが信玄なんだっけ?
100:人間七七四年
10/03/28 12:09:59 hyeEo6cO
そう言えば、昔読んだなぞなぞの本で、
伊達政宗のうんこは硬いか、やわらかいかというのがあったな
101:人間七七四年
10/03/28 12:57:15 LAsO0/Hi
よく知られている話だが、関ヶ原合戦時に本多忠勝は僅か400人程の部隊しかいなかった
これは本来の軍監である井伊直政が出陣前に病に倒れて、その代理となったためであるが
(直政は少し後に復帰している)、常識ではこの程度の少数では大して役には立たないと思う
だろう
ところがギッチョン、関ヶ原合戦において忠勝は正に関ヶ原をところ狭しと駆け回っている
開戦前には直政と松平忠吉と共に中央にいたが、その後に家康の命令で烏頭坂で南宮山の
毛利勢が迂回してこないか監視をしている
来ないと判断した午の刻後の行動はもはや神出鬼没
先ず、宇喜多の部隊を横撃してこれを崩すと、次に島津へ攻撃をする
この時に馬を撃たれるも直ぐに他者馬を借りると、今度は石田の最後の反撃を、周りの部隊を
率いて撃退している
この結果として400人の本多隊が得た首級はなんと90余り、これに対して5100人とされる細川隊は
136というのだから、彼が後の作品でMS化するのもむしろ当然というべきなのかもしれない
102:人間七七四年
10/03/28 13:03:30 hea7/9h4
>>83
相当の剛の者でも戦場では逸物が縮こまり尿意もなくなるというのに、なんと隆々たる・・・
103:人間七七四年
10/03/28 13:07:21 hea7/9h4
>101
小中規模の部隊を疾風迅雷、手足のように操るコトに特化した侍大将だったのかもしれんね
一言坂然り、小牧辺りの暴れぶりをみても。
「百万の兵を預けて采配を任せてみたい」より「300でも500でも、選りすぐりの精鋭を率いてフリーハンドで」戦わせたいタイプ
104:人間七七四年
10/03/28 13:25:16 btI8xG5y
北方あたりに書かせると騎馬隊率いて無双するところを生き生きと書いてくれる気もするなw
105:人間七七四年
10/03/28 13:45:32 LAsO0/Hi
小田原の戦いでも明らかなように数千単位でも問題なく統率はできる
でもやはり本分は「戦術級の数で戦略級の効果」を発揮する所なんだろうな
106:人間七七四年
10/03/28 14:17:29 p5J4WyaE
そりゃいくら何でも過大評価
107:人間七七四年
10/03/28 14:23:43 hyeEo6cO
本多忠勝は、敵中突破を図ろうとした島津を南へ押し出そうとしてるね
そのまま直進して家康本陣に突っ込んでいったら、大変なことになっていた
108:人間七七四年
10/03/28 16:12:22 rwSDdJeL
>>100
なぞなぞってことは、なんか謂れがあるんじゃなく単なる頓知ネタなんだろうが
そんな泣けてくるようなネタ話作られるとは有名になりすぎるのも困りもんだな…
109:人間七七四年
10/03/28 16:27:14 hyeEo6cO
>>108
いわれも何もないよ
伊達政宗は片目だからうんこも硬めだってオチ
こんなん子供の本に載せるなよって言いたい
ちなみに次のページは丹下左膳のうんこは~だった気がする
110:人間七七四年
10/03/28 16:29:27 Yke/BZxC
さらに次のページは「さくざのうんこは~」と続きます
111:人間七七四年
10/03/28 16:35:22 8ZPcvakz
小学○年生とかで定番のなぞなぞを戦国風にすると…
伊達政宗が雪隠で何者かに襲われた!
その手に握られた便所紙には筆で「ツマル」の文字が
犯人は誰だ?
112:人間七七四年
10/03/28 18:14:42 YAu3uToL
>>101
関ヶ原の戦ぶりを褒められた時の忠勝の答えが「敵が弱すぎた」だものね。
天下分け目と呼ばれる大戦で、そんなコメントできるだけで只者じゃないw
113:人間七七四年
10/03/28 18:57:18 oVOies6i
「ああ、そこに居るお主!そう、お主だ、お主!まぁ、こっちに来なされ。」
「?」「何と良い面構えじゃ・・・ピンと来たぞ!」
徳川家康への初出仕を終えた真田信幸は、大久保彦左衛門忠教に呼び止められた。
「間違いない、お主だ!あの神川合戦の折、わしが殿軍となって退却したが、その際にわずかな手勢で
我らを追撃する武者がおった。
そやつは片手で大長刀を振り回し、風切る音が我らまで届き、身の縮む思いがしたわ。わしの愛馬は
日頃自慢の速足なのだが、そいつさえもわしと一緒に躍り上がるように浮き足立って逃げたモンだ。
流石は真田の嫡男よな!」
信幸は彦左衛門の言葉に苦笑した。
「それは、私の親戚の矢沢但馬守頼康(妖怪ジジイの子)でしょう。私は小勢で追撃戦仕掛けるとか、
そーゆーアレな真似は苦手でして。」
ア、ソウナノ?(´・∀・`)
リアル無双の人の謙虚なムコ殿の話。さて、真相や如何に?
114:人間七七四年
10/03/28 19:13:40 swiBOTzE
>>112
小田原の役でも東海道方面の戦の大部分に顔出してんな
忠勝何人おるん?とか考えちまった。
115:人間七七四年
10/03/28 21:39:14 hOxsLVuk
龍造寺家の臣、土橋栄益は目障りな隆信を追放するべく他の城主達と
つるんで隆信を包囲した。城には鍋島ら家臣もいたが状況は絶望的であった。
「もはやこれまで…潔く腹を切ろう…」
隆信を始め全員が覚悟した時、敵側の将小田政光の家臣、深町埋忠が城までやって来た。
「今日は敵でも明日は味方となるのが武士の習いにござる。
こたびの事を痛ましく思い、主君や諸将とも協議いたしました。
隆信公の安全は保障いたしますゆえ、今宵のうちに城をお開きください。」
しかし隆信は埋忠の申し出を信じようとしない。
「馬鹿な、信じられぬ。騙し討ちされるくらいならここで腹を切る。」
すると再び埋忠がやって来た。
「神に誓って嘘ではござらぬ。かくなるうえは某が人質になりもうす。」
埋忠は丸腰で城に入って行った。ここに至ってようやく信用した隆信はその夜、
2百人ほどで城を出て、敵の大軍の中を女子供にいたるまで柄を切った槍を構えて
駆け抜けていった。
それから8年後、埋忠は隆信の急襲により討死した。
埋忠の死を知った隆信はその死を惜しんだという。
116:人間七七四年
10/03/28 22:10:36 hOxsLVuk
>>115
ゴメン、深町埋忠にしてるけど理忠のほうが正しいっぽい
117:人間七七四年
10/03/28 22:41:44 UlDLro1i
なんかよくわからんけど長宗我部と竜造寺ってかもし出す雰囲気が俺の中でかぶる
118:人間七七四年
10/03/29 00:06:19 pYMKijw0
国人クラスから急速に膨張してまた急速にしぼんだとこかな
士風だと長宗我部と島津がかぶる気がする
119:人間七七四年
10/03/29 00:37:07 IZqB6dxJ
>>113
ティンとくんなw 彦左社長
芸能プロ大久保党は、めんどくさい三河の殿様を天下人にプロデュースします♪
120:人間七七四年
10/03/29 00:42:54 TtwVoY1h
>>101
実際は、井伊配下とされている関一政が配下に付いたらしいけどな。
121:人間七七四年
10/03/29 02:02:32 BZqoCYo2
>>115
ふかまちただただ?まさただ?
122:人間七七四年
10/03/29 02:03:50 9hlaTYTO
う○この話で思い出したけど
上杉家の扇動で越後で一揆が起こり溝口宣勝は兵を出し、世間太兵衛という将が先陣を務めた。
彼は三条の城に向かう途中の小川であるものを見つけた。
それは、出来立てほやほやの う○こ だった。
これを見て彼は、
「ここらへんに一揆勢の伏兵がいるかもしれない」
と思い付近を探索したら予想が見事に的中する。
伏兵達は攻撃を受けて退却するも、彼らに散々に打ち負かされたという。
う○こ1つで敵の伏兵を撃退した彼のいい?話である。
123:人間七七四年
10/03/29 09:09:57 NPB8d1CG
ウンのいい話・・・じゃ失礼かw
124:人間七七四年
10/03/29 09:37:23 J8UVVYEn
一揆勢にとっては運の尽きだったな
125:人間七七四年
10/03/29 09:46:37 xEBAMTq5
>>111
だれだ?トイレの花子さんの仕業か!
126:人間七七四年
10/03/29 10:07:57 MgBQ21mC
>>124
ウンを出したばかりにな
127:人間七七四年
10/03/29 13:14:34 l9ru62jZ
昨日から(品の)悪い話スレになっとるw
128:人間七七四年
10/03/29 13:24:00 eaVqPCgE
公園にトイレがあるような時代じゃないんだからしかたあんめえ。
129:人間七七四年
10/03/29 13:26:49 eXiePoaF
「そんな事出来るわけがなかろう」
永正二年 (1505)、設楽郡を支配する富永氏の家宰、今泉四郎兵衛は苛立っていた。富永家の家督、の事である。
かつて設楽全体を治めていた富永氏の領地は、新興の奥平氏、菅沼氏に侵食され、
この頃には館周辺の野田郷四ヶ村だけとなっていた。
その上当主の富永千若丸は家の将来に絶望したのか、嗣子も無いまま乱心し自害してしまった。
これにて富永家は断絶した。この時、富永家の家来たちもその多くが四散したという。
「京の公家の若君に下向して頂き、お家を継いでいただくわけには行かないものか」
富永家は家格だけは高かった。そのため、残った家中の者たちはその家格をどうにか保ちたかった。
「こんな没落したも同然の家に、わざわざ京から継ぎに来る物好きなどいるものか!もっと現実を考えろ。
この上は…」
今泉四郎兵衛は決断した。例え養子を迎えても、このままでは奥平、菅沼に滅ぼされてしまうだけだ。
ならば一方の敵である菅沼から養子を迎え、その勢力下に生き残りを計るべきだ。
四郎兵衛は菅沼氏の本拠地、田峯に出向き、今は菅沼氏に仕える富永の旧家臣。城所道寿信景や城所助之丞直政
を通して交渉、田峯菅沼家当主菅沼定忠の三男竹千代、この時14歳を迎えることで合意した。
田峯の菅沼としてみれば、菅沼の跡継ぎには長男定広が確固として決まっており、本来なら厄介者ですらある
三男竹千代に自らの懐を痛める事なく領地を与えられるのは、渡りに舟であっただろう。
定忠は竹千代に菅沼権之丞、城所助之丞、塩瀬甚兵衛を付け、早速富永館へと出発させた。
ところが事はそう簡単に進まない。
永正二年十一月、野田郷に向かった竹千代一行は、菅沼領との境界で足止めを食らった。
富永の家中が竹千代を向かい入れることに猛反発している、と言うのだ。
「我々は菅沼家に領地を侵食されたため衰退したのだ!そこから養子を迎え入れるなどあってなるものか!」
今泉四郎兵衛が必死に説得している間、竹千代一行は境界の村で様子をみることになった。
説得工作は長引き、竹千代たちはその村で展望も見えぬまま、越年するにまで至る。
しかし、それでも諦めて田峯に帰ることも無く、滞在する邸宅の中に井戸まで掘って説得の成功を待った。
若き竹千代も、もはや実家に帰ることは出来ないと覚悟を決めていたのだろう。
この姿勢が幸いしたのか、足止めから丁度四ヶ月後の永正三年 (1506)二月十一日、ついに竹千代は
富永館に入城を果たした。
この時富永館は、「野田城」と名を改めた。
竹千代は後、菅沼定則と名乗る。そう、二代後に菅沼定盈を輩出し、徳川家譜代大名として菅沼氏族の中で
最も栄えることとなる野田菅沼氏が、ここに始まったのだ。
130:人間七七四年
10/03/29 16:29:10 5vcOYG0Z
素朴な疑問だけど、菅沼定則に改名しても富永家の家格は引き継げるものなの?
131:人間七七四年
10/03/29 16:56:21 eXiePoaF
>>130
正確に言うと富永の名跡は引き継がずに、その領地と家中をまるごと引き継いだ。
社員と機構をまるごと引き継いだ上で社名と社長だけ変わった感じ。
132:人間七七四年
10/03/29 20:26:11 7mriKN6E
風は山河よりでも読んだんか?
133:人間七七四年
10/03/29 22:09:30 NPB8d1CG
あの作者は、欠点がないような感じで主人公を描くからなぁ・・・
134:人間七七四年
10/03/29 22:30:40 dJ7UY9n8
あの作家の作品は、一癖二癖のある主人公を見たことがないな
135:人間七七四年
10/03/29 23:11:26 M1O52gTe
あの作者と出版社は三河者がなんたるかを見たことがないからなぁ。
136:人間七七四年
10/03/30 00:05:16 qFv1ikQo
まったくだ
このスレ読んで勉強しろよ
137:人間七七四年
10/03/30 00:31:58 5Uyv65Ik
昔読んだルーツを探るみたいな本に松平氏の故郷、奥三河の人間は今でも純朴で素直と書いてあったが・・・
138:人間七七四年
10/03/30 00:32:10 O27qgtf/
>>136
でもあの作家さんは三河者なんだぜ?
139:人間七七四年
10/03/30 02:01:08 ZNDTD2wI
三河侍ではないんだろ・・・
140:人間七七四年
10/03/30 02:28:41 TGkX6xZC
はいはい、三河武士三河武士
関ヶ原の戦いの後、徳川家康は大久保治右衛門忠佐の功に対し、沼津二万石を与えた。
これについて渡辺半蔵守綱は、
「治右衛門は武功により二万石というが、オレに会ってはクソ垂れて逃げたものよ!」と罵った。
守綱の放言を聞きつけた家康は、忠佐を呼んで言った。
「あやつが言っておるのは、三河一向一揆の時、あやつが兄弟等七人で待ち伏せしたのを、
お前が背を向けた事だろう。
しかし、お前は多勢を率いており、半蔵に対して『お主のような者の相手をして、犬死にはせぬ』
と言って退いたという事を、わしは存じておるぞ。
お前のような大志ある者が、あのような無茶を言う者に構わずとも良い。」
…また例の単語が出てきて申し訳ないが、槍半蔵が権現様のNGワードに触れたから忠佐の肩をもった
ワケではないと思う。
141:人間七七四年
10/03/30 07:43:52 9R7LaNYO
辺鄙な地方の人間なんて今や頑固で性格悪い人ばかりのイメージがあるな
若者がどんどん都会へ出て行って過疎化するから、残された老人達が特権階級化して排他的な性格になる
142:人間七七四年
10/03/30 09:51:42 p6qxYGeR
三河者といっても、菅沼とか奥平とかは家康と愉快な三河武士たちからすれば外様じゃないか。
143:人間七七四年
10/03/30 11:49:40 GmcvU3hI
>>137
それで思い出したがオレの知り合いの彼女が奥三河の松平郷の人で
その知り合いの完全に縁の切れた昔の彼女の写真(高校の集合写真)を見て
なぜか知り合いの家の押入れに入って泣いていたそうだ
純朴っていえば純朴だがなんともめんどくさい号泣ポイントだと思う
144:人間七七四年
10/03/30 12:08:21 ShbrUAoA
>>101
なんか本多氏の一族は猛将かつ知将が多いな
戦国の世を生き残り、現代まで血が続いてる理由がわかるわ
145:人間七七四年
10/03/30 13:04:37 W5shuhRW
>>143
なんというか…世が世でその彼女が男なら、立派に三河武士はれてたと思わせる行動だな…
146:人間七七四年
10/03/30 13:34:56 FgcI8CcO
三河節…
147:人間七七四年
10/03/30 13:43:40 tcujx1+H
それでも一般人の見解は
三河武士=犬のように忠実
148:人間七七四年
10/03/30 13:48:44 FJTmIQa9
ラスボス秀吉の関東仕置きの際。
圧倒的な兵力で武州忍城を囲んだ石田三成。
しかし、大勢で同時に攻撃出来ぬよう考え抜かれた忍城の縄張りに、大軍の利を活かせず、逆に夜襲で損
害を受けたり、三成自身が槍で追い掛け回されたりと、水攻めを始める前だというのに早くもフルボッコ
風味。
何とか挽回を狙う三成は大筒を牽かせ、城内に向けて撃たせた。
弾は木立に着弾、火の手があがる。
「よっしゃOK! 皆の者、城に火の手が上がったぞ! 今が好機だ攻め寄せろ!」
一方城内。
「ありゃ、下忍の薬師堂の方角か?」
「はっ。薬師堂から金剛院に延焼との事です」
成田配下の老将、本庄越前守(越後の人とは別人)ニヤリと笑う。
「大規模な攻撃があるぞ。伏兵でも備えておくか」
何故、寺が燃えたら攻撃があるのか。仏の守りが薄くなるから?
「阿呆。ワシらは火の手の方角だけでどこが燃えたか判る。だが上方軍がどうやってそれを判ろうという
のだ。今頃敵陣では、城に火の手が上がったから攻め時だ、などと言っているに違いない」
さすが爺さん。バッチリの読みです。
が、この事実に上方軍でも気付いた者がいた。
「……殿? 燃えてるのって、びっみょ~に城の方角とずれてません?」
三成の部下、川瀬左衛門であった。
実は上方軍、忍城の前には岩槻城や館林城を落としており、その降兵も参加していた。忍城の情報は持っ
ていたのである。
「ん? まぁ、そりゃ本丸にドンピシャってワケにゃ行かんだろ。でも櫓の一つでも落ちてりゃ、それなり
に慌ててるって。チャンスチャンス!」
聞く耳を持たない三成、全軍に攻撃命令を下した。
全軍の采配を振るう三成に代わって攻撃部隊を率いる川瀬、ワザとゆっくり進み、城内の様子を探ってい
た。
上方軍でこの攻撃命令に慌てた人物がもう一人いた。
長束正家である。
長束隊の陣取った場所からは、ハッキリと見えたのだ。大筒の着弾点が。
燃えてるのは城じゃない。城外の寺だ。
大急ぎで三成の許へと伝令を走らせる。
しかしこの伝令、一歩遅かった。
本庄越前指揮する迎撃部隊によって上方軍は大損害を出して後退するハメになる。
無事だったのは長束隊を初めとする着弾点をハッキリ見ることの出来た部隊と、川瀬の機転で攻撃を控え
ていた石田隊のみであった。
主君の失敗をフォローして手勢には損害無しとした川瀬左衛門のいい話? いや、他の部隊には多大な被
害が出てるって話だしなぁ。(^^;
老巧の本庄越前の機を見るに敏ないい話でもあるし、こちらに投下しとくか。
149:人間七七四年
10/03/30 19:16:52 QjogELsM
成田さんと罵り合うのがお似合いな軽率さ
150:人間七七四年
10/03/31 00:18:38 Fb3NexVR
吉良義安の禍福
足利将軍家に連なる名門、三河、西条吉良家に、吉良義安と言う少年がいた。
彼は次男であったため、未だ十歳にも満たないうちに、子の無かった東上吉良家、吉良義持の養子となった。
ところが実家の西条吉良家当主で兄の義郷が急死し、義安は西条吉良家に戻りその家督を継ぐことになった。
更に間もなく、義父である東条の吉持も死去したため、義安は西条家を弟の義昭にまかせ、自らは東条家を相続、
三河吉良氏は幼い義安の元、争いも無く実質的に統一された。ここまでは幸運、である。
が、運命というものは突然に変転する
天文18年(1549)、駿河の今川義元は太原雪斎に命じて、織田信長の庶兄である織田信広が守備する
安祥城を攻撃。雪斎はたちまちこれを陥落させ、さらに城主織田信広を生け捕りにすると言う大戦果を得た。
この時義安は織田に味方していたため、今川軍に捕縛された。
しかも西条の弟義昭は今川に通じており、彼は今川の後ろ盾で東条も併合。三河吉良氏の家督は義昭に奪われる。
この時義安はわずかに一三歳。当然政治の実権などあったはずも無く、家臣団の方針に疑うことすら無く
従っただけであっただろう。
わけの分からぬうちにすべてを失った義安は、人質として駿府に送られることとなった。
さて、義安が駿府に送られるとき、同じく人質として駿府に護送される一人の少年と同道した。
聞けばこの少年、それまで織田家に捕われていたが、雪斎が生け捕った織田信広と交換されたのだという。
義安はこの七歳年下の少年とたちまち友達になった。同じような身の上で、共感するものがあったのだろうか。
この少年の名は松平竹千代。後の徳川家康である。
義安は竹千代と共に人質生活を過ごし、弘治元年(1555)の竹千代元服の際には、その理髪役も務めた。
そして、人質生活が始まって十年ほどの時が経つ。
永禄3年(1560)6月、桶狭間である。
今川義元の死により、松平元康(家康)は三河に帰還する。吉良義安はその元康に従っていた。
七最年長の義安が進んで従うほどの器量を、人質の十年の間に元康は身につけていたのだろう。
三河統一に走り出した元康は、永禄4年(1561)には西条城をたちまち攻略、さらに吉良義昭の籠る
東条城に酒井正親、本多広孝らの軍勢を派遣すると、義昭はたまらず降伏。
しかし翌永禄5年(1562)、三河一向一揆に乗じて再び敵対するもこれに敗れ、ついに三河から追放、
元康は東条西条の吉良氏を再び、吉良義安の元に統一することを許した。
これ以後、三河吉良氏は家康の元に戦国を生き抜き、関ヶ原合戦の後、吉良三千石を安堵されて高家に列せられる。
のちにこの家から赤穂浪士事件で有名な吉良義央が出るが、それはまた別の話であろう。
全てを失った吉良義安が、その全てを取り戻すに至る、幼い日の偶然の出会いについてのお話である。
151:人間七七四年
10/03/31 05:31:27 dUW5hsRM
いい話だけどそこまで古株で三千石とはしょっぺえな
152:人間七七四年
10/03/31 08:48:58 iJcozww4
調べてみたら
吉良義安って家康の義理の叔父か大叔父にあたるんだね。
153:人間七七四年
10/03/31 09:00:18 HOjplZhp
清康の娘が義康の妻だね
お隣どうしだし何かと縁があるんだね
154:人間七七四年
10/03/31 09:01:04 aP+MA/iT
養父(持広)が義理の大叔父で義安は義理の叔父ってことになってるらしい
つか1569年に死んだから当時の徳川家としては3000石でも多いほうじゃね?
155:人間七七四年
10/03/31 09:06:38 HOjplZhp
義安だったね
ごめん
156:人間七七四年
10/03/31 09:53:13 l7pNwbgN
徳川家って司馬が言うほど名家を優遇したりせず、あくまで御義理程度
親族も同様なので、むしろ当然というべきかもしれない
余談だけど江戸幕府で閨閥が幅を利かせなかったのは興味深い
157:人間七七四年
10/03/31 12:02:10 aP+MA/iT
家康→生母水野家(広忠と離婚)
秀忠→生母西郷家(影響力皆無)
家光→生母浅井家(滅亡)
家綱→生母青木家(下級武士)
綱吉→生母本庄家(公式には関白の家司)
家宣→生母田中家(北条家臣)
家継→生母勝田家(元加賀藩士で住職)
吉宗→生母巨勢家(召使)
家重→生母大久保家(紀州藩出身の旗本)
家治→生母梅渓家(貴族?羽林家)
家斉→生母岩本家(幕臣)
家慶→生母押田家(小姓)
家定→生母跡部家(幕臣)
家茂→生母松平家(紀州藩高家)
慶喜→生母皇室(有栖川宮織仁親王娘)
母親の実家に実権ないのが将軍についてる件
158:人間七七四年
10/03/31 12:34:03 9VxrcqlV
流れ上こっちに書くけど、家康の(意地が)悪い話
北条氏を滅ぼして関東の大大名となった徳川家康は、桐生にいた北条旧臣のある男を呼び出した。
その男は新田氏嫡流の岩松守純で、新田氏といえば偶然にも(!)家康の同じ血流である。
岩松家は家臣の由良氏に家を横領されすっかり落魄していたが、名家の子孫を優遇する家康
に仕官することで御家再興ができるとwktkしていた。しかも、守純は家康と同じ新田氏であり、
家康にとってこれ以上の血統はあるまい。
しかし、仕官の見返りに家康は新田氏の系図を要求し、守純は頑なにそれを拒否した。
家康は守純を旗本としては家格の高い交代寄合に取り立ててやったが、石高はなんと20石。
さらに、岩松家が新田の名字を名乗ることを禁止した。
要するに、「新田系図を譲渡しなかったこと」に対する家康の仕返しであった。
岩松家が新田氏に復し、華族に列するのは明治4年のことになる。
159:人間七七四年
10/03/31 12:40:23 VIlbkKe1
流れとか関係なしに、悪い話は悪い話スレでいいじゃない。
160:人間七七四年
10/03/31 12:42:40 9VxrcqlV
>>159
スマン。あっちに書いといたから、>>158はスルーで。
161:人間七七四年
10/03/31 13:04:12 VIlbkKe1
>>160
いや別に謝らなくてもいいけど、「今度からそうしようね?」ってことで。
162:人間七七四年
10/03/31 16:59:09 aLVKdN5k
>157 の
> 押田家(小姓)
を見て、家斉とうとう小姓を孕ませたか・・・と一瞬戦慄を
163:人間七七四年
10/03/31 19:30:52 hZTG4qEi
愛知県岡崎市の国道1号線・暮戸交差点の地下道で見かけた昔話。
桶狭間で義元討ち死にの知らせを受けた家康たちは、夜陰に乗じて地元岡崎へ帰ることに。
なんとか矢作川の西岸にある長瀬八幡宮の辺りまでたどり着いたものの、昨夜からの雨で川が増水し、とてもじゃないが渡れそうにない。
背後からは織田軍がひたひたとせまる絶体絶命のピンチの中、家康は近くにあった大きな松の木の根元で一心に祈り始めた。
しばらくすると、八幡宮の森の奥から3頭の白鹿がやってきて、家康たちのそばへ・・・
家康「 (´・ω・`) ? 」
白鹿「 ( ̄ー ̄) ・・・乗れよ。」
そう、この白鹿は家康たちを向こう岸へ渡すために現れたのだ。
背中に家康をのせた白鹿は、濁流をものともせずスイスイと川を泳ぎ切った。
こうして無事に川を渡った家康たちは、近くの大樹寺へ逃げ込み、無事命拾いをしたのであった。めでたしめでたし。
長年暮らした岡崎を離れる記念に、初めて書き込みしてみました。スレ汚し失礼m(_ _)m
164:人間七七四年
10/03/31 19:51:26 qBcgXu5C
そんな話あの地下道に書いてあったけ?
矢作の由来になったヤマトタケルの話なら見たことあるんだがなー
明日にでも見に行ってみるわ
と同じ地元民が言ってみるテスト
165:人間七七四年
10/03/31 19:56:28 LRaXaHPd
そんな奇跡的な助かり方をしたのに、何故か大樹寺で切腹しようとした家康公・・・
166:人間七七四年
10/03/31 20:03:49 FJJt5dVf
白鹿に酔ったんだよ、きっと
167:人間七七四年
10/03/31 20:07:40 hZTG4qEi
>>164
あー、たぶんその反対側の地下道。側壁に地味な白い看板が掲げられてた。
168:人間七七四年
10/03/31 20:09:37 qBcgXu5C
おk
眼鏡屋があるほうね
169:人間七七四年
10/03/31 20:16:29 PxLWALmH
>>154
三千石をもらったのって、孫が関ヶ原後にみたいだけど
170:人間七七四年
10/03/31 21:12:28 FJJt5dVf
>>158のような話を元にした小説が昔サライに連載されてたような・・・
詳細が思い出せんがwwww
171:人間七七四年
10/03/31 22:32:47 Fb3NexVR
>>169
それは三河吉良氏は家康の関東移封の時一緒についていって、関ヶ原の後再び
東条西条の領有を認められた、ってこと。
172:人間七七四年
10/04/01 01:03:53 8iNV9UUB
一般論では戦場に鹿が現れるのは不吉だって言うけど、三河は逆なのかしらね
本多鍋ちゃんも鹿に助けられてるし
173:人間七七四年
10/04/01 07:35:37 0gwEpzcR
ヒャッハー!新年度だアッー!寝坊する子はいねがぁぁぁ!!
阿波藩主、蜂須賀至鎮は三十台半ばの若さで世を去り、子の忠英は祖父の蓬庵(家政)が
後見することになった。早くに父を亡くした忠英は甘やかされて育ち素行が悪く、家臣の手を焼かせ
たびたび蓬庵からたしなめられた。( URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com) )
その日も忠英は寝坊した。
「若様、若様、もう朝ですよ?起きて下さい。」「うーん、もう少しだけ…」
「何を仰せになりますか。早朝からお出かけだった蓬庵様など、とっくに戻られて、もう朝餉を
召し上がっておいでですよ?」「なに、お爺様が!」
さすがにマズイと気づいた忠英、あわてて飛び起き、蓬庵のいる徳島城西の丸へ駆けつけたが、
すでに朝餉に箸をつけた蓬庵の忠英を見る目は、冷たい。
「……………(怒)」
「え、えーとお爺様、こ、これは……」
「…今朝、竜王山の麓にな、こんな紙切れが落ちておった。書いてあることを読んでみよ。」
『 ものの名も 処によりて 変りけり そちの朝飯 こちの夕飯 』
「誰が詠んだ狂歌か知らんが、言い得て妙じゃの。いったい、何のことを言っとるのかのぉ?!」
「……………」
その後、蓬庵は忠英と歌について二言三言交わし、忠英の食べ終わるのを待たず退出した。
それからというもの、忠英は寝坊しないようになり、徐々に行状も改まったという。
174:人間七七四年
10/04/01 23:03:22 l23SNEkL
織田勢力圏において美濃苗木城は常に対武田の最前線であり、遠山友勝以来、信長の命によりこの城を任されてきた
苗木遠山氏にとって気の休まる時はなかった。
特に武田の武将、秋山信友が、美濃遠山氏の宗家にあたる岩村遠山氏の居城岩村城に攻め寄せ、信長の派遣した
織田信広、河尻秀隆が率いる援軍も撃退、天正元年(1573)、ついにこれを降伏させると、苗木城は武田の圧力を
正面から受けることとなった。
このような中、苗木城主の遠山友忠、友政親子は信長の信任に答え必死に耐えぬいた。
天正二年の武田勝頼による東美濃侵攻に対しては、友忠の次男で阿寺城を守る遠山友重が討死するなど
多大な犠牲を払いながらも、この撃退に成功した。
天正三年、長篠の戦い、そして同年の岩村城の奪還で武田の圧力は大きく減退する。
そして天正十年、武田家滅亡。苗木城にはようやくの平穏が訪れたかに見えた。だが
同年、本能寺の変
翌天正十一年(1584)五月、苗木城は再び敵の軍勢を迎えた。当然ながら今度の敵は、武田ではない
(^^)「こんにちは。鬼武蔵です。」
織田家の同僚、森長可の軍勢であった。
羽柴秀吉の黙認をとりつけた長可は、東美濃の織田家の同僚たちに襲いかかり、その牙は苗木城にも
向けられたのだ。
武田の攻撃を耐えぬいた苗木城であったが、秀吉の後援を受けた長可に対し、援軍の目処も無く
とても防衛出来るものではない。
城を枕に討死か、一旦落ち延びて再起を図るか、遠山友忠、友政親子は悩んだ末、後者を選択した。
苗木城を落ちた遠山親子と家臣たちは、美濃の山々を越え遠江の浜松城へと向かい、徳川家康を頼った。
家康は彼らを受け入れた。
この亡命と言うべき生活の中、遠山友忠は浜松で客死する。苗木に帰れなかった父の無念、息子友政は帰還の意を
更に強くした。が、その手立てもつかめぬまま時は過ぎる。遠山友政は家康に従い関東に移り、美濃どころか
榊原康政配下として遠く離れた上州の館林にその身を置いていた。が、
慶長五年(1600)、関ヶ原
時や至り!遠山友政は出陣に先立ち、徳川家康に美濃路、木曽路の地理を詳細に報告、さらに西軍に参加している
川尻直次が城主となっていた苗木城の奪還を申し出た。家康はこれを高く評価し、黄金と鉄砲30挺、弾薬2万発を
友政に与え、中山道を通る徳川秀忠隊の先鋒を命じた。
途中上田城で足止めを強いられた秀忠隊であったが、家康からの連絡により関ヶ原に急ぐ。
苗木以来の家臣団を率いた遠山友政の部隊はその先駆けとしてついに、父祖の地、苗木城に迫った!ところが、
城の東から攻め寄せる遠山軍に対し、苗木城主、川尻直次の城代関治兵衛は戦わずして降伏した。
「関ヶ原での決戦の結果西軍は壊滅し、わが主君川尻直次は討死したとの連絡がありました。
この城はお引渡しいたす。」
呆気ないと言えばそれまでである。が、この城を落ちて16年、ついに苗木城を取り戻したのだ。
遠山友政、そして遠山家中の者たちの感激は、いかばかりであっただろうか。
友政はさらに岩村城も攻略し東美濃の平定に大いに活躍。家康はこの功に対し、苗木城を含む
恵那、加茂両郡、一万五百二十一石を与えた。
苗木は再び、苗木遠山家のものとなった。
この後苗木遠山家は美濃苗木藩として、国替えも改易も受けることなく、明治まで続く。
今、苗木城の本丸跡に置かれた石碑には、このような一文が刻まれている。
『戈(ほこ)に枕し膽(きも)を嘗め 百敗屈せず 時や至り よく舊(旧)物を復す』
父祖が血潮で守りぬいた地を取り戻した、苗木遠山家のお話である。
175:人間七七四年
10/04/01 23:16:25 +V3o7bnd
>鉄砲30挺、弾薬2万発
家康もケチだよな
弾だけあっても機関銃じゃないんだから
176:人間七七四年
10/04/01 23:23:59 m2G82q2l
ちょうど悪い話スレで小笠原さんの話を読んでいたので、
途中読んでてはらはらした……。
良かったね遠山さん。
177:人間七七四年
10/04/01 23:25:01 l23SNEkL
>>175
このころの遠山友政って榊原康政の組下だからせいぜい千~数百石クラスなんで、
軍役で言えば率いるのは多くて20人から、無理して30人くらい。それに鉄砲30挺はむしろ多すぎだぞ。
178:人間七七四年
10/04/01 23:46:25 oEE6UxDR
>>174
遠山さん家は撤退あたりの混乱に乗じて鬼武蔵殺そうとした主犯だから報復は避けられんかっただろうw
179:人間七七四年
10/04/02 00:08:18 we2iwgU3
>>178
鬼武蔵謀殺計画って、東美濃のほぼ全ての国人が参加してたらしいねw
長可はご近所から、もうこれ以上無いくらい嫌われていたらしい。
180:人間七七四年
10/04/02 00:09:55 qUyDSIGc
>>179
鬼武蔵の行動は一応自衛行為なんだよねw
周り全部敵なんだから。
181:人間七七四年
10/04/02 00:11:09 jdghEh/4
鬼武蔵は好きとか嫌いとかそういう次元じゃない
退治すべき妖怪とか鬼とかそういうレベルの話だったんだろう
182:人間七七四年
10/04/02 00:15:21 we2iwgU3
>>180
まあ「敵」の方も、自分達こそ自衛だと疑いも無く信じていただろうけどねw
183:人間七七四年
10/04/02 02:18:53 jgJS0SFy
>>177
その場合、鉄砲30丁ってのは鉄砲足軽30人ってことじゃないのかな。
火力に欠ける小規模部隊に軍役とほぼ同数の鉄砲隊をつける事例は他でもあるし。
184:人間七七四年
10/04/02 09:18:07 Y/jHQw1O
>>182
「あれ」は人の形をした災害ですから……ヒューマノイド・タイフーンってゆう
185:人間七七四年
10/04/02 09:30:15 MmGwBl9/
鬼武蔵が出たってだけで、どうなることかとハラハラしたw
でも明治までしっかり残ったってのはすごいことだな。
石碑の一文はちょっと感動した。
186:人間七七四年
10/04/02 12:29:30 rzqNrPue
>>184
地震、雷、鬼武蔵
187:人間七七四年
10/04/02 14:45:24 y2Ev1eax
森長可の死亡は
鉄砲隊の狙撃で眉間を撃ち抜かれ死亡
安藤直次に討ち取られ死亡
どっちなの
188:人間七七四年
10/04/02 14:49:49 3F2IKj0/
安藤直次に討たれたのは池田恒興
189:人間七七四年
10/04/02 14:51:02 ipGHtxWr
眉間を打ち抜かれた後も猛威を振るっていた鬼武蔵を安藤が討ち取ったでいいじゃないw
190:人間七七四年
10/04/02 14:52:58 3F2IKj0/
じゃなかった、元助
191:人間七七四年
10/04/02 15:02:26 y2Ev1eax
>>188
ありがとうございます
192:人間七七四年
10/04/03 01:13:51 ZHg8ltVv
永井直勝 「池田勝入を討ち取りしは安藤直次殿にござる」
193:人間七七四年
10/04/03 16:02:57 JbqY1XkF
>>192
「なんのなんの、若侍があっぱれな働きでございましたぞ」
194:人間七七四年
10/04/04 12:25:44 tvgRt9rv
武田の武将、秋山信友によって攻略され滅びた、美濃遠山氏宗家岩村遠山氏、
武田の攻撃を耐え切ったものの、本能寺後森長可に攻められ落去、関ヶ原で古地を取り戻した苗木遠山氏
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
それらと共に「三遠山」と称された、美濃明智城、明智遠山家についてのことである。
元亀3年(1572)12月、東美濃に攻め寄せてきた武田の武将秋山信友との戦い「上山合戦」は、織田方の大敗北となった。
明智城主遠山景行はこの敗北により自刃、さらに長子、景玄も討死し、明智遠山家に残されたのは、
未だ幼い遠山一行のみとなった。
叔父の遠山利景はこの一行を補佐しどうにか家を運営するが、一族の中には美濃を捨て地方に移住するものがでるなど
家勢の衰退は隠せず、天正2年(1574)の武田勝頼による侵攻で、ついに明知城は落城してしまった。
が、翌3年の長篠の戦いで状況は一変。明智城も取り戻された。そして天正十年。武田滅亡、本能寺の変、
そして
(^^)「こんにちは。鬼武蔵です。」
森長可の軍勢に、一行と利景は城を捨てて逃げた。利景の妻の実家、三河足助城の鈴木氏の元に身を寄せ
徳川家康の保護を求めた。家康は彼らを受け入れ、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは井伊直政の後援の下
なんと森家の手から明智城を取り戻してしまった。更に調子に乗って岩村城も攻めたのだが、
(^^)「いらっしゃいませ。鬼兵庫です。」
ここでは城代の鬼兵庫ことかがみんこと、各務元正に一族の遠山半左衛門を討ち取られるなどフルボッコに
返り討ちにされたのはご愛嬌。
そして明智城を取り戻したのもつかの間、秀吉と織田信雄の間に和議が整うと、再び森家に返還されることになってしまった。
その後遠山一行、利景は家康に従い、家康配下の信州の大名、依田康国の下に付き信州の経営に参加していた。
が、
天正16年(1586)冬、遠山一行、凍死。
凍死である。なんと信州から駿府へ向かう途中に、甲駿国境の平沢峠で寒波に合い
凍え死んでしまったのだ。この時代の武将としても、かなり珍しい死に様である。
「なんということか」
遠山利景は途方に暮れたが、一行に子はなく、明智遠山家の家督は利景が継いだ。
そして関ヶ原が起こると苗木遠山家の遠山友政らとともに秀忠隊につき、西軍の田丸直昌の軍勢が守る
明智城を見事に攻略。戦後、この功により明智の地は利景に与えられた。
この後明智遠山家は明智を領する大旗本として江戸期を過ごし、やがて「遠山の金さん」として有名な、
江戸町奉行、遠山景元を輩出する。
「三遠山」の一つ、明智遠山家のお話。
195:人間七七四年
10/04/04 16:28:02 Y58c3c9I
浅井朝倉の大軍すら退けるかがみん防衛中の城に調子に乗って攻め懸けるとか。
主なくしたときこそ真骨頂だろw
196:人間七七四年
10/04/04 19:22:42 3ETL6KiH
秋山晴近に大敗北したのは上村合戦じゃないっすか。
197:人間七七四年
10/04/04 20:17:57 3ETL6KiH
田丸具安っちゃあ、阿木の爺さんらが作った歴史教室の資料より。
--------
慶長五年秋九月、関ヶ原で石田方が敗北した後もなお岩村城を明け渡さなかった田丸直昌。
家康は苗木城遠山久兵衛友政に明智遠山民部、小里彦五郎を付け岩村城攻めを命じた。
十月九日、友政は五百の兵を率いて阿木と飯羽間の境の根に陣を敷いた。明智、小里も
それぞれ三百の兵を率いて岩村城の南に陣を構えた。
田丸は三百の手勢で籠城していたが、敵が攻め寄せたと聞いて櫓に上がり城の南北を
見渡してみると大勢の敵兵が旗をたなびかせているのが見えた。急ぎ櫓から降りた
田丸は一族と兵士等に向かい「とても防ぎきれる戦いではない。城を無事に明け渡し
私は髪を切って出家する。」と言い放つと城中の者は静まりかえってしまった。
こうした時に友政の使者の陶山次郎兵衛がやって来た。田丸は「明け渡しは承知した。
大儀ではあるが大手の城戸までお越し頂きたい」と言い渡した。
使者が帰った後、田丸は頭髪を全て切って投げ捨て、織物の袴に一尺八寸の太刀を差し、
家臣の石部外記を連れて大手門に向かった。迎える友政も褐布織物の袴に太刀を差し
家臣の纐纈藤兵衛を連れて出向いた。「これから私は出家しようと思います。何卒
私ともども城内の者らの助命を御願いしたい。また白昼に城から出て行くのは城主として
面目のないこと。暗くなってからの降城をお許し願いたい。」と。友政は快く了承した。
日が落ち、数十日の籠城から解放され我先にと東へ西へ逃げる一族兵士等。これを見た
田丸は大手門の扉に一句貼り城を出た。
岩村にたまる物とてゆきばかり 消えもやせんと思う我が身も
友政の使いで藤左衛門が出迎え、軽少ではありますが路銀にと田丸に金五十両を渡した。
田丸は涙を流し、薙刀を取り出して「これは田丸家代々の家宝です。友政公にお渡し
ください。」と言った。田丸は友政の付けた足軽二人の共で西美濃まで逃れた。
田丸の降城で乱世から解放された岩村城。友政、明智、小里の三将が城内に入って
みると、大広間にはそれは見事な武具や珍しい器、馬具などが山のように詰んで
あったという事である。
198:人間七七四年
10/04/05 20:00:03 Odk9P7+b
宗茂の遺風
寛永十九年(1642)十一月二十五日、立花宗茂はその波乱の生涯を閉じた。
そして5年後の正保四年(1647)の事、肥前長崎沖に、三隻のポルトガル船が姿をあらわすという事件があった。
これに幕府は御奉書をもって四国、西国の諸侯に沿岸の防衛体制を取ることを命令。
西日本諸侯は海域の警備を強化した。
その中でも、立花忠茂の軍勢は特に目立っていた。
彼は急な命令にも関わらず、すぐに3870余人の軍勢を出し、そのうち800人は水主であった。
船は33隻、そのうち戦闘船である関船は9隻。
立花勢はその人数が1万にも2万にも見えるほどの圧巻であったと言う。
これを見た人々
「流石立花家は違う。日頃より武備を嗜んだ宗茂公の遺された家風がよく残っている。」
と、甚だ感心したそうだ。
これにより諸侯の中で立花忠茂の評判は、一際勝ったそうである。
緊急事態に現れた、立花宗茂の遺風、のお話。
199:人間七七四年
10/04/05 20:32:55 Sdi+Jtd/
さすが立花家の格は違った
200:人間七七四年
10/04/05 20:43:41 3T9vmo/4
さすがだな宗茂さんは・・・
家臣たちの心をがっしりとつかんでいた
201:人間七七四年
10/04/05 22:11:51 5bLbDdct
死後まで完璧とか…
ってか素直に忠茂の手柄にしてやれよw
202:人間七七四年
10/04/05 22:24:32 3T9vmo/4
そうだね
養父の教えをよく守ったよ
目の上のたんこぶがなくなると羽のばす奴が多いからね
203:人間七七四年
10/04/05 22:53:39 Rm6Vot71
家久(悪)「まったくだ」
204:人間七七四年
10/04/05 23:26:11 5BWbgXzl
政宗「そういう奴ってほんとうに駄目だよな」
205:人間七七四年
10/04/05 23:28:49 whmhYZ3f
ギン千代「ほんとほんと」
206:人間七七四年
10/04/05 23:44:27 ENyqNX9f
義理の祖父・道雪(苦労人)
実の祖父・紹運(苦労人)
義理の父・宗茂(苦労人)
実の父・直次(苦労人)
本人・忠茂(当然の如く苦労人)
207:人間七七四年
10/04/06 00:06:49 ODBBzkZd
>>206
なんという濃密さw
208:人間七七四年
10/04/06 00:16:59 mbphGfIq
道雪紹運宗茂くらいしか知らないが、
こいつら苦労してるんだろうがそれを苦労と思ってなさそう。
209:人間七七四年
10/04/06 00:41:57 mZnGdP4T
>>208
苦労するのを覚悟してその道を選んでるんだろ
義理の祖父・道雪 苦労を覚悟にバカ殿に諫言
実の祖父・紹運 死を覚悟に岩屋城篭城
義理の父・宗茂 鬼嫁を覚悟に婿入り
実の父・直次 鬼女を兄に押し付ける変わりに家督相続
本人・忠茂 DQNの血筋としっての嫁取り
210:人間七七四年
10/04/06 01:00:36 wu5Q4Air
>>209
宗茂、覚悟も何も親父が行けといわれればいくしかなかったんだぜ?
211:人間七七四年
10/04/06 01:14:27 9EShjBdR
宗茂さんは決死の覚悟で城を守るより、浪人生活の方が苦労を感じてそうだ
212:人間七七四年
10/04/06 01:27:09 wu5Q4Air
最初は何とかなるだろうと思ってたけど
段々弱気になっていってしまいには諦めがはいってたりしたようだけど
なんとか踏みとどまって弓術の免許皆伝になったり蹴鞠の免許とったりと
今で言う自分磨きに精を出していたようだ >宗茂
213:人間七七四年
10/04/06 01:37:56 OuBL7Qiy
忠茂実父の高橋直次は
嫁の父親が北九州で蠢動しまくる築紫広門
岩屋城の闘いで島津に約束を反故にされ幽閉される
自分が幽閉されてようと宗茂兄さんは徹底抗戦
と充分難儀な人生送ってるっての
214:人間七七四年
10/04/06 09:43:20 aKP7ILVb
生き方難儀じゃなきゃあの血筋じゃないだろ
215:人間七七四年
10/04/06 10:38:05 mZnGdP4T
難儀な生き方していても宗茂にあわせて徳川に仕えて後に三池藩になってるし
なによりも兄貴の変わりにたくさん子供を作って三池藩のみならず柳川藩の存続に力を貸してる
まあ、キッチリ紹運の血筋を残してやるべき仕事はちゃんとこなしているあたり、さすが吉弘の血筋
ただ、まとめサイトのカテゴリにまだ単独で名前がないのが不憫…
216:人間七七四年
10/04/06 13:28:19 oyn41orI
快川紹喜と言えば甲斐国塩山の恵林寺の住職として名高い戦国時代の名僧であるが、実は出身は美濃国であると言われている(尾張との説もあり)
美濃崇福寺の住職を務めていた紹喜だが、この崇福寺の住職は代々「護阜」との肩書きを名乗っていた。
「仏法にて岐阜を護る!」との公言が許されるホドの名門寺院であったという証であり、信長支配前から岐阜という地名が使われていたコトを示す名乗りでもあった。
美濃国主斉藤義龍は元々日蓮宗に帰依していたのだが、やがて一色氏として源氏を名乗るようになると、他の多くの源氏大名と同じ禅宗に鞍替えをした。
が、そのやり方がまずかった。
膝元の快川らを無視し、京都から別伝宗亀という禅僧を招いて伝灯寺を建立、自らの菩提寺としたのである。
その上で「伝灯寺を美濃の禅宗の本山とし、各寺院や僧の管理は伝灯寺に一任する。また、京都の総本山へ行く際の手続き等も伝灯寺が行う」とした。
義龍は別伝にねだり、僧としての修行などしていないのに、高位の僧しか身に付けるコトの出来ない僧衣を貰ったりと、やりたい放題であった。
激怒した快川ら美濃の禅僧は、一寺に集まり相談。
皆揃って尾張犬山の瑞泉寺に退去するという過激な行動に出る。
慌てたのは義龍を初めとする美濃の国人衆。
僧がいなけりゃ法事が出来ない。葬式すら出来ない。この時代、な~んも出来ないのである。
先に出した触れを
「いや、アレね、部下が作った案なんだよ。一つの案に過ぎないの。それにオレが許可出す前に発表しちゃったモンだからさ。オレが眼を通してたら、そんなん許可するワケないじゃん!」
と、義龍が撤回するコトで何とか帰国させるコトに成功する。
が、泥沼はココから。
「別伝とそれに従った僧を京都の総本山に訴えるのは待ってくれ」
と言う武家側。
「訴えるって人聞きの悪い。オレ達は事件を報告しただけだよ。別伝の処分は京都で決めるさ」
と耳を貸さない僧侶側。
終いには義龍、
「別伝が破門されたって、足利将軍に頼んで取り消してもらうかんな!」
と恫喝。再び犬山に出奔する快川ら禅僧一同。
しかもその際には
「美濃国主ったって、一国の主に過ぎないじゃねぇか。オレ達僧侶は三界の師として修行を積んでるんだ! お前とオレと、どっちが偉いと思ってんだ!」
という捨て台詞さえ残している。
天皇家、足利将軍家双方が義龍に味方し、伝灯寺保護の方針を打ち出す。
しかし崇福寺も総本山妙心寺も真っ向からこれに反発。別伝一味を破門と決定した。
天皇&将軍まで巻き込んで、武家VS禅僧という全面対立にまで発展してしまった騒動。
しかし、決着がつくのは呆気なかった。
一色(斉藤)義龍、急死。
そのどさくさにまぎれて織田軍が濃尾国境を荒らし始めた為、美濃中の武家がそれ所ではなくなってしまったのだ。
後ろ盾をなくした別伝、伝灯寺に放火を試みるも失敗。姿をくらました。
別伝に加担した禅僧の一人も出奔。後に京都の妙心寺に放火をしようとして門前にて人々に殴り殺されたという。
天皇&将軍&国主。全てを敵に廻しても俗界の介入を阻止した快川の良い話……なのかなぁ?
快川の言動もどんだけ傲岸不遜なんだよ、と思わんでもないし。
217:人間七七四年
10/04/06 13:37:58 aKP7ILVb
別伝も加担者もなんで放火するw
218:人間七七四年
10/04/06 18:48:10 WYgum1Dj
在地に根づいた宗教勢力は最強だぜえ
219:人間七七四年
10/04/06 20:15:16 +pcusfxy
河村秀定の大海老退治
斯波詮真の家臣に河村秀定という人がいた。
あるとき彼が主君の鷹狩に同行しある村に立ち寄った。
その村の沼には化け物が住んでおり、これがたびたび村人達に害をなしていたため、詮真は秀定にこれを退治するよう命じた。
秀定は沼に入り、身を枯れ木に見せかけていた大海老を退治した。
詮真は秀定の武勇を称え「この海老を食べよ。」と命じた。
主君の命とあれば食べないわけにもいかず、秀定は恐る恐る大海老を口にした。
すると非常に美味しかったので秀定は飽きることなく夢中になってその身を貪った。
それを見ていた詮真は「まるで鷲のようである。」と呟いた。
その後彼は「鷲内」の家号と知行を賜ったという。
220:人間七七四年
10/04/06 22:00:40 WYgum1Dj
沼に大海老・・
いや、ヌマエビっているけど、ちょっと変わってるな
221:人間七七四年
10/04/06 22:27:21 rSJcCWHR
まんが日本昔ばなしで大蟹を退治する話はいくつか見たが海老退治は初めて聞いたw
222:人間七七四年
10/04/06 22:32:52 4Za6E4vr
あとでスタッフでおいしくいただいてそうだ>エビ
223:人間七七四年
10/04/06 23:22:36 KZXHHT2O
>>201
ってか宗茂って秀吉に領地貰って以降の大名だけど
すぐに小田原、朝鮮と戦続きで自分の領地にいることの方が少なかったよな?
関ヶ原で領地喪失、大名に復帰してからも転々としてた上に
柳河に帰った後はほとんど江戸住まいだっただろ?
領地経営にどの程度関わってたのかな?
生活力の無さを考えると…
224:人間七七四年
10/04/07 00:32:35 tjrFaSEU
>>223
そのわりには手助けするから柳川から出て行かないでって領民から泣きつかれたって話があるんだよな
どういう人心掌握術もってんだろう
宗茂はそこら辺は無自覚だっただろうけど
225:人間七七四年
10/04/07 00:54:40 zEiSc4ri
>>223
よく考えりゃギン千代と子作りなんて物理的に不可能だな
種無しってわけじゃ無かったのかもしれん
>>224
他所から大名が来たらどうなるか分からんって恐怖もあったんじゃね?
佐々がなぁ
226:人間七七四年
10/04/07 06:46:52 opZPA0aA
>>222
ジャンボエビフライ食いたくなった。
227:人間七七四年
10/04/07 09:37:27 +YaKFDhO
>>215
ぜひわが国に来て欲しい すぐに来て欲しい 早く!早く!
228:人間七七四年
10/04/07 12:43:18 +O6JP4VX
>>223
立花ギン千代という有能なかつ忠実な留守居役のおかげじゃね?
229:人間七七四年
10/04/07 18:35:59 ngzajHIh
いい話かどうか微妙だが
ある日、福島正則のもとに中村一氏の子・一忠から、使者がやって来た。
「神部甚右衛門と申します。さて、早速ですが用件は・・・」
「まーまー、ンな事ァあとでも良いから、まず一杯やってけや。」
正則手づから大盃を与えられると、甚右衛門はグイッと一息に呑み干した。
「おおぅ・・・いい呑みっぷりだのぅ!せっかくだから、もう一杯どうだ?」
「いえ、どうせなら拙者からも福島様に、ご返杯差し上げます。二杯目は、それから頂戴しましょう。」
「いいねぇ、話せるねぇ!これが黒田のトコの野郎だと・・・」
(それはアンタも悪いんじゃ・・・?)
すっかり甚右衛門が気に入った正則は、一忠への返書でわざわざ、
『今後、当家への使者は必ず神部甚右衛門にしてほしい』とまで申し送った。
数年後、一忠が若死にして中村家が無嗣断絶との報が正則の耳にも入った。
「中村家は改易になったか・・・ならば神部甚右衛門は・・・なに、浪人中?よし、ウチで雇え!!」
こうして甚右衛門は三百石で正則に仕えることになった。
福島家中では、「ありゃ“昔のよしみ”ならぬ“酒のよしみ”だよなーw 」と苦笑したそうな。
でも呑み友って貴重だよね( ̄ー ̄)/[□ カンパーイ
230:人間七七四年
10/04/07 20:23:59 3W2LA3C6
とある戦場の超初陣
13歳になる少年が槍を抱えて戦場となるであろう柵の先を眺めていた。
この少年はこの戦が初陣である。今回の任は上司の護衛(戦眺め)である。
この少年、近所の叔父さんから槍術を習っており腕に自信があった。
そしてこの少年の部下(幼馴染)も腕に自信がった。
少年「こんな所にいては一度も刃を交えることなく戦は終わるやもしれぬ。
雑兵の格好をして前線に出てみないか?(゚Д゚)」
幼馴「べ・・・別にあんたの勝手にすればいいんだからねっ!ξ〃Д〃)ξ」
少年「殿!もっと近くで戦場を見たいのですが移動しても良いですか?」
上司「良いけど柵の向こうには絶対いくなよ!いいか!絶対いくなよ!?(;^ω^)」
そしてこの二人が雑兵に紛れ込んだ中、戦闘の火蓋が切って落とされた。
鉄砲の轟音が鳴り響く中敵が迫ってきた。少年等は攻めかかる敵部隊に突入した。
さてこの二人組みだが日頃の修行の成果もあってか雑兵をばっさばっさと薙ぎ払った。
少年は馬から指揮者を蹴り落とし、はぐれた雑兵をまとめて馬上より雑兵小隊の指揮までとりはじめた。
当然その少年に敵が群がってきた。馬上で指揮をとっていた少年、さすがにこれには苦戦した。
そこへ幼馴染が助けにきて敵を一蹴!
幼馴「勘違いしないでよねっ!あんたとの約束を果たしただけなんだからっ!ξ〃Д〃)ξ」
少年「すまねぇ・・・(゚Д゚)」
っとこの少年二人組、13歳ながら最前線で敵勢力と互角以上に渡りあっていた。
距離を置いて戦場を眺める大将の目にもとまった。
上司「あの小童凄いね!!どこの小童か調べてまいれ!」
部下「あー・・・殿、あれは今日殿のお連れした小童でございましょう。
戦が始まってから姿が全く見えませぬ。」
上司「なっ!なんだってー!?虎め!ここまでの器量持ちであったかっ!!」
っとここまでは良いが戦場から帰還後、上司にこっぴどく叱られましたとさ。
加藤清正の初陣風景である。
清正は賤ヶ岳が初陣じゃないよーってお話です。
叔父さん=前田利家
幼馴染=福島m・・・じゃなくて飯田覚兵衛
上司=秀吉
戦場=長篠
以上、戦前戦後の清正本(熊本の図書館にあった本)の中からの抜粋。
231:人間七七四年
10/04/07 22:25:00 fic8jgna
ボーイズラブ展開かと思ったのに
232:人間七七四年
10/04/07 22:26:39 Cw+v9GTE
>>229
酒関連の市松は輝いてるなw
233:人間七七四年
10/04/07 22:41:40 U6AMfh74
>>230
清正は13歳の頃から異様に背が高くて目立ったんだろうな
234:人間七七四年
10/04/07 22:50:56 ThbgsrWo
>>233
そのころからこぶしを口に入れられたんだろうか?
235:人間七七四年
10/04/07 23:18:40 AYQmmAEa
飯田覚兵衛は確かにツンデレ幼馴染キャラだわな。
「本当は武士なんてすぐやめたいけど、あいつにだまされてしょうがないからやってあげてるだけ」
236:人間七七四年
10/04/07 23:20:00 tjrFaSEU
>>235
そのエピソード好きだな
やめようと思ったのにそのたびに褒めるもんだから立場もあがってやめるにやめられなかったとか
237:人間七七四年
10/04/08 00:29:47 HCFOdgaQ
>>230
正則「僕達ずっと友達だよね?」
238:人間七七四年
10/04/08 02:57:59 vV7MKPoP
鳩山由紀夫が貧乏なら孤独なはず
スレリンク(alone板)
ワロタwww
239:人間七七四年
10/04/08 03:48:37 MRPfpf91
>>230
前田利家は加藤清正の叔父だったの?
240:人間七七四年
10/04/08 05:12:10 Wq7/rn8y
小父さんの間違いだろうな
241:人間七七四年
10/04/08 18:33:21 tLytfPMW
天正十三年(1585)、秀吉による四国征伐の結果、蜂須賀家政は阿波十七万五千石の太守となった。
そこで家政は先ず、要害堅固で知られた山城、一宮城(徳島市一宮町)に入ったのだが、ここを居城とせず
新たに平野部の吉野川河口に新城を造ることとした。
これを聞いた蜂須賀家重臣、武市信昆は諫言をする
「平地の城では一旦事が起こった場合、甚だ不利となってしまいます!」
蜂須賀家の防衛を考えた場合、当然の懸念であろう。
が、家政は笑って武市を諭した
「秀吉公の武威により、今から百年後までも世の中は泰平となり、武備の要という物も必要が無くなるだろう。
であれば地の利を頼むより、むしろ人の和を頼むべきではなかろうか?」
だからこそ平地に新たな城を造るのだ。
武市もこれに納得し、新城、徳島城の建設は始められた。その縄張りには築城家として有名な林道感と、
当の武市信昆が当たったと言う。
いち早く新たな時代の城を考えた、蜂須賀家政のお話。
242:人間七七四年
10/04/08 21:39:18 hFOEBrz4
>>241
その城の落成記念で踊りだしたのが、阿波踊りの起源ってことになってる。
243:人間七七四年
10/04/09 00:47:10 1DJJepGv
へええ、阿波踊りの起源なのかー
244:人間七七四年
10/04/09 00:47:48 XF2aXFKG
朝鮮起源でなくてよかったよ
245:人間七七四年
10/04/09 01:00:12 9N0nCcsm
>>243
あくまでも地元の伝承レベルの話だけどね。
246:人間七七四年
10/04/09 21:20:46 LqX89tP0
敵も認めた漢の褒美
前田利常の家臣平野弥次右衛門の従者に五右衛門という人物がいた。
大坂の陣の際、真田丸を攻めていた五右衛門は、主人である弥次右衛門の
楯になり、十八発もの銃弾を全身に浴びてしまう。だが五右衛門は
「なんのこれしき、かすり傷でござるわ!」と笑い捨てた。
五右衛門の剛気を称賛した真田丸の兵達は、
「名を聞かせ給え」と五右衛門に声をかけた。
「う……」だが五右衛門は困惑した。なぜならば、まだ名乗る姓を
許されていなかったからだ。これを見た主人の平野弥次右衛門はすかさず
「我が姓をつかわす!」と叫んだ。
これに五右衛門は胸を張り、大声で真田丸に答えた。
「われは平野弥次右衛門が下人、五右衛門である!
これまで御供したる褒美として、たった今、姓を賜って
平野五右衛門となり申した!」
すると真田丸から、平野五右衛門を称える祝福の拍手が
湧き上がったのであった。
殺伐とした戦場の中の、ちょっと良い話である。
247:246
10/04/09 21:23:35 LqX89tP0
前田利常、平野弥次右衛門、平野五右衛門でまとめwikiを検索
しましたが該当が無かったので。
もし既出ならスルーでお願いします。
248:人間七七四年
10/04/09 21:37:09 sEkh2D7v
>>246
( ;∀;) イイハナシダナー
仕える主は違っても主人に尽し、それを認められて名を上げた五右衛門に
豊臣方の牢人たちも思うところがあったんだな
249:人間七七四年
10/04/09 21:52:59 k+x927XU
>>246
良い話だなぁ…殺し合ってる敵が「すげえよ、アイツ!」って褒めるってな。
やっぱり平野五右衛門は、その後死んだのか?生きてて欲しい人物だ…
250:人間七七四年
10/04/09 21:55:47 UqIGOPxt
18発も撃たれて元気に返事する人間がいたらもう拍手するしかないだろ…
251:人間七七四年
10/04/09 22:08:13 rs11C9Mf
平家物語とかでも那須与一が扇に矢を当てた時に平家側から歓声が飛び交ったって話あるけど
戦国の世でもまだそういう戦いの中の矜持みたいなのは残ってたんだな
252:人間七七四年
10/04/09 22:35:50 snK3vSao
上はともかく、下の雑兵や奉公人達は、憎しみで敵味方になってるわけじゃないものな
253:人間七七四年
10/04/09 22:55:29 QIQ51sBJ
>>246
こういう話大好きw
254:人間七七四年
10/04/09 22:56:52 kbZT2Tcv
aa
255:人間七七四年
10/04/10 01:32:09 b/zDPPS7
こういう、お互いの武者働きを称え合うのが戦国の醍醐味・・・
だと個人的には思ってる
その後、特に名を残さなかったとしても、生きてて欲しいなぁ
256:人間七七四年
10/04/10 03:27:42 4N+coktv
ここにあるように松永と三好三人衆の間にクリスマス停戦が成った時のこと
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
この時停船中に宴を催した一団があった。
両軍のキリシタン武士たちである。
寄り集まった彼らは敵も味方もなく笑いあい、酒を酌み交わした。
そして夜もすがら遊び、翌日にはまた敵も味方に分かれて戦ったという。
この様子をルイス・フロイスはこう記している。
「両軍に属する武士約七十名は、忠誠、愛情、平和、一致の美徳を示して
敵味方一堂の家臣のごとき友愛と礼儀を持って語り合った。」
かつては同じ三好家中で同宗門となれば付き合いもあったのでしょうが
たとえ敵も味方となってもそれを忘れないいい話?
257:人間七七四年
10/04/10 07:06:08 YwqSSYxW
>>256
まあ、同じ宗派同士の連帯感…みたいな物かな?
昔の人はやっぱり祭日ってのを、大切にしてたんだろうし。
まあ正月にそれをやって(対陣中とは言え)地元に帰った奴等を皆殺しにした武将もいるけど。
258:人間七七四年
10/04/10 09:58:54 d8esvDzc
阿波踊りの話が出たので、戦国時代起源(?)の踊りで二話
享禄3年(1530)、大内義隆は九州の名族・少弐氏の息の根を止めるべく、筑前守護代の杉興運を討伐を命じた。
幕府から太宰大弐の官位を買い、侵攻の大義名分を得た大内氏に対し、既に本国・筑前を奪われた少弐氏は
悲壮な覚悟で戦いに臨んだが、たちまち劣勢に立たされた。
少弐氏配下の龍造寺家兼も、大内軍の朝日頼貫を討ち取ったものの多勢に無勢、ついに敵に取り囲まれ、
さすがの家兼も覚悟を決めたその時、
ヽ( ・(ェ)・ )ノ クマー
「!?」
ヽ( ・(ェ)・ )ノヽ( ・(ェ)・ )ノヽ( ・(ェ)・ )ノヽ( ・(ェ)・ )ノ クママママー
「な・・・なんじゃ、あの赤熊(シャグマ)どもは!?」
突如現れた赤熊(ヤクの毛を染めた兜・母衣飾り)に漆黒の鬼面をつけた謎の部隊が、大内軍に襲いかかった。
勝ち戦に気の緩んだ大内軍は、異様な軍団に横合いを突かれ、見る見るうちに陣を崩される。
「な・・・なんだかよく分からんが、我らも続けーっ!!」
このスキに体勢を立て直した家兼が反撃に転じ、形勢は逆転。大将の杉興運は、本国に逃げ帰った。
「助かった・・・それにしても、彼らはいったい・・・?」
疑問の解けぬ家兼の前に、赤熊軍団の将らしき者がやって来て、鬼面を外して一礼した。
「佐賀郡鍋島の郷士、平右衛門清久と申します。良将に仕えたいと考えておりましたが、龍造寺殿こそと思い
機会を伺っていた所、今日の苦境を拝見し、助太刀に参りました。どうか、家臣の端にお加え下さい。」
喜んだ家兼は、清久の次男・清房に孫娘を嫁がせ、鍋島家を重臣として遇した。鍋島の者は戦勝祝いに
赤熊の装束で練り歩き、それが元となって佐賀の無形文化財「面浮立」が生まれたという。
259:人間七七四年
10/04/10 10:03:28 d8esvDzc
伯耆羽衣石城主・南条元続は父の代に尼子氏に居城を奪われたが、吉川元春の後援により奪還に成功した。
ところが、天正7年(1579)、羽柴秀吉の中国攻めが始まると元続は毛利を離反し、織田家の配下となった。
元春はこれを憎み南条氏を攻めたが、堅城・羽衣石は容易に落ちず、やむを得ずいったん兵を退いた。
「見よ、『毛利に両川あり』と言われる、あの吉川が退くぞ!勝ち戦じゃ、それ祝え!!」
元続は戦勝の祝宴を催し、城下の民も浮かれ踊り明かしたが、その中にひときわ目を引く一団がいた。
♪ ∩∧__,∧∧__,∧∧__,∧
ヽ( ^ω^ )7ω^ )7ω^ )7 ♪ 此方のお庭を借り申そう ♪
/`ヽJ ,‐┘ ,‐┘ ,‐┘
´`ヽ、_ ノ 、_ ノ 、_ ノ
`) ) `) ) `) )
♪ ∧__∧.∩__∧.∩__∧.∩
r( ^ω^ )ノω^ )ノω^ )ノ ♪ 明年参ろう また参ろう ♪
└‐、 レ´`ヽ レ´`ヽ. レ´`ヽ.
ヽ ___ノ´`´_ノ´`´_._ノ´`´
( .(´ ( .(´ ( .(´.
.`ー `ー `ー
揃いの傾いた装束で拍子と鉦に合わせて踊り狂う一団に、元来踊り好きの元続も目を引かれ、城内に招いた。
その瞬間、
「かかったな、アホが!!」「き、貴様、吉川元春!おのれ、謀られたか!」
元春の合図で、踊り手に扮していた選りすぐりの吉川兵たちが、城内で暴れ始めた。
思わぬ奇襲を受けた元続は、たまらず城を捨てて逃走。元春はこの奇策による勝利を吉例として、
「南条踊り」と名付け、世に残した。現在では広島と、吉川氏が藩主だった岩国等に伝わる。
それにしても熊谷氏の戦力が欲しくてブサ嫁もらったり、秀吉を嫌うあまり隠居したりと
実用一点張りで融通のきかない元春が、この策のためにダンスレッスンとかやったりしたんだろうか。
260:人間七七四年
10/04/10 10:17:27 YwqSSYxW
>>258>>259
やはり戦勝祝いとか、祭りとかになると、気が弛みがちになるわな…
ベッキーが怒るのも無理ないか。
261:人間七七四年
10/04/10 10:30:58 jdKvYTxg
これか!
URLリンク(vision.ameba.jp)
南条踊り
URLリンク(www.youtube.com)
面浮立
262:人間七七四年
10/04/10 10:46:57 wLXN8v7o
最近、
吉川元春→秀吉大嫌いな猛将
小早川隆景→知将
というイメージから
吉川元春→秀吉大嫌いな知将
小早川隆景→ヒャッハー!最前線だー!
というイメージになった。
263:人間七七四年
10/04/10 10:49:59 AqSByoYJ
隆景のイメージは俺の中でもずいぶん変わったよw
知将→ちょっと我侭な感じ
264:人間七七四年
10/04/10 12:22:03 UXiLdQGO
ドコの家も
お兄ちゃん→お兄ちゃん
265:人間七七四年
10/04/10 12:50:16 Z6IT8yrQ
>>262
隆景の知将ってのは戦場でのものだから、
(ヒャッハー!はともかく)「最前線だー!」ってのは大体合ってると思う。
266:人間七七四年
10/04/10 13:03:29 JYAvZfbo
隆景は戦場に出る前に色々考えて準備して臨み
戦場で接敵すると何も考えずに突進する感じ
267:人間七七四年
10/04/10 13:20:52 7FoVZEct
>>264
どこの家も若貴兄弟みたいな気がする
いろんな意味で弟が特に
268:人間七七四年
10/04/10 13:37:11 WMDbevfH
隆元「・・・・・」
269:人間七七四年
10/04/10 13:59:51 8mRrF14W
池田家は長男がヒャッハーで次男以下が腹黒い
>>267
花田さんちは兄貴も別方向にDQNだからなあ
270:人間七七四年
10/04/10 14:30:46 md2ggl2E
流れに乗って小早川隆景の大胆エピソード
弘治元年(1555年)、陶晴賢は大軍を率いて毛利方の宮尾城を攻め落とそうとしてしていた。
この城は元就が晴賢をおびき出そうと厳島に建てた囮の城であり、彼の考えた策には絶対に必要な城であった。
「必ず勝機はあるからなんとか三日持ちこたえてほしい」
と城を守る兵に伝えたい元就だったが、連絡手段がない。
そこに隆景が進み出て「小舟が一艘、陶方の船にまぎれて往来しております。おそらく鳩ヶ浦に暮らす漁夫でしょう。
この漁夫を利用すれば城方と連絡がとれるかもしれません」
と言ったので元就は隆景に連絡を任せることにした。
隆景は漁夫の舟が陸に着くのを待ち、「何のために往来しているのか」と聞いた。
漁夫は「戦があろうとなかろうと我らは漁をして魚を売らなければ生きていけません」と答えた。
これを聞いた隆景は漁夫の魚を全て買い取り、そのほかに金を渡して宮尾城に運んでほしいと頼み込んだ。
漁夫が承知したので隆景は家臣二人を連れて魚を入れる船底に潜り込み、
息を殺して海を渡り無事に宮尾城にたどり着く事が出来た。
隆景の到着に宮尾城を守る兵士は大いに喜び、
「必ず援軍はあるから三日持ちこたえよ」という元就の言伝にたちまち士気が上がった。
この様子を満足げに見た隆景はまた船底に戻って帰った。
おわり
271:人間七七四年
10/04/10 14:45:41 TrhEww27
魚は毛利家がおいしくいただきました
272:人間七七四年
10/04/10 14:57:25 tTHBE+c5
「てっぽう」は陶軍に差し入れいたしました
273:人間七七四年
10/04/10 15:10:01 YJy7G/8P
もし船底にいるのが見つかって陶に殺されたら、戦国格好悪い死に方トップ3に入れるな
まあそんな死に方しないから名将なんだろうけど
274:人間七七四年
10/04/10 18:13:45 TppF+NRV
順序
九戸の乱の時、徳川家康は岩槻城までやって来た。
その時、家康は井伊直政を呼んで
「直政は急いで準備して、準備が終わり次第出陣してね。
すでに味方が出陣してるから、彼らと協力して頑張って」と命じた。
すると本多正信が
「待った!直政は重臣ですから、最初に行く事もないでしょう。
まずは直政の格下に指揮官を任せるべきです。
そいつがダメだったら直政を出陣させましょうぞ」と言った。
家康はこの進言に
「お前浅はかだね~。例えば、格下が失敗して次に格上が出るとするよ?
そうなったら面目を失った格下は討死するしかなくなるじゃろう?
そんな事で大事な家臣を殺しちゃダメよ」と言って反対したという。
275:人間七七四年
10/04/10 18:33:08 csMiMBqd
島原の板倉さんがモロにそれだったね
276:人間七七四年
10/04/10 18:36:23 7ytWGcpL
正信は政治謀略はすごくても軍事は苦手だよな。
277:人間七七四年
10/04/10 18:48:44 nI6RV+t9
>>275
板倉さんは、最初っから知恵伊豆が来るまでのリリーフが任務だったという話もあるけど、どうなんだろう
12月10日に総攻撃失敗して、その報告が江戸に着いて、信綱を増援に送ると決定して、その報が島原に着いて、面目を失った重昌が
1月1日に突撃して戦死して、直後に信綱到着ってのも、恐ろしいくらいスピーディな展開に思えるし
今川義元の戦死みたいに後付けで、愚かな死に様をさらした愚将という評価の理由づけにされたのだと、悪い話なのかしらねえ?
278:人間七七四年
10/04/10 19:21:20 PbBdslFh
>>276
ケしたいヤツがおったのやもしれん
279:人間七七四年
10/04/10 20:12:16 qDoJeGdX
>>260
尼子経久「正月も狙い目ですよ」
280:人間七七四年
10/04/10 20:14:21 YBCYJXhr
でも家康と正信だと、事前に示し合わせていたのかも、とは考えてしまうね。
「先陣は直政でいいんじゃね?」
「文句言うかも? 俺はそんな格下じゃないとか。生意気だし」
「じゃあ、カクカクシカジカで納得させよう」
とか
281:人間七七四年
10/04/10 23:26:19 d700YGXC
あの二人はいかにもそういう腹芸しそうだよなw
めんどくさい連中操縦法として
282:人間七七四年
10/04/10 23:39:08 FPIFzPjL
直政なら、家康が一言「先陣は任せたぞ」と言えば
たとえ火の中水の中でも突撃して行きそうなイメージだけど。
283:人間七七四年
10/04/10 23:56:07 l0EQq4xh
>>258
あの山向こうに鬼どもがー、いるとは一度も知らなんだ~、っと小学校の頃踊ったなあ
なんか鬼の面つけて敵を追い払ったのが面浮立になった、見たいな歌で知ってたけども戦国時代っていうのは当時知らんかったなあ
今思うともったいねえー
まぁうちの地域は浮立はあったけど面浮立はなかったから、面浮立はパチモンみたいなよくわからんこと思ってたのよな
284:人間七七四年
10/04/11 15:17:37 kl8Ohg+z
示現流開祖東郷重位の逸話
東郷重位が道場にある飯茶碗を畳に伏せ置いて、
「えいっ」
と声を発すると茶碗が真っ二つに割れたという。
給仕していた女がいうには、別段大きな声でも荒々しい声でもないらしい。
明治二十年の天覧試合で兜斬りを成功させた最後の剣客こと榊原鍵吉にもこれが出来たらしい。
気合いに自信のある方は試してみてはいががでしょうか?
私はやってみたけど割れませんでした…(当たり前か)
285:人間七七四年
10/04/11 15:52:51 GHk4PWF6
薩摩んごっチェストとかキェーィでごわはんか?
286:人間七七四年
10/04/11 15:54:09 08MgZLVw
それ多分目にも止まらぬ速さで抜き打ちしてるだけだよ
287:人間七七四年
10/04/11 15:59:42 bwKMpvld
>>284
まあ剣豪ならよくあることだな。
草深甚四郎みたいに、タライに水張って剣を振り下ろすだけで十里先の人間を切り捨てられる奴もいるんだしw
288:人間七七四年
10/04/11 16:01:21 gKLkMNa/
江戸時代の芸で似たようなのがあるけどトリックは
最初から割れてるのを糊でくっつけたのに細い糸をつけといて
気合いで割る振りをする役の人が叫んで注意を引いてる間に
仲間が縁の下とか壁の後ろから糸を引っ張ってまた割るらしい
289:人間七七四年
10/04/11 17:40:52 Fyd2D6aC
元亀元年六月、近江での織田と朝倉の戦いとあるから姉川の合戦の時の事か。
援軍として三河からやってきた徳川家康を交えて軍議を行っていた際、会議が一段
落したところで信長が口を開いた。
「いやぁ、それにしても三河殿、このたびは遥々近江までご足労いただいて真にか
たじけない。お礼の印として、この『槍』をお譲りしよう」
信長が従者に持ってこさせた『槍』を家康に手渡す。
「これは源家由来の品だから、三河殿に使っていただいた方が良いだろう。何を隠
そうこの槍、鎮西八郎為朝が使ったと言われる矢なのだ!」
「ほぉ、それはそれはかたじけない……………『矢』?」
「うん、『矢』」
キョトンとする家康。それを面白そうに見ている信長。
「『槍』のように見えますが……」
「鎮西八郎の矢はデカすぎる故、誰も使えぬ。それで試しに鏃を外して槍に仕立て
てみたら丁度良い大きさだったので槍とした、と当家に伝わっておる逸品。何なら
矢に設え直させるが?」
「い、いや……こりゃ矢としては使えませぬなぁ」
「ほぉ、海道一の弓取りでもムリであるか!」
”現在虎革で作った投鞘に収められている槍がそれである”とエピソードは締めら
れているので、逸話の信憑性はともかくこの槍、江戸中期には実在したようである。
それにしても信長、家康をからかって遊んでいるようにしか見えません。
戦の直前なんだけどなぁ……(^^;